江戸時代の絵画と色
キリスト教の布教を恐れ、中国と朝鮮、オランダ以外の国との交流を絶った「鎖国」の時代。
江戸幕府は3世紀にも跨いで続き、国内の文化は幕府の政策等に影響を受けながら熟成されて行きます。
物量が多いため、ここでは気になったものを
絵画・工芸等の大きく2つに分けて触れます。
今回は江戸の絵画について、
色彩の視点から掘り下げて行きます。
(やや脱線あり)
○琳派
戦国時代が終わり情勢が安定してきた事で、
平安の貴族文化への憧れが生まれ、
上品で趣のある装飾表現が好まれるようになった事がきっかけにある。
従来の狩野派様式(金色を生かしたコントラストの強い配色や大胆な構図)が、
江戸時代に「琳派」という形で派生された。
狩野派が完全に絵画分野であるのに対し、
琳派は絵画に限らず身近な生活品などにも
反映され、装飾美術としての側面を持つ。
屏風絵はもちろん、硯箱や書物、茶器、小袖など
様々な生活工芸品の意匠として広がった。
この動きは当初、江戸の相阿弥光悦や俵屋宗達から始まったとされる。
光悦は代々刀研ぎの家に生まれ、教養が幅広く、多くの物作りに携わった。
俵屋宗達は謎多き絵師として知られるが、
風神雷神図屏風など、後世の「琳派」発展へつながるインパクトのある作風を生んだ。
日本や中国の古典美術を研究し
色彩感覚や技量を豊かに備えていた。
光悦とともに古典文学の挿絵や装本を
数々手がけた。
そして彼らに影響を受けた形で尾形光琳が登場。
従来の装飾的な様式に光琳独特の作風が加わり、
簡潔で洗練された画面が生み出された。
屏風絵などの他、弟で陶芸家の尾形乾山との合作で絵付けにも携わった。
さらにその約100年後の幕末、江戸の画人 酒井抱一が
宗達や光琳の作品に影響を受け、「琳派」としてこの作風を確立させた。
遺作展を開いたり作品集を刊行するなどし、新たな分野として流行らせた。
抱一自身も作品を多数残し、弟子の鈴木其一とともに江戸で発展させた
この系譜を「江戸琳派」という。
○未知の絵画表現
18世紀の京都では、伊藤若冲を中心として絵画の斬新さを求める動きが生まれた。
若冲は当初狩野派に学び、中国古典絵画を研究したが、写実表現の重要性に気づき、その方向を極めるに至った。
動物等の正確な描写と斬新な画面構成で
印象深い作品を多数残した若冲だが、
その制作意図には仏教や禅宗への
忠実な信仰精神があるという。
さらに同時代の京都では
長沢蘆雪や曾我蕭白、円山応挙、呉春などが
活躍し、かつてない写実表現や奇想な作風が多く生まれた。
この流れには当時の京都の文化的背景があったという。当時の中国は「狂」を尊ぶ精神があり、
京の文人や世俗はこれに影響を受けていた。
狂いはマイナスイメージがあるが、
逆に言えば人が物怖じしてしまう物事へ果敢に挑む気概がある状態として、孔子の哲学などで称えた。
この考え方が浸透し、絵画界隈において
既存の美を打ち破る勢いを与えたと思われる。
また、禅宗寺院が文化の拠点として関わっており、狂や禅の思想が反映された独特の画風につながっている。
この他、展覧会や祭典など作品を披露する機会が多くあり、人々の目を惹きつける事に力が注がれたという見方もあるようだ。
◯浮世絵
まず、浮世とはなにか。
元は「憂き世」と書かれ、辛く悲しい世の中という意味で、平安時代ごろからある考え方だった。
その後、戦国時代が終わり疲弊した人々の間で
「この世は無常で儚く、移ろうもの。
人の生もいつか必ず終わるのだから、
どうせなら遊び浮かれて生を満喫しよう」
という考えが広がった。
「憂き世」は「浮き世」として当て字変換され、
時代の移ろう今(過去ではなく現在のこと:ファッションや役者、遊女など)を表した版画や肉筆画が多く生み出された。
日々を明るくし、気楽に楽しめるものとして
庶民に多く愛された。
そんな中、錦絵は18世紀の後期に生まれた。
複数の版木を色や形ごとに分け、1枚の紙に重ね合わせて刷るために「見当」を用いた多色摺り版画。
瞬く間に市場拡大し、色とりどりで斬新な作品が多数作られて行く。
また、ベロ藍(プルシアンブルー)という人工染料が西洋から伝わったことで、錦絵表現は飛躍した。
それまで日本の青は自然染料しかなく、色落ち(退色)が著しいため、作品で用いられることはあまりなかった。
ベロ藍は退色が少なく発色豊かで、
また自然豊かな日本風情を表すのにもぴったりだった。
渓斎英泉、葛飾北斎、歌川広重、国芳などに
台頭し、ベロ藍を用いた作品が多数生まれた。
海や川に囲まれ、水が豊かな日本の風景を表すのに青の人工染料はうってつけだった。
青が使えなかった事が錦絵においていかにハンデだったかは、以前の作品を見ると分かる。
葛飾北斎は、ベロ藍が伝わる以前にも海の風景版画を制作した。
だが、海の部分は墨摺りの黒で波の線だけを
表すので精いっぱいだったようだ。
私たちが眺める風景はほとんどが
青ありきのもの。当時の人々の環境は現代よりも見晴らしが良かっただろうから
青をより美しく感じられたはずだ。
それだけに、青を作品に取り入れたい願望や
もどかしさは大きく、
常に苦渋の種だっただろう。
歌川広重も同様に、
ベロ藍によって作風が花開いた。
代表作である東海道五十三次之内は、
ベロ藍ありきでシリーズ制作されたものだ。
これらベロ藍を用いた作品群は
当然ながら、構図、配色全てが
青ありきのもの。
青と似た色相にある緑や黒っぽい色を多く配置し、対比色の黄色系や赤系の色をポイントで置いて引き締めたような画面が多い。
また青は後退色とも言われ、
赤系の色が前進色であるのに対して
風景が遠ざかって見える効果がある。
それが、平面的な錦絵に空間をもたらし
描かれた風景がより美しく見える効果が出た。
狩野派などに台頭する黄金ブームならぬ
青のブーム。
もしベロ藍が伝わっていなかったら
西洋のジャポニズムもあれほど流行らず
ゴッホなどの浮世絵に影響を受けた画家は
また違う展開を見せていたかも知れない。
◯奢侈禁止令
江戸時代中期ごろ、奢侈禁止令という倹約を義務付ける令が多く出された。
それにより、江戸の人々は生活の中に地味で控えめなデザインを取り入れ、「粋」と呼ばれる美意識があらゆる場面で育まれて行く。
色使いは、茶色や鼠色といった地味な色が流行。
人々は制限のある中でも最大限工夫しようと、
茶人や役者など、著名人のイメージにちなんで
彩度の低い茶色から様々な色種を生み出し、楽しみを増やしていた。
「粋」の感覚はどちらかといえば小袖のデザインに分かりやすく用いられているが、琳派や錦絵などの絵画からもその影響は大いに感じられる。