身体をめぐる断想1


1.ピーター・ゴドフリー・スミス『タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源』(夏目大訳 みすず書房)に、「一つの行動はどれも、身体の多数の部分の小さな動きから構成される」ーこの「構成」をアレンジメントするのが、神経ー脳の役割であるという視点が紹介される。

単細胞生物にとっては、身体とは一つの細胞でしかない。だから、単細胞生物の挙動を考えるには、細胞の内(身体)と外(環境)の対応関係を見ればそれで済む。
だが多細胞生物の場合は、この内/外の関係に加えて、さらに内/内の機構が加わることになる。
多細胞生物の身体とは、単一の個体ではなく、あるひとつの”社会”のようなものなのである。

外界の刺激に”反射”するだけなら、「心」は要らない。
だが、例えば、身体を動かせば、事物の見え方は変わる。それを同一のものとして形成するには、その感覚器からの情報を、ひとつの”イメージ”として統合せねばならない。
外界刺激の反射から離脱した動物は、全て、この”イメージ”を媒介にして外界の情報を受け取っている。
「心」とはつまり、「事物が時間とともにその外見を変えていっても、それが元と同じものであると認識できるように事物の捉え方自体を形成する」能力である。
”反射の束”ではなく、”持続的な内面”を持つに至った生物は、すべてイメージを媒介にして内と外との結び目に「心」の次元をもっている。

異なった感覚器からの異なった種類の情報を統合して、ひとつの対象に結像するということもまた、反射の次元を超えた形成作用を要請する。
ある程度以上高次の神経系を備えた動物にとって、感覚ー運動系はコードに基づいた反射ではなく、イメージを媒介にした”一人称経験”として形成される。

イメージを媒介にした一人称経験、それが「心」である。

「心」とは、感覚ー運動系と、運動そのものを生み出す運動ー調整系の複雑なフィードバック回路のうえに浮かぶホログラムのようなものだ。
感覚器を備えた複雑な統合体である身体は、そのことによって既に「心」を内蔵している。

2.「心」は、内/内を統合するイメージでできているが、このイメージは同時に、内/外ーつまり、その細胞社会(個体)と環境との間を統合するためにも機能する。

つまり、生物の「心」においては、身体イメージと外界の表象とは照応関係にある。

この本に沿って、人間の身体イメージー外界表象の進化史を見ておこう。

人間は「左右相称」の構造を持つ。例えばクラゲなどは「放射相称」の構造で、上下の区別はあっても、左右の区別はない。左右の区別がないということは前後の区別がないということだ。私たちは上下、前後、左右の区別を持つ。
左右相称という形態が、神経系という機能の使い道、可能性を大きく広げることになる。
つまり、ここで、動物に上下前後左右の外的な空間認知の可能性が開けたのである。
その空間認知を実現する器官、レンズ眼によって、光が栄養素としてだけではなく、認知の拠り所として用いられるようになる。

そもそも、動物が外的な空間認知能力を高める必要が生じたのは、カンブリア紀に生物間の食う、食われる関係が生じたことによる。空間のどこに捕食者や、あるいは餌がいるのか、それをより速く正確に察知することが、生存戦略にとって最重要の能力となったのである。
目、爪、触覚、さらに移動するための脚やヒレなどの装置も、この間に発達を遂げている。
つまり、カンブリア紀には、どの動物も、他の動物にとって環境の重要な一部になったということである。それ以前は、動物たちは周囲の動物たちと深く関わることはなかった。
換言すれば、動物の感覚器、神経系、行動は、他の動物の感覚器、神経系、行動に対応すべく進化した。動物がそのような身体を持つのは、他の動物との関わりの帰結である。

3.さて、ここで、人間とタコの違いについて考えてみよう。
私たち人間へと繋がる進化の道筋で、動物は脊索(脊椎)という構造を持つことになる。「脊索(脊椎)は、動物の背側にあり、身体の中央を貫く。脊索には神経が通り、一方の端には脳がある。この身体の設計は、魚類、爬虫類、鳥類、哺乳類などに共通して見られる」。

