沖田瑞穂『怖い家』
「家」は最も内密な空間だ。そして内密であるからこそ、そこには最もリアルな肌触りの不気味さが宿るー「家にはさまざまな想いがひしめく。そこは人々が住み、出かけては帰ってくる場所だ。しかしそこにはまた、実際にはいないはずの存在も棲みついていることがある」。
家とは「境界」である。内密さとよそよそしさの境界、自分と異物との境界、この世とあの世との境界……。
沖田瑞穂が神話学の観点から、神話や民話、さらに現代のフィクションや都市伝説に至る膨大なソースを博捜して、「家をめぐる恐怖」の諸相を論じる。
家を舞台とした恐怖譚や都市伝説、ホラーは数多くある。家は怖い。神話学的な観点から見れば、家は「生み出し」、「育み」、「呑みこむ」という機能を普遍的にもつ。それらは女性の生理的機能と重なる。
家の何が怖いのか。特に「呑みこむ」という機能ーすなわち生命を呑みこみ、死を与える面において、家は怖い。家は女性、特に母性のもつ負の側面ー閉鎖空間に閉じ込めて、人の自立を阻み、ついには死へと引きずり込むという怖さの象徴なのである。
閉鎖空間に閉じ込められるー胎内から出られなくなることーそれは過去に引き込まれるということを意味する。
内密さが自分にとって甘く好ましいものであれば、それは恐怖を呼び起こすことはない。内なる空間がそのまま自分にとって禍々しい異界と繋がっており、生が死に裏返るー家がそのような「境界性」をもつからこそ、家は恐ろしい。
家は胎内の象徴であり、生と死とを媒介する境界である。家はだから、女性の「育む」側面と「呑みこむ」側面との両義性をはらんでおり、だから「居場所」であり、同時に「牢獄」でもある。
女性自身が、家を「巣」として棲まうと同時に、家に縛られる。家に縛られた女性は、そこを訪れる男を「呑みこむ」。この両義性が、神話や昔話の「怖い家」ーイザナミの黄泉の御殿や、山姥の家、グリム童話の魔女の家ーのリアリティを支えている。
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