永遠が通り過ぎていく
映画は苦手だとずっと思っていました。
だから、観てから何度も何度も、日常でふと記憶が立ちのぼってきて思い出す映像作品に巡り会えるなんて、思っていなかった。
思い出すというよりもずっと考えている、ストーリーがとかこの台詞がとかはとっくに超えていて、この作品が作品の形で存在することそれ自体がどれほどのことなのか。日を追うごとに、しみじみと感動が深く広くなっていく。永遠が通り過ぎていくという作品を「映画」という位置付けで観せてもらったことで、わたしの映画コンプレックスに切り込みが入りました。ほんとうにうれしいことだった。
魂が写っていたの。これはほんとうにすごいことだとおもう。映像を紡いで紡いで作品にするまでをした人たちの魂が、そこにあって、スクリーンに見えていて、わたしの心に直接見えていたこと。洗練されているのにどこまでもありのままむき出しのまま、そこに在ったこと。
いちばんは、映像を紡ぐ以前の、この映画を撮ることを決めた戸田真琴さんのこと。作品のかたちになるまで想いを遂行した戸田さんのこと。ほんとうに烏滸がましいけど、わたしには戸田さんの覚悟と勇敢さと愛と祈りが、魂が、写っていたように見えた。
わたしが映画が苦手なのは、映画への心の開き方が、未だによくわからないからだと思う。でも、文章や言葉を読むとき、書いたひとの心に乗った言葉を受け取るとき、とくに(大好きな!)戸田さんの言葉を読むときの私は常に心を開いていて、だから、戸田真琴監督の永遠が通り過ぎていくは映画だけど、すんなりと心を開いた状態になることができて、心と心で観ることができてしまった気がした。映像作品とこんな関係性になれることなんて今までいち度もなかったことで、でも私は言葉以外にも映像作品でも本当はずっと、心を開いて、社会性とは全く切り離した、心としての心、それには日常を生きるにつれて自然と少しずつ厚くなるヴェールのようなものがいつもは掛かっているけれど、それをすっと全部を取り払った剥き出しの心で、向き合うことをしたかったのだと知った。
苦手といいながらもわりと映画を観るのは、ほんとうはこれをしたかったし出来る映画作品に出会いたかったのだとわかった。でも映画の形で魂の対話ができる作品をつくることって、ほんとうに簡単なことじゃない、それはこの映画をみればわかることだった。
戸田さんがすき。真剣で、勇敢で、本当に可愛い方でした。
生きてこられてよかった、ネットの海で戸田さんの言葉と巡り会えてよかった、この人生だったから、できたこと。この人生でよかったと思えた。まだ諦めなくていいかもしれないと思ってしまう。私も私のやり方で、体内に有り余りすぎている愛を全うする勇気をもらったきがした。しあわせな夜だった、まこりんかわいかったな、あんなに幸せな気持ちで泣きながら夜の池袋サンシャイン通りを歩く帰り道は2度とないだろうな。
いつも、そのまま晒してあげられない心にごめんねと思った、心を晒して生きるだけで傷だらけになっちゃうのは、どうしてなのかな、でもそれしたいって、おもっちゃうから、やっぱり。そうだよね
永遠だと思ったけど永遠にできなかったたくさんのことを想った。でも永遠にしたかったけど永遠にできなかったなと過去に馳せる私の想いは永遠だと思う、今はそれで十分かもしれない。