タコのような頭足類は、この脊索動物とは全く身体の構造が異なっている。脊索動物の神経系が「中央集権型」とすれば、頭足類の神経系は「分散型」だー「小さな神経の集合である神経節が身体に散在し、互いにつながっている。」
「神経節は、地球の緯線、経線のように身体を縦横に走る神経線維によって互いに接続され、すべてが他のすべてと組になって機能する。この種の神経系を『はしご状神経系』と呼ぶこともある」。
ニューロンの数が増えるにつれ、神経節の一部が「脳」と呼んでも差し支えない集積性を備えるようになる。
このような分散型の神経系を持つ頭足類の身体は、部分ごとに機能する場合と、中央集権的に機能する場合の混合のような形で制御されているということになる。

これを「タコの主観」からイメージするとどういうことになるか。

「タコにとって、腕はそれぞれが『自己』の一部だと言える。目的をもって動かし、外界の事物の操作に使うことができるからだ。しかし、身体全体を集中制御する脳から見れば、腕はどれも部分的には『他者』ということになる。自分が司令していない動きを勝手にすることもあるからだ。」

つまり人間のような動物にとって、自己と環境の境界は通常、非常に明確になっているように感じられるが、タコにとってはそうではないということになる。
タコは例えば「自分の腕であっても、思い通りに制御するのは途中までで、そのあとは腕が何をするかただ見ている」という世界を生きている。
たいへんに興味深い。

人間であっても、じつは中央集権的な脳の司令において、すべての動作が制御されているわけではない。
人間にとっても「自己と環境の境界」は、じつはそれほど明確なものではないのだ。
例えば楽器の習熟者は、その動作のかなりの部分を無意識のうちに行なっている。
人間が、道具を使うなり、制作行為をするなり、何かしら環境に働きかけるときは、中央集権的な能動”のみ”においてそれを為しているわけではなく、じつは自己と環境の「あいだ」に出て、受動的能動のモードになっているのである。
タコは常にそのモードのなかにいる、と想像すると面白いかもしれない。

「経験の統合は、どの動物にとってもある程度、必要なことだろう。動物は全体で一つだからだ。全体で生き、生命を維持していかなければならない。しかしどこまで統合するかは、動物ごとに異なっているし、何もなしで情報が統合されることはない。」
自己と、他の個体を含む環境を、二つの円が交わるチャートで表現するなら、その重なりの大きさは種によって異なり、またその円自体が破線で描かれてるような種も存在するということである。「心」は多様な構造を持つ。

ここで重要なのは、いずれにせよ、”一人称経験は多かれ少なかれ自己と環境のハイブリッドとして経験されている”ということである。
どこまでが自己で、どこまでが環境なのか、それは自明なことではないということだ。
例えば、車の運転に熟達した人が、運転していることを意識せず音楽を聴いているとする。このとき、「車を運転している自分」は、自己ではなく環境に属すると言ってもよいのではないか。
つまり、熟達した運動は、自己から切り離せるということである。
レーサーのように、車の運転技術を上達させるということは、いったん自己から切り離して”環境化”した身体の動きを、再度”自己化”することで、”車という機械も含めて自己化”することだということになる。
自己と環境との境界線は、かような伸縮自在性をもつ。


4.サンドラ・ブレイクスリー/マシュー・ブレイクスリー『脳の中の身体地図 ボディ・マップのおかげで、たいていのことがうまくいくわけ』(小松淳子訳 インターシフト)には、こうした自己と環境を照応させる身体イメージが、ボディ・マップの機能として論じられている。

