目的は何もしないでいること
端的に、誰もが、忙しすぎるのである。単純に、まずは、忙しさを手放すことから始めねばならない。そうは言っても、もちろん、生活から離脱するわけにはいかない。さて、どうすればいいだうか。
ひとつの答えは、無駄なことに心を開く、ということだ。
何でもいいが、何か無駄なことをやった瞬間、そこにぽっかりとヒマが現れる。
朝、起床前、ベッドで雨の音を聴けば、そこにヒマが現れる。
通勤時、一駅前に降りて歩いて会社に行けば、そこにヒマが現れる。
ほんの一分でもいい。無駄のコツをつかめたら、あなたはもうヒマ人だ。
やることがたくさんあっても、ヒマ人になることはできる。逆に、やることのない休日ですら、何もやらないまま忙しくしている人間もいるだろう。恐らくは、今のあなたがそうではないか?
いいだろうか。忙しさからは何も生まれない。何かを始めるためには、まず、ヒマ人にならなければならない。
ヒマ人は、ヒマだから、ヒマだな、と呟く。
「ヒマだな」ーそれが自分自身の声だ。ヒマ人になれば、自分自身の声を聞くことを覚える。
そのうち、自分自身は、いろんなことを話しはじめるかもしれない。
それが、あなたの「やりたいこと」だ。
「やりたいこと」は、自分で見つけようとしても、けして見つからない。「やりたいこと」は、自分自身に教えてもらうしかない。その声に耳をすますしかない。
でも、自分自身は、ただ黙ったままでいるかもしれない。そうであれば、しめたものである。あなたは「なにもやりたくない」のだ。
いいではないか。べつに、なにもやらなければいいのだ。なにもやらないでいることは、けっして虚しいことではない。
散歩することは、いつも、たったひとりで宇宙を散歩することだ。この感覚が身中に溢れている限り、おれは、All OKだと感じる。
金を稼ぐのも、本を読むのも、言葉を吐くのも、誰かを愛するのも、この感覚を常にリアルに身体化していたいがための人生のパズルのようなものだ。「目的はなにもしないでいること、行動はいつもそのために起こす」のである。
無駄なことをする。有用なことは「必要最低限」に控える。そして、できるだけ物を持たない。お金なんかは「右から左に流すもの」と考えよう。
例えば、江戸時代、江戸っ子の基本は『三無い』だったという。「持たない、出世しない、悩まない」。
忙しいのは自慢にならない。
ヒマなとき、退屈なときにしか感じられない有情の揺らぎ。
基本、退屈していればよい、というのが、「江戸」の価値観だった。
江戸の市中にいる年寄りの考え方で「七五三」というのがあるという。「七味」「五悦」「三会」。大晦日に振り返り、七回美味いものを食い、五回楽しいことがあって、三人いい人に会えたら、その年は良い年だった。
そのペースでいいのだ。そんな感じで、宇宙のなかを散歩して、森羅万象に触れて情を揺らすことができれば、人間の生に、それ以上の何を望むと言うのか。
怠けるためには、フォームが必要なのだろう。
江戸は、そのフォームを洗練させたカルチャーだったと言えるだろう。
現代に生きる我々は、それぞれが、怠けるためのフォームを創造せねばならない。うっかりすると、忙しくしてしまうのが、現代人の悪癖である。つい、生産性なんてことに心を取られてしまう。そうして、無駄なことの愉しみを見失い、気づけば「情」が枯渇したゾンビのような生を生きる羽目になる。
何であれ、あるものが、それ自体として、あるべくしてあるのは、例えば樹は絶え間なく樹になろうとしており、雲は刻一刻と雲になろうとしているからだ。人も瞬間ごとにその人になろうとしている。
無為とは、じつのところ、雲が雲になろう、樹が樹になろう、人が人になろうとする意志が漲った状態のことである。「情」とは、そのエネルギーのことにほかならない。
人が生活していくには、もちろん「作為」も必要だろう。だが、「作為」はつねに「無為」と“釣り合いが取れて”いなければならない。
生のフォーム、正しく怠けるためのフォームとはそういうことである。何かをやるとき、それは何もしないためでなければならない。「目的は何もしないでいること、行動はつねにそのために起こす」。
さて、書き連ねてきたが、つまるところ、今日の食い扶持が確保できてるなら、あとは寝て散歩して踊って過ごしてりゃいいんだってことである。
明日の食い扶持は?、明後日は?、…と余計なこと考えるから詰む。
今日一日、生き延びるということは、当たり前のことではない。事故にも遭わず、寒暖をしのげて、捕食もされず、食い扶持に恵まれるというのは、当たり前のことではない。
個体が生き延びるというのは、常に僥倖である。それが本質なのだ。
生きているだけで丸儲けと覚悟すること。そして、僥倖を、十分に味わうこと。僥倖を十分に味わうことの適うだけの、怠け者のフォームを制作すること。。