ディレッタント式読書論
1.知識を溜め込むのではなく、知恵を磨く
経験値は、単に経験の量によっては高まらない。思考に蒸留された経験の意味が結び合い、未知の事象を捉える網として活用できる、そのことを以って「経験値がある」と云う。
経験を「経験値」として織り上げることのできる人間にとっては、どんな経験もその網の目を精細化する縦糸横糸となる。
読書もまた、経験値の網の目の一本の糸として、織り込まれてゆくことになる。ただこんな経験をした、こんな本を読んだ、それだけでは、何の意味もないのである。
独学とは、この「経験値の網」を織り込んでいくことだ。
経験を経験値に編み上げる思考とはどんなものだろうか。
偉大なる独学者吉本隆明が「本を読むときは、自分の気になったところを芋蔓式にたどっていくことです」と言っている。
吉本は、知識/知恵を分けて、知識をつけるには学者のような系統だった読み方が必要だが、知恵を磨くには「芋蔓式」の読み方をした方がいいと説く。
この「芋蔓式」ということが、経験を経験値に編んでいく「思考」の要諦である。
その「思考」とは、ただ理性で論理的に物事を整序するということに止まらない。アナロジー(類推)を作動させて、森羅万象を結んでいくことなのである。
或るテーマやトピックについて考えることを通して、つねに森羅万象の成り立ちに「身体ー無意識」を向けている。「頭」で考えながら、「身体ー無意識」を錬成している。だから、応用の効く「知恵」がつくのである。
学者でもない人間が「学者のように」本を読む必要はないし、また、意味もない。むしろ、弊害の方が大きいように思う。半端な知識を溜め込んでも、余計な自意識が膨らむばかりのことだ。知識を溜め込むのではなく、知恵を磨くような読書の方が望ましい。
2.アナロジーを作動させるには
興味に沿って「芋蔓式」に読書していく。それはテーマやジャンルを区切って、その区切られた範囲の本を網羅していくということではない。
むしろ、そうした「オタク」的なアティテュードとは真逆の、ジャンルもテーマも時代も「横断」して、森羅万象に開かれた興味、即ち自在な好奇心を発動させることが要請される。
その自在な好奇心は、どのように涵養されるのか。
基本的な「構え」として、アナロジックな読書においては、「自分の手持ちの文脈」を如何に手放すことができるか、ということが試されていると考えねばならない。
そこそこ勉強ができる人間の悪癖は、例えば本を読んでいても、読むそばから文脈に回収しようとしていくということだ。
彼/女にとって、「わかる」ということは「文脈が与えられる」ということと同義になっている。
そうではなく、むしろ「手持ちの文脈」を手放して、テクスト固有のグルーヴや一瞬の響きに、いかに身体を開くことができるか、ということ。
読書とは未知への投機である。文脈の整合を取るのは、ずっと後の作業でいいのである。
良質な書物は、こうした「未知への投機」を受け止めて、世界ーコスモスを開くだけの豊かさをはらんでいるものだ。
古井由吉は、「文章が通じる」とはどういうことなのか、と問いを発し、それは意味が送受信されることを超えて、「理解以前の磁力」に惹かれる体験であり、「意味以前の律」に誘われ感応する体験だ、という意味のことを書いている。
古井の説くところを参考に考えるなら、良質な書物とは、達意を実現する文体をもったテキストということになる。
無心にページを開く。理解できなくても、何か、惹かれる。その魅惑に敏感になること。
アナロジーを作動させる書物は、それ自体がアナロジックに他の本と結びついている。そのアナロジーの磁場に惹かれる身体性を鍛えること。独学的読書人とは、その身体性を獲得した人間のことを云う。
優れた本は、常に「多のきわめて独自な一を断言」しているものとして、一冊の本である。アナロジックな身体とは、多の一としての「特異性」に感応する身体のことだ。
「全体」などはない、アナロジーはつねに「必要なだけ使う」必要がある。
これはセンスの問題だ。
独学的読書人は、このセンスを磨かねばならない。
それは学者的なディシプリンとは性格を異にするものの、或る修練であることは間違いない。
3.個人全集のススメ
個人全集を読むと、その人の内的必然性が分かってくるというのが、最も大きな醍醐味のひとつだ。
南方熊楠全集を読めば生物学、博物学、民俗学、大乗仏教が、熊楠の身体においてどう繋がっていたのか見えてくるが、それは熊楠論を読んで分かったような気になることとは別様の体験だ。
個人全集を読んでいくとき、例えば熊楠であれば、熊楠が何を読んでいたのか、その本を追って読むというのではなく、そこで彼が“感じていたであろう”興味について、現在の視野から読むべき本を探して読む。
そうすることで、彼の興味と、現代に生きる私の興味が、真の意味でシンクロする。
これは、熊楠のアナロジックな身体と自分のアナロジックな身体を、アナロジックに接続していくという作業である。
熊楠のテキストには強度の高いアナロジーが漲っている。熊楠の全集を読むとは、その強度に呼応できるよう、自身の身体を鍛え上げていくということなのだ。
西田幾多郎も、その読書論のなかで、同じ意味のことを書いている。
さて、こうした作業を通して、自身の身体が熊楠に呼応できるようになれば、そこに熊楠の「招魂」が実現する。
「招魂」とは、何か問題に当たるとき、熊楠ならどう考えるかが直観できるようになる、ということだ。
私は、気になる作家、著述家は、とりあえず日本語で読めるものは全て読むということをよくするが、それはアカデミックな要請でもオタク的な嗜癖でもなく、その著述家の魂を招きたい、憑かれたいということなのである。
若き木村敏が、当時ハイデガーのところから帰ったばかりの辻村公一を中心に『存在と時間』の読書会をやった時、師の辻村は「ここは西田(幾多郎)先生だったらこうは書かない」と、ずっと西田との対比のなかでハイデガーを読んでいったのだそうだ。
辻村は、何かを読んだり、考えたりする際、ずっと西田幾多郎の「魂」と「同行二人」でいたのだろうということが伺われるエピソードである。
本質的な思想家は、ずっとひとつのことを考えている。西田の説く「骨(コツ)」をもっている。西田自身も勿論そうだ。或る思想家をずっと読み込んでいくと、その「ひとつのこと」が共有されたと感じる瞬間が訪れる。「招魂」が実現する瞬間である。
“その後”は、同行二人が始まる。二人とは限らない、三人、四人、かもしれない、兎に角、誰かが、守護霊のように寄り添って、思考の道行を共に歩いてくれる。
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