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『しあわせな日々』と生存権
※年明けにFacebookに投稿した内容を加筆して掲載
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SNSの案件について容喙するのは面倒なので基本的にしないのだけど、思うところあってする。
古市憲寿氏と落合陽一氏が文學界で行った対談が話題になっている。
対談として普通に面白いので(まとめているのは橋本さんだ)、#3 まである対談を読むことをオススメする。
さて、上記が(本人らの意図を超えて)巷間で話題になっているのは、「財源」によって終末期の話が切り取られている、つまり、命とお金を天秤にかけ、「日本という国にはお金がないのだから、命を(ちょっと)我慢してもらいましょう」という話につながると読めるからなんじゃないかと理解している。
これを読んで怒る人の気持もわかる。
しかし、僕はあんまり怒れない。
僕の祖父は昨年末から寝たきりになっている。終末期医療は受けていないから医療費はそこまでかからないが、要介護4の認定を受けているので、介護保険から月に30万円ばかりの金額が賄われており、そのうちの半分にあたる15万円に税金が使われている。ついでに言えば、僕の母と僕が介護にあたっているので、1万円/日と見積もったとしても、30万円/月の「生産性」が失われている。
更についでに言えば、祖父は寝たきりになった当初「死にたいのに死ねない」と口にしていたし、週末だけしか彼に携わらない僕も、朝起きたら死んでてくれればこんなに楽なことはないのになあ、と思ったことも一度や二度ではない。ほぼ毎日である。
なぜ、彼は生きているんだろう?
彼は目もほとんど見えないし、耳も遠い、喋っている言葉を理解することも困難だ。そんな老人が、生きることに果たして意味はあるのだろうか? 子供と異なり、どれだけ世話をしても彼に未来はない。もしも、安楽死の制度があるならば、それを使ってもいいんじゃないかと思っている(その処置をしろと言われて、する自信はないから勝手なものではある)。
日本国憲法は
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」
と、国民の生存権を規定している。けれども、彼は身体的に「健康で文化的な最低限度の生活」を営むことをできない。じゃあ、それに対する「すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進」は「無駄」なんじゃないか。社会保障費も逼迫していることだし、ここは一つ……と考えるのは、「悪い」ことだとは言い切る自信はない。
この社会は、寝たきり老人の生存権を保障する必要はあるのか? あるいは、僕は彼が生存していることを肯定できるのだろうか?
閑話休題。
さて、何の因果か、僕はベケットの「しあわせな日々」という作品の再演を2月に控えていて、稽古をしている。
この作品は、腰まで丘に埋まった女とその夫の2人芝居だ。第一幕で腰まで埋まった女は、第二幕で首まで埋まってしまう。そんな中、女はずっと喋り続けている。
彼女の置かれた状況は、寝たきり老人のそれと変わらない。彼女は何も生産をしない。ただ生きて、喋っているだけだ。寝たきり老人とは異なり、消費はしないけれども、まるきり「無駄な」人間である。
僕は、この作品について、昨年の初演時から「政治的な作品である」と言い続けてきた。けれども、それはあまり伝わってないし、僕自身、じゃあその「政治」が具体的に何なのか、うまく説明できなかった。
どうやら、僕は、この作品を「生存権」を巡る作品として見ているようだ。
何も生産をしない、ただ無為に過ごすだけの人々(そして、状況はだんだんと悪くなる)、できることといえば日々の身支度か昔話をするかしかない人々を「生産性」で切り取るならば意味を見出すことはできない。じゃあ、どのようにして、彼女らの生存権を肯定することができるだろう?
この社会は、全ての人に人権があるということを前提にしている。でも、人権というのはどう考えてもフィクショナルな代物だ。じゃあ、近代社会として、このフィクションを擁護するなら、どのような方法が可能だろうか? ひとりの人間がだんだんと死んでいく姿を見ながら、そんなことを考えている。
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