行ってみてもおもしろいかな、で入社を決意
MNH小澤です。 今回から、私がMNHに関わりだした頃、そしてそこから今に至るまで たくさんの経験と失敗をしてきたので、それを少しずつ、書いていこうと思います。
今あるMNHの姿、これから作られるMNHの姿は、 その過去があるからできているんだということを一度まとめておこうと思ったのです。
とにかくいろんな事をやってきました。 そしてたくさんの失敗もしてきました。 「MNHらしさ」を形作るモノは何なのか、そんなことを見直したり確認したりするためのエッセイです。
今思えば、あれはただの雑談だったんじゃないかとも思う。
そんな面談だった。
2010年の8月の終わり、うだるような暑さだった。
創業2年目のMNHは、事業立ち上げのために人を探していた。事務所で会議テーブル越しの菅会長(MNHの当時の社長)が、ぼくに話をしてくれた。
すでに雑貨メーカーの経営に成功していた会長(*1)だったが、日本のビジネス構造にある疑問をいだいていた。中国で安く生産したものを日本で高い値で売る。それが日本の生産空洞化をまねいている、と。
「ある意味ぼくもそれに加担しているって言えるよね。でもそれでいいのかなぁと。ぼくの生まれた仙台は、昔は繊維産業が盛んだったが、今はどんどん工場がなくなっている。過疎化していく街なかで、何とかしたいという若者はいるんだけど、なかなか難しいみたいなんだよ。
それに対してぼくの培ってきた商品開発のノウハウなどを提供したら、おもしろいイノベーションが生まれるんじゃないかと思って」
そして新しく経営しはじめたMNHでは、今までとは全く別の“ソーシャルビジネス”をやりたいんだ、と語った。
それを聞きながら、ぼくは自分が所属しているNPO(*2)のことを思い浮かべていた。そのNPOの組織には、いろんな意味で限界を感じているときだった。
ひとつ事を進めるのにも、船頭さん(いわゆる理事)たちの過半数の支持を得ないといけない。事務局をたったひとりで担っていたぼくは、そんな歩みの遅い組織にとてつもない窮屈さを感じていた。
変えたくても変えられない。でも8年も働いたので何か成果は出したい。そんなジレンマに陥っていた。
「ソーシャルビジネス」
「若い人が地域貢献しながら食べていける」
会長のはなつそんなキーワードに、ギリギリな働きかたをしていたぼくは、はからずも反応をした。わりとおもしろいんじゃないか、という気もした。
後日、会長と引き合わせてくれた多摩信用金庫の知人にその感触を話すと、「あの人は短気だから、行きたいならはやく返事をしたほうがいい」とアドバイスをされた。
それもあって、「行ってみてもおもしろいかな」くらいの思いではあったものの、一週間後にぼくは入社の返事をしていた。
(*1)菅 喜嗣会長は大手生活雑貨メーカーのノルコーポレーションの創業者である
(*2)NPO 法人チェロ・コンサートコミュニティー
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