ボディ・マップと言えば、1950年に発表されたペンフィールドのホムンクルスの像が有名だ。
体性感覚野、運動野等、いくつかの系において、身体部位を、その重要度に応じたサイズに変更して、イラストで表現してある。例えば、手のひらは感覚が鋭いから、手のひらはボディ・マップにおいては、じっさいの掌のサイズよりずっと大きい。胴体は感覚が鈍いから、じっさいのサイズよりずっと小さい。
だが、現在の研究では、このホムンクルスは、固定されたものではなく、柔軟に形を変える無数の集団として存在することが明らかになっている。
「柔軟に形を変える無数のボディ・マップが全部合わさって、“私らしさ(me-ness)”という立体感のある主観的感覚と、周囲の世界を把握してうまく渡っていく能力を生み出」しているのである。

ボディ・マップの曼荼羅を構成する主要な要素は、肉体と結びついた「体性感覚」だ。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚といった、触覚を除いたいわゆる「五感」は、この体性感覚の曼荼羅に付加された「特殊感覚」に過ぎない。
「体性感覚」は、触覚の他、温覚、痛覚、固有感覚、平衡覚がある。

固有感覚とは「空間内における身体の位置や動きを把握する個人固有の感覚」のことで、温覚、痛覚、固有感覚は、全身に分布している受容細胞群からもたらさられる。
平衡覚だけは、内耳にある平衡器官からもたらされる。
身体化された自己の創出には不要なその他の心的能力、つまり視力、聴力、言語、記憶などは、ちょうど骨格にぶら下がっているさまざまな器官のように、この「体性感覚」によって構成される身体の曼荼羅マトリックスに支えられている。

触覚、温覚、痛覚、固有感覚、平衡覚といった「体性感覚」は、“身体として”この物理世界に存在していることに由来する感覚だ。
視覚や聴覚といった「特殊感覚」による個別の情報は、この「体性感覚」の曼荼羅マトリックスに統合されて初めて、固有の存在にとって意味のある情報として位置づけられる。
例えば視覚情報も、自分自身の身体運動からのフィードバックがなければ、その目にしたものの意味はわからないままなのだ。ボディ・マップは、心の究極の基準系であり、知覚の基礎をなす単位系なのである。感覚は身体化された自己に照らし合せなければ意味をなさない。

ことに、動物においては、感覚情報は運動中枢と密接に直接的なフィードバックループを構成しているという点が重要である。

「身体の感覚と動作は、ちょうどコインのように、見た目の異なる面が表裏一体になっているひとつの感覚ととらえるのが一番わかりやすい。」

つまり、動物にとって「世界」とは、”身体を動かすことによってもたらされる”のである。「静的ー客観的な世界」などは、“存在しない”。世界とは、身体の動きのなかで現れてくる秩序であり、物であり、時間なのである。

諸感覚は、主に体性感覚によって構成されるボディ・マップのマトリックスの上で統合されることで、生体にとっての意味を構成する。その意味の集合体が自己である。
自己は経験の集合体であり、先験的な統一体ではない。主体の先験的な独在感はこの意味で「錯覚」である。


5.ボディ・マップを考えるとき、「ペリパーソナルスペース」と呼ばれる現象がとても興味深い。
例えば、空いた電車で、隣に人が座ると居心地の悪い思いをすることになる。それはこの「ペリパーソナルスペース」が侵犯されるからだ。
ボディ・マップは、皮膚の境界ではなく、身体の周辺に拡張して構成されている。だから、物が身体に近づくと、接触する以前に触覚のニューロンが発火する。視覚と触覚がカップリングした「バイモーダル・ニューロン」が活性化するのである。
この反応は、近づいてくる物にどう対処するか、その運動計画を自動的に立てさせるためのものだ。

「子どもの脇腹近くでくすぐるまねをするだけで、子どもは身をよじって笑い出す。
注射針にしろ、恋人の愛撫する手にしろ、情緒的に重要な意味を持つものが近づくとゾクゾクするのは、珍しいことではない。」

