うっすら嫌いな自分を救い出すのはエンタテインメント
ノートに書く日記に近い記録。こんな感じの脳みそらしい。
やはり私はまだうっすら自分のことが嫌いだ。そんなことは誰に話したくも無くて、誰の受容も否定も必要としていなく、内向すぎる自分をばかにする。まあネット上に書いている時点で…、ダブスタ的な…、どうかと思っている。その愚かな自分のまま、ただ自分を受容する方がよいことは分かっている。うまくできないからまた、おぼろげに脳にこびり付く自己否定は、自分を疲れさせる。ChatGPTに話せば、「今に集中するとよい」と言う。運動、瞑想、食事、それが良いのも知っている。前向きな親は何の気もなく「楽観的な方がいいよね」と言う。だからって自分の悲観さは伝えていない。そうだよね、そのほうがいいんだってわかっているよ。人を肯定する。人を肯定するとなぜか困ったことに、自己否定につながる。あなたがすごければ、私はすごくない。楽観的な人の方が「いい」なら、私は「だめ」。客観的に考えると、そんなわけがない。思考がそう接続するのが論理的におかしくね?そうだよな。今に集中し「なければいけない」と思うと、また疲労する。お~、こわいね。疲れてる?まだ疲れてるの?寝てばっかりなのに!?他人の良い部分はいくらでも見つけられるのに。ちょうどいい場所を探したい。頭でっかちで、空想にばかり飛んでいく私の全部って、ほんとばかみたいだよな~。などと思いながら、近しい人にすらなにも言わないことを選んだ私は、インターネット上にこんな文章を書いて、そのあとで、自分を救うためにエンタテインメントに縋る。
ふと、今朝、「映画がみたい」と思った。
いますぐみたいと思った。
いや、正直に言えば別にいまの私はみたいわけじゃなかった。
体は寝ころぼうとする。でも、年末の自分はたしかにみたいと強く思っていた。過去の自分がなんでそう思ったかさっぱりしれないけど、過去の自分の感性を信じてみようと思った。いまは、2025年1月17日朝10時30分。近くの映画館まで徒歩約20分。上映時間は、11時25分と14時のものがあった。ゆっくり動くならば14時、でもいま間に合うはずで、自分を救うなら早い方がよいはずだ。わからないけど、たぶん。そこまで思い当って、久しぶりに外着に腕を通して高速で軽いメイクをした。あまり思考を動かさないまま最低限の荷物を持って外に出た。1月13日にコンサートへ出かけてから、転がり続ける毎日を送っていた。時の流れがおかしい、早いのに時間の感覚がなくて、遅い。まだ疲れているみたいだ。相当休んだのにね。でも、いまの私はエンタテインメントを動力にするのが一番いいんだろう。でなければおそらく寝転がってばかりだ。ふしぎなことに動くのにすら、気力がいる。面倒なのか、動けないのか、正直言えばわからない。
久しぶりに早歩きをした。1.5㎞程度の道のりを。いつもどこか別の場所に行くときは、15分前行動くらいで動いているけど、時間はあまりにギリギリだった。ギリギリで動くこともできるじゃんって逆に自分をほめてみたりする。映画館には、平日の朝だというのに無数の人がいた。どうしてここにいるのかはそれぞれにせよ、わざわざ買ったチケットを握りしめて人はここにいるわけだ。いまはオンラインで映画のチケットを購入するから、比喩表現としてだけど。
2,000円で手に入れた2時間弱、暗闇の中、私は私をたしかに忘れていた。
誰かが本気で作ったうつくしい虚構は、過去も今も未来も全部吹き飛ばしてくれた。たった2時間、物語の世界に没入した私はその時間だけ救われる。
そのあと、思考を止めて、映画館が入るショッピングモールを彷徨った。買ったのはまた、縫い針とかペンライトを収納する箱とかさ。あとカッター台!何やってるんだろうね。生きるのには必須ではないものばかりだ。夕飯どうするんだよ。でも私は私に快を提供した方がよい、たぶん。傷つけてばかりではしょうがない。関係ないけど店員さんに対して会計するのが苦手なんだよな。いつもそれだけが苦手で躊躇する。とくに店が混み合っていて現金支払いが伴うときは思考が真っ白になったりする。ほんとうは現金ならもっと小銭をぴったり出したいし、ポイントカードだってできれば提示したいのに、私が私を「邪魔だ」って急かす。「お前がそこに居ると邪魔だ」と勝手に思っている。「大丈夫です」は口癖のように口から出る。突発的に居もしない背後の誰かに謝って、想像上で急き立てられるのは、疲れる。そんな自分がやっぱり嫌いで、よう社会に出てたわ~と思う。鎧着てたんだっけ。着てた気がする。鎧壊しちゃった?ウケる。どうやって作ろうか。「みんな着てるんだよ!」って遠い自分が言う。甘えんなって?そうだよなあ。みんなって誰だよ。だから通販とかオンライン決済とか、セルフレジって便利だよなと思っている。
そんなこんなで今日も食事も睡眠も生活も仕事も忘れそうになってさ、買いたいと思うのはエンタテインメントばかりなんだよ。どちらかに片寄ることが良くないのはわかっている。だから、いやだけど、私は生活をする。これからまた歩みだす前にいまはまだ、夢見がちなままで。いや、生まれてこの方夢見がちでないことはなかったよな。夢見がちな自分は昔から嫌いなんだよな。どうして人間としてすべきことができないのか。みんなができることがふつうにはできないのか。でも、私は物心つく前から夢見がちだったろう?学生の時だって、ずっとそうだった。あの時は生活を家族に依存していたからもっと虚構に片寄っていたわけで、じゃあまだ今の私は絶対評価ではマシなほうだ。過去の自分が稼いだお金を消費しているだけ。誰に迷惑をかけるわけでもない。きっとマシだ。良くなってるって信じて。「生きるのには多少無駄なもの」だけが通販の購入履歴に残ってゆく。無駄なわけないって、無駄なことだって生きてゆく私には必要だって、信じ込んで。
だからありがとう。(だからってなんだ???)
とにかく、本気でエンタテインメントを創り、私へ届けた人たちへ。だいすきなアイドルたちへ。それを支える人たちへ。いつもありがとう。
ほんとうは依存したくはないけれど、分散も自立というのなら、私は過去も今も、エンタテインメントに肩を預けている。誰に言えるわけでもないけれど、あなたたちは確かに私を生かしてくれている。
私もほんとうは、あなたたちのようにありたい。
あなたたちに支えられるだけではなく、前に進んで輝くあなたたちのようにありたいよ。この一歩がまた、人として生きる動力になりますように。私が私のことを何も考えない時間が少しでも増えますように。人にやさしくあれますように。自分にもそこそこ優しくあれますように。あー、誰も私のことを心配しませんように!
そういえば、気の置けない人と過ごす時間も自分のことを考えずに済むんだよな。うん、大丈夫だよ、私は総合的に言えば、この文章よりは悲観的じゃないよ。だってこれはそのままのジャーナリング的な感じだし。
音楽でも聴いて、こんな文章を書いて、今日はエンタテインメントに浸かって。おなかがすいたかも、必要そうだから夕飯でも食べて。
よく眠って、明日は裁縫でもしようかな。