2/27 「70年代のフィル・スペクター」特集レポート(前編)
1/16に亡くなったフィル・スペクターを偲んで、「70年代以降のフィル・スペクター」を特集しました。60年代のモノラル盤大ヒット連発時代は諸先輩方にお任せして…
というのも、
ソニー・ボノ「フィルは1965年に終わった」
という言葉がある通り、フィル・スペクターの全盛期は一般的に1960年代前半とされており、死後言及されるのもほとんどがこの頃の音源なんですよね。そもそもが殺人事件を起こした挙げ句の獄中死なので、大手を振って追悼とも言いにくいようで。追悼ツイートマニアのリンゴ・スターでさえ今回はだんまり決め込んでました。「音楽に罪はない」裁判が開廷されたらこの男は最高裁までもつれるでしょう…
フィル・スペクター(一般的に語られる)全盛期
スペクター最初のヒット・ソングは、フェアファックス高校(ハーブ・アルパートやレッチリのメンバー、ガンズのスラッシュなどを輩出したLAの堀越高校)の同級生と結成したティディ・ベアーズの「To Know Him is to Love Him」でした。全米140万枚を超える大ヒット。
タイトルはスペクターが9歳の頃に自殺した父、ベンジャミン・スペクターの墓石に刻まれていた言葉を引用したもの。邦題の「逢った途端にひとめぼれ」が虚しく響きます。父の墓石の言葉、そして18歳での大ヒット。この辺りに、のちの屈折の原因がありそうです。
ティディ・ベアーズのヒットは結局この1曲のみ。スペクターは東海岸に渡りブリル・ビルディングへ。名作曲家コンビ、リーバー&ストーラーのもとで修行を重ねます。作曲家としてのスペクターは、楽曲に「フック」を作ることに長けていたといわれます。
その後はアトランティック・レコードやリバティ・レコードの仕事をしつつ、レスター・シルとともにフィレス・レコーズを設立。ゴールドスター・スタジオ(先述のティディベアーズを録音したスタジオでもあります)を根城にロネッツやライチャス・ブラザーズなど、大ヒットを連発します。
ここで留意しておきたいのは、ウォール・オブ・サウンドについてはもちろんのこと、フィル・スペクターはアルバム・プロデューサーではなかった、という点。時代背景もありますが、シングル・ヒットに全てを賭け、なんならB面はめちゃくちゃテキトーだったりします。
有名なロネッツのシングル「ビー・マイ・ベイビー」のB面は「テデスコ・アンド・ピットマン」というまさかのインスト・スロー・ナンバー。タイトルはおそらくレッキング・クルーのメンバーの名前を適当につなげたもので、ロネッツ一切関係ナシ!まあ、B面をテキトーにしておけば、ラジオDJは絶対にA面を流すという目論見があってのことなんでしょうが。後年も1曲単位では最強!でもアルバム1枚を完成させるスタミナには疑問符、という印象がついて回ります。
フィレス・レコーズの終わり
1965年あたりになると、スペクターの勢いもだんだんと衰えてきます。ストーンズやビートルズ、ディランが続々ビルボードHot100にランクイン、ややサイケで内省的なロック、そして少し先のアルバム・ミュージック時代の到来を予感させます。スモーキー・ロビンソン&ザ・ミラクルズやシュープリームスあたりのブラック・ミュージックも勢いがありました。
フィレス・レコーズの1965年はリリースが5枚と元気がなく、前年「ふられた気持ち」で大ヒットのライチャス・ブラザーズはきっちりスマッシュ・ヒットを飛ばしてますが、ロネッツは軒並み50位以下と見る影もなく…冒頭のソニー・ボノの発言にもつながるわけです。
で、起死回生を狙って翌1966年に制作したのが、アイク&ティナ・ターナー「リヴァー・ディープ・マウンテン・ハイ」でした。膨大な時間と予算を割いて、ティナ・ターナーの超絶歌唱とそびえたつ音の壁の真っ向勝負といったハイパーな楽曲でしたが、これまでスペクターが散々バカにしてきたラジオDJからの復讐、プロモーション先で逮捕される(拳銃の不法所持)アイク・ターナーなど、楽曲とは関係のないところでの障壁もあり、全米88位の惨敗に終わります。