いわゆる共感覚ということも、このバイモーダル・ニューロンの活性化によって説明できる。
人によって「オーラが見える」といった現象も、ある種の共感覚者特有の感覚と捉えれば納得できる。我々のペリパーソナルスペースの驚異的な柔軟性を考えれば、あり得ない話ではない。
同じく「体外離脱」といった現象も、ペリパーソナルスペースの拡張、あるいは失調によって説明がつくかもしれない。

「マイケル・マーフィーは著書『スポーツと超能力:極限で出る不思議な力』で、スポーツ界における超自然的な体験の逸話を紹介している。アスリートたちは競技中に体外に抜け出したり、他人の身体が形を変えるのを目にしたりしている。ある有名な長距離の競泳選手は、競技中に肉体が消耗するといつも、泳ぎ続けている自分の頭上の空間に浮かんでリラックスし、リフレッシュできたと感じたら、そこからまた体内に戻るのだそうだ。(…)」

つまり人間の身体は、肉体の境界で完結するものではなく、行為可能性のある空間に拡張的に“適用”される。
例えば馬を乗りこなしているとき、私のボディ・マップは馬のそれと、共有する空間内で融け合っているということである。
道具を使うときも、同じようにボディ・マップは拡張的に“適用”される。

セックスするときは、私のボディ・マップは、恋人のボディ・マップと互いの情熱のなかで一体となっている。

このボディ・マップの拡張性、つまり空間内での行為可能性を含んだ身体のトポロジーは、「霊」の現象も照らし出す。「霊」とは、この身体的トポロジーにおける「アバター」ではないか。
「霊」の存在が信じられている文化的環境においては、我々がコンピュータゲームのアバターにより憑いて、アバター≒私の状態でゲームに興じるようにして、霊≒私の状態で、心霊治療が行われたり、託宣が行われたりする。


6.この空間に拡張的に適用される身体的トポロジーの神経科学的基盤のひとつがミラーニューロンの存在だ。
ミラーニューロンは、思考を介することなく、自分のボディ・マップに他者のボディ・マップを重ね合わせる機能をもつ。
身体は、”私”に閉じられているわけではないということだ。身体は、身体同士で模倣し合い、反射し合うネットワークのなかで、どこまでが自分でどこからが(他者の身体を含む)環境なのか、その明確な境界をもっていない。

ラマチャンドランは、ミラーニューロンの最大の意義を、脳を文化に寄生させたことにあるとしている。「ミラーニューロンはスポンジが水を吸うように文化を吸収する。」
人間の身体は、文化と相互規定的なものなのである。

文化が知覚を変える事例として、著者はとても興味深い実験を挙げている。
アメリカ人と東アジア人(中国、日本、韓国)にジャングルの虎の写真を見せて、アイトラッキングで、その写真のどこをどんな順序で見るかを調べるという実験だ。
アメリカ人の目線は、まず虎に釘付けになる。ところが、東アジア人の目線は、背景を凝視し、時折虎に目を移すのだそうだ。アメリカ人は中心になる対象物に集中するのに対し、東アジア人は全体的な光景を見てとる。しかもこれは意識的な制御をはるかに下回るレベルの機能において生じた相違なのである。
視覚的注意をどう配分するか、視覚的光景の解析に目をどう使用するかは、文化によって違っているということだ。この事例は、日本人である我々が、<図>は<地>において成立しているという感覚を、深層的な(というのはつまり身体化された)文化として持っているということを示している。
この文化の身体化(神経学的な配線)は、主に幼少期の経験によって形作られている。脳の可塑性が高い段階で、ミラーニューロンの働きによって、言わば文化を身体に転写するということである。


7.人間はミラーニューロンによって、互いのボディ・マップを重ね合い、照らし合い、映し合うことで、先人から継承された文化を身体化する。
つまり、遺伝的に受け継がれるのではない、言わば”本能以上の思考、行動パターンを学習することができる。
ロイス・ホルツマン『遊ぶヴィゴツキー』(茂呂雄二訳 新曜社)には、子どもの成長過程のなかで、子どもはどのように文化を身体化させているのか、その具体的なメカニズムが説かれている。

