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ニューヨークフェロー月報<1> アイデンティティと身体観

日本を出国して1ヶ月が経ち、だいぶ気持ちも落ち着いてきた。ニューヨークにいるのだから、どうしたってテンションは高くなるのが人情である。高まる情に棹さして流されるままハドソン川を上から下へ。インフレと円安に押しつぶされそうになりながら、シティバイクで摩天楼の下を東奔西走右往左往。ほとんど知り合いもいないこの土地では右顧左眄することもなく気ままにペダルを漕いでいく。おかげで若干の土地勘とふくらはぎの筋肉が形成された。

さて、この1ヶ月間に何をしていたかといえば、今回のリサーチにおける見取り図を描くことだった。それは、単純に、どこにどんなシアターがあり、どんなカラーの作品が上演されているのかを調べたり紹介してもらうだけでなく、そもそも、いったいどういう前提のもとにこの国が成り立っているのかを考えるものだった。

だから、ニューヨークに滞在する前、ワシントンD.C.に1週間弱滞在しながらひたすら歴史博物館に通い、(白人)アメリカ社会、黒人、ネイティブアメリカン、ラティーノなど、それぞれから見た歴史を概観した。 

そもそも、今回のリサーチテーマは「民主主義」である。この大きすぎる言葉は、人によって様々に因数分解され、例えば選挙や市民権といったこと事柄からこれを語ることもできるし、表現の自由から、あるいは市民活動からこれを語ることも可能である。しかし、アメリカに来て実感しているのが、これが個人のみならず集団と結びついていること。この国において、アイデンティティポリティクスと民主主義は不可分なのである。

「我々はこのような歴史を辿りここにいる」と表明し、社会の中でポジションを獲得する。ネイティブアメリカンを除き、全ての人々がかつて移民であったこの国において、それは欠かすことができない。これまで、長きに渡って白人男性が独占してきたこの歴史を語る権利だが、20世紀も後半になると、他のアイデンティティ集団に所属する人々もようやくこの戦場に参入することが可能になってきた。アメリカでは、サブカル育ちのジャパニーズ文系青年のように「アイデンティティがないのがアイデンティティ」(みうらじゅん)とは言ってられないようだ。

「アイデンティティ」というと、日本ではどうしても「わたし」に紐づくものと受け止められる。でも、この国ではきっとそうではない。アイデンティティは所属集団を巡る問題であり、集団によって歴史がつくられていく。ネイティブアフリカン歴史博物館に掲出されていた黒人詩人・ラングストン・ヒューズによる「I, Too, an America」という詩で使われるIは、個人としてのIではなく、集団の中に存在するIである。

白人男性にのみ「アメリカ」という歴史を語らせるのではなく、それぞれの集団がそれぞれの集団の歴史を語る。もちろん、ワシントンに博物館を持つのはナショナルな歴史に参画できた一部の勝ち組集団の歴史でしかない。アメリカには、きっと各州ごとに、各民族ごとに、各コミュニティごとに、無数の歴史が渦巻いているのだろう。

もしそうだとすれば、この国において民主主義とは、平和に仲良くするためのものでは全くなく、むしろ、不断の闘争状態を指すように思えてくる。そして、この見えない戦いを通じてその戦果が更新され、歴史が更新されていく。アメリカに来る前、アメリカの高校生が使う教科書を通じて英語の勉強をしていたのだけど、アメリカ社会において、なぜ憲法や最高裁判例をはじめ「書かれたもの」が重要視される傾向にあるのか不思議に思っていた。そこにはきっと「歴史が覆される」ということが体感として実感されているからこそ、現在はどのような歴史を前提としているかを共有するために文字であることが必要なのではないか。

では、そのようなナラティブを形成するために、上演芸術はどのように関わっているのだろうか? 

私は、一定程度、「身体」に興味があり、これを扱うことが上演芸術におけるひとつの本質であると考えてきたのだけれども、そのときに前提としているのは「私」や「自意識」と身体との関係であった。「私」は「私の身体」とどう関係しているのか/関係できるのか? けれども、ニューヨークという上演空間においては、もしかしたらそのような自意識と身体との向き合い方は、あまり顕在化しないのかもしれない。「私の身体」は、常に/すでに、私の所属集団を示してしまう。この場所において、私はアジア人でしかありえず、こんがらがっている私の自意識は二の次になる。妊娠中絶の違憲判決が象徴的なように、隙あらば、誰かが私の身体を支配しようとするのだ。

そのような社会の中で、わざわざ他者の前に身体を現すこと。それは、つまり、この戦場への参加表明であり、一種のデモと似た意味を持つ行為となるのかもしれない。いくつかのパフォーマンス系作品を見た限りではあるが、非白人は、一様に彼らの存在を通じて彼らのアイデンティティを表明していた。その一方で、白人層については、アイデンティティではなく社会問題について語る作品が多く見られた。一部だけを切り取っている状態なのであくまでも推測でしかないけれども、それは、白人のみが「アイデンティティを語らない自由」を享受しているという非対称な関係を描いているようにも見える。マイノリティ層は、アイデンティティの牢獄に閉じ込められているようにも見えてくる。

※例えば以下の作品は属性を強く主張する
アブロンズ・アーツ・センター

 
インビジブルドッグ

 
リンカーンセンター

範囲を狭めて、演劇の場合はどうだろう? オフシーズンなので、パブリックシアターが上演する夏のシェイクスピア野外劇での『ハムレット』および、ベケットを含むいくつかの実験演劇を見た限りなので推測の域を出ないが、そこでは、身体の表象をめぐる問題はもう少し牧歌的なように感じる。ポリコレ的な意味で、白人層だけでなく、舞台上に「多様な」俳優たちが起用されることは不可欠だが、彼らの身体がそれ以上の何かを語っているとはあまり思えない。それよりも、演技偏重といわれるアメリカの演劇シーンにあって、俳優の身体は演技術の体現の場という発想なのだろう。けれども、演技を語るうえでも「それは誰によって作られた演技術なのか?」「その発話の美学は何に依拠しているのか?」という反省が行われるのが自然だし、きっとそういう作品はあるのだろうが、残念ながらまだ出会えていない。きっとこれから出会うのだろう。


※他の地域において抑圧される声=VOICE=態が、この場所では表明できるという利点があることは特筆すべき事柄だろう。天安門事件の記念館は、香港からニューヨークへと移ってきた。


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Yuta Hagiwara
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