ところがイギリスではこれがウケて、一時期3位まで上り詰めるヒットとなります。アメリカでは売れないけどイギリスでは売れる、この構図は何度も繰り返されますが、イギリスが少しスペクターを甘やかしすぎたのでは?と思うほど。この辺りにもスペクターがスタイルを曲げられなかった原因がありそうです。
スペクター、A&Mへ
その後のフィレス・レコーズは開店休業状態。1967年1月には音響的片腕だったエンジニア、ラリー・レヴィンがゴールドスターを退社。完全にやる気を失ったスペクターは、映画作りに首を突っ込んだり、旧友ジェリー・ゴフィンとバイク乗りに興じたりと、隠遁生活を送ります。音楽業界のドラッグ禍を嫌った、という説も(一度LSDに手を出したときに、亡父の幻影を見てしまったとか…)。
映画作りの方ではデニス・ホッパー監督「イージー・ライダー」にヤクの売人【コネクション】役で出演。独特な存在感をスクリーンで放っています。
(こんだけ手慣れてて、ドラッグ禍を嫌うとか、あるのかよ〜)
この時期のスペクターは、音楽制作との関わりは数年途絶えていたとはいえ、西海岸ではまだまだカネのなる木として扱われていたため、レコード会社からの勧誘は絶えなかったのです。
そんな中スペクターが選んだのは、A&Mレコード。イージーリスニング的なA&Mの社風とスペクターは水と油の関係に見えますが、元ゴールドスターのエンジニアラリー・レヴィンがA&Mで働いていたこと、しかもレヴィンが設計しゴールドスターに倣った新しいA&Mスタジオを建設していたこと、インディ・レーベルの立場からメジャーに対抗するA&M社長ハーブ・アルパート(フェアファックス高校の先輩でもあります)の精神に共鳴したことなどから、スペクターはA&Mとの契約を決意します。
レスター・シル「(A&M入りを知り)また誰かを利用するつもりかと思った」
かつてフィレス・レコーズを追い出されたレスター・シルはこんな恨み節を吐いていますが、A&Mを選ぶだけの理由はあったんですね。
A&Mとの仕事ではリリース枚数こそ少ないですが、1969年のチェックメイツ・リミテッドの「ブラック・パール」(ソニー・チャールズ&ザ・チェックメイツ・リミテッド名義)で13週連続チャートイン、最高10位と才能が錆びついていないところを見せつけます。
スペクター曰く「黒人音楽への恩返し」(本当かよ)のつもりでチェックメイツと契約したそうです。手法としてはライチャス・ブラザーズ「ふられた気持ち」と似通っていますが、スタジオが代わり、モノラルからステレオになったことによりスッキリした印象です。
ヒットこそしていませんが、同時期のロネッツも素晴らしい出来栄えです。あの頃のロネッツ!
チェックメイツ・リミテッドに関してはアルバム制作も進められていましたが、メンバー間の諍いもありスペクターが興味を失い、ベリー・ボトキン・ジュニアが尻拭いしどうにか完成。その1曲目が「フェイク・スワンプ(byトニー・ジョー・ホワイト)」とも称されるCCRの「プラウド・メアリー」だったので、黒人音楽への恩返しとはなんだったのか、ランブル一同ズッコケ、というお話でした。
そんなゴタゴタを差し置いて、スペクターは一路イギリスへ!もっともっとデッカイ仕事が彼を待っていたのです。70年代に入らないまま、後編に続きます!
次回は3/22 (月)「ランブル春のセンバツ合唱コンクール」
3月のミッドナイト・ランブル・ショーのお知らせ。
コロナ明けにやりたいことランキング第1位との呼び声も高い「合唱」。ハーモニーの重なる瞬間は何事にも代え難い喜びです。
今回のミッドナイト・ランブル・ショーは、古今東西のコーラスグループが時空を越えてしのぎを削る「合唱コンクール」。頂点に輝くのはニュージャージー代表フォー・シーズンズか、西の雄ビーチ・ボーイズか、それともキッズ部門のブラディ・バンチ!?合言葉は「観たい・聴きたい・ハモりタイ!」さあみんなで、レッツ・シンガロング!
2021年3月22日(月)
ミッドナイト・ランブル・ショー#61
「春のセンバツ合唱コンクール」
オープン 18:30 / スタート 19:00
出演:谷口雄、吉村類
料金:チャージ 1,500円 (1ドリンク, スナック込)