子どもは”遊び”を通して、文化を身体化する。
遊ぶとき、子どもは、現在の自分より「頭一つ抜け出た人」に自らを重ね合わせている。
そのように自分がすこし先の自分に二重化することで、子どもは遊びながら、自分の発達、成長を先導している。

自分を完了したものではなく、何か別のものに成っていく過程にあるものとして捉えること、自分を、未だ自分ではない誰かと二重化されたものとして捉えること、子どもが遊びに没頭するモード、それは、大人になってからもなにかを創造的に学習するときの基本モードである。

「私たちは仕事と遊びは違うと教えられる。重要なのは仕事だと。学習と遊びは違うとも教えられる。重要なのは学習だと。私たちは絶えず、自分がどんな存在であり、成ることのできる限界があると告げられる。私たちは正しく振るまい、良く見えることに集中する。こうして発達が止められてしまうのだ。」

赤ちゃんが言葉を覚えるとき、片言の赤ちゃんの最初の言葉は、大人の発話の「創造的模倣」である。
そして、その片言の言葉を傾聴する大人が「完成」することで、「会話」が続いていく。
赤ちゃんは、演劇的な意味で、自分でありながら他者を招き入れるパフォーマンスをする。大人もまたそのパフォーマンスを受け入れ、それを言葉で補完するようにして、そのパフォーマンスを「完成」に導いている。
そして、その演劇的なパフォーマンスは、赤ちゃんの発達過程と不可分に一致している。

赤ちゃんは「言葉を覚えよう」という学習の意図をもって、言葉を学ぶわけではない。また、大人が「赤ちゃんに言葉を覚えさせよう」という意図をもって、環境を整えているわけでもない。赤ちゃんは、その発達と不可分のパフォーマンスを通して、大人をそのパフォーマンスに参加させるのである。

赤ちゃんも大人も、「認知的姿勢」を取っていない。目的や意図をもった個人が、客観的な世界から知識を獲得する、つまりそうした構えをもってはいない。
ここでは、発達と習得とが、パフォーマンスにおいて、不可分のものとして結び合っている。
「発達と習得とが、パフォーマンスにおいて不可分に結び合っている」

何かを知ることは、知識を所有することではなく、その何かに対応できる自分自身に変化するということを意味する。
赤ちゃんの言語習得は、「言語能力を所有する」のではなく、「言語が使える自分に成る」ということなのだ。

8.子どもは常日頃、今現在の自分ではなく、すこし背伸びした理想の自分を追いかけ、すこし背伸びしている。誰か、憧れの人やキャラクターに、その理想の自分を投影することもあるだろう。だがいずれにせよ、今現在の自分にアイデンティファイせず、常に、自分が未だそうではない者に二重化している。
つまり、自分のことも自分を取り巻く環境のことも、”be(在る)”ではなく”become(成る)”ものとして捉えている。
だが、それが大人になると、人は自分のなかに何かしらのアイデンティティを認めるようになる。何かに”成る”ことをあきらめてしまう。

「私たちは皆、アイデンティティによって制約されている。自分のキャラクターをはみ出して何かするのは、心地よくないし怖い。固定したアイデンティティは若者を特に保守的にする。とりわけ有色の貧困層や移民の若者を引っ込み思案にし、人生の旅にブレーキをかける」

アイデンティティが、何かに”become(成る)”こと、成ろうとすることを阻害し、自分で”be(在る)”こと、自分は自分でしかないという自意識の牢獄へと閉じ込める。
意識的に何かの役割、別のアイデンティティを演じる演劇ワークは悪しきアイデンティティの影響を小さくする効果をもつという。
「私はパフォーマンスの方法論は、都市貧困層の若者およびコミュニティが抱える発達と教育の危機への、特別な答えとなると思う。それは、若者の全面的発達支援の試みである。他者の取り入れを制約するアイデンティティの影響を小さくすること。」

このプログラムに参加したデザイナー志望の少年の談を引こう。
「私は自信と傲慢の違いを学びました。私はシャイでしたが、ある意味傲慢な人間でした。このプログラムに参加して、たくさんの人に会って、自分が思うほどにはわかっていなかったとわかりました。
デザイナーというものが、私の思っていたよりも遥かに込み入ったことだとわかったんです。ともかく、理由はわからないけれど、あまり傲慢でなくなり、代わりに自信をもてた気がします。」

自己陶酔的な「自分は分かっている」という思い込みを脱して、現実の複雑さ、大変さのなかで「自分は何も分かっていない」と理解することが、自己効力感の喪失ではなく、むしろ現実的な自信に繋がるという点が肝である。


9.大人になっても常に創造的で、死ぬまで生き生きとした成長過程にある人というのは、世界を子どものように経験している。つまり、自己完結的になるのではなく関係の相互性を尊び、反応的に生きるのではなく生成的次元を生きている。
横地早知子『創造するエキスパートたち アーティストと創作ヴィジョン』(共立出版)には、創造性を成長させるということがどういうことなのか、多くのアーティストやエキスパートへの調査を通して検証されている。重要なのは、「創造的熟練」と呼ばれる能力の鍛錬だ。

まず、何かに熟練するとはどういうことか。
タイピストがタイピングに熟練するというのも熟練だが、こうした一定の手続きに熟練するのと、例えば三つ星レストランのシェフは、その熟練の質が違う。彼等は自らが培った知識や技術を適宜再構築したり、新たな組み合わせを編み出したりする。
熟練には、タイピストのような手続き的熟練、三つ星シェフのような適応的熟練とがあるということだ。
クリエイターには、適応的熟練の特殊なバージョンである創造的熟練が必要とされる。

熟練のためには、知識の精緻化(≒身体化)を通して、素材の扱いにおいてメタレベルの操作性を獲得するという修練が必要という点で共通する。
ある専門領域で通用する熟練性を獲得するには、10年の修練が必要になるという10年ルールは、クリエイターにも適用できるが、創造性を発揮するには修練だけでは十分ではない。
創造性は、それを先導するヴィジョンによって方向づけられなければならない。

ヴィジョンの獲得は、天啓のようにトップダウンでも、修練のプロセスからのボトムアップでもなく、抽象概念と抱握と、制作実践を通した抽象概念の精緻化(身体化)という、実践と概念的把握との相互作用のなかで、より明確に自覚されていく。

「たとえ漠とした興味関心から始めたことであっても、制作を積み重ねることで個々の作品に表れる特徴が相対化され、作品間の関係性が徐々に明確になるにつれて、アイデアの背後にある自らの考えを説明できるようになったり、概念的な操作が可能なテーマになったりする」

創作ヴィジョンが明確になってくると、制作過程で刻々と変化する作品の趣旨や素材の感覚といったボトムアップの刺激を、同時にトップダウンで制御する両方向からの拘束性が作動するようになる。
この両方向の拘束性が、創作ヴィジョンの働くポイントであり、その作家の作家性が生まれる界面である。

こうした創造的熟練が成されるには、
①絶えず新規な問題に遭遇すること、
②対話的相互作用に従事すること、
③切迫した外的必要性から解放されていること、
④事物の理解を重視する共同性に属していること、
これらの条件が機能することで、高度に構造化された柔軟な知識体系が構築される。

「人はどのように芸術家になるのか。現時点での答えは、創作ヴィジョンが出来上がることが一つの鍵であり、創作活動においては自分の指向性や興味関心を足がかりに、表現方法や素材を探索し、制作しながら活動を省察したり、出来上がった作品を解釈したりすることを経て芸術家になっていく。」


10.生田久美子『「わざ」から知る』(東京大学出版局)には、「形」の模倣から入り、その「形」の意味である「型」を、言語的にでなく、自らの呼吸、間合いにおいてつかんでいくプロセスが描かれている。

芸能、職人、何でもいいが、日本古来の「わざ」の教授は、基礎から段階を追って教授されることはない。易から難へと進むのではなく、入門者に対しても、易難織り混ざった一つの作品或いはプロセスを丸ごと経験させる。師に付かせ、まずはその「形」を模倣させるのである。

わざの熟練は、模倣→繰り返し→習熟というプロセスをたどるが、この「繰り返し」において、学習者はただ機械的に反復しているのではなく、「形」について「解釈の努力」をしている。「解釈の努力」を通じて、ただの物真似でしかなかった「形」が、主体的な「型」として身体化されていく。

この「解釈の努力」とは、しかし、理由や説明を見出すという言語的な解釈ではない。身体全体でその「形」の意味についての納得を得たい、積極的に探りたいといった、人間にとってのより開かれた解釈の努力である。
解釈の努力のなかで、「形」の、どの部分が必然的な骨格で、どの部分が偶然的な要素なのか、学習者は自らの身体感覚によってその微細な違いを腑分けして納得していく。

「きっちりしたらいかん、がどうでもいいというこではないんですな。きっちりしたらいかんが、きっちりしなければいかんのです」

ここでの「身体感覚」とは、しかし学習者にとっての現在的なリアリティのことではない。それは、言わば「師の身体感覚」に想像的に同化した、「先取りされた身体感覚」である。さきほどヴィゴツキーの本で論じられていた、「子どもは背伸びすることで成長する」ということと同じである。

さて、それでは、この師の身体への想像的な同化は、どのように実現するのだろうか。そのメカニズムをより詳細に見てみよう。
師の身体への創造的な同化ーそれは、師と「呼吸を合わせること」ー場を共有するふたりの身体のリズムが互いに同調し合う「エントレインメント(entrainment)」のメカニズムを媒介にして実現する。

芸能や職人世界で、内弟子になって師と寝食を共にするというのも、弟子はそこで芸や技術を直接教えてもらうことがなくとも、師の身体とエントレインする能力が活性化することによって勘が働くようになる。

その世界に「潜入」して、身体的共振が高まっている状態で、「形」を繰り返し模倣する。そのことで、形がいかなる呼吸ー間合いにおいて必然をもっているのか、つまりいかなる「型」のあらわれとして、その形になっているのか、そのことをめぐる「解釈の努力」が可能になる。
この解釈の努力において、師の発する比喩的な言葉遣いは、学習者を推論活動へ誘う効果をもつ。
六世尾上菊五郎は、闇の中で蛍を追う振りの工夫に苦労していたとき、「指先を目玉にしたら」という助言を受け、それで一気に腑に落ちたのだという。

ここで、なぜ、「指先を目玉にしたら」という比喩表現が有効なのだろうか。
比喩は一義的な指示内容を持たない。学習者は比喩が喚起するイメージの多義性のなかに放り込まれ、困惑することになるだろう。
だが、その困惑の境地においてこそ、身体全体をコミットさせた類推がはたらくのである。
「イメージというものは私たちに可能的な世界を切り開かせる役割を持つ、いわば可能知覚と言い換えることができようが、記述的表現はこうした発展的な思考を促すイメージは作り出しにくい」
「比喩にはこの間接性があるからこそ、学習者は自分の身体の内側からの探索にひきずりこまれるのであるし、またそうした認識の枠を発展的に拡大していくこともできる。直接的な記述表現は確かに、詳細な指示を与えてくれる。しかし、詳細な指示は、学習者の身体全体を通しての認識活動を活性化させる力は弱く、むしろそうした活動を固定させてしまい可能的世界を切りひらかせにくい。」

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