ディレッタント式教養講座

はじめに断っておくと、これは、アカデミックな意味でなんらかの意義を持つマッピングではなく、ディレッタント式アナロジー読書の一例、実践編です。

よく、読書は生きていくのに役に立つか、という功利主義的な質問をされることがありますが、いやもう、役に立ちまくりです!
より正確には、本質的な読書というのは、本来それ自体を目的とするもので、つまり「役に立つ」という「別の目的」に従属するような隷属的な行為ではないんですが、それが結果的に「役にも立っちゃう」わけです。

さて、+Mの基本教養はどんな固有名詞のアナロジーでてきているか。
ともあれ、巨きな存在として、ライプニッツがあります。そして、
ライプニッツー西田幾多郎
というのが、とにかく大きなラインとしてまずあります。
同じように大きなラインに、
ライプニッツーミシェル・セール
があるんですが、いかんせん私は語学が駄目なので、西田ほど芯を食った理解ができているかどうか心許ない。
ミシェル・セールの研究者、清水高志先生に聞いたところでは、「訳がね…」ということもありますしね。
この二本がかなり大きな幹になっていて、そこからとても豊かな枝葉が伸びている。
西田幾多郎には、ライプニッツからの線と、
ウィリアム・ジェイムズー西田幾多郎
という線もあります。
ライプニッツ×ウィリアム・ジェイムズ
が、西田という場のなかで一緒に考えられるようになっている。
プラグマティズム、とりわけ、
ウィリアム・ジェイムズ+チャールズ・サンダーズ・パース
のふたりの存在はかなり大きいものです。
このふたりの哲学は、ライプニッツから伸びる線でものを考えるとき、いつも「もうひとつの太陽」のようにオルタナティブな光源となってくれています。
ついでに述べておくと、ウィトゲンシュタインは、終生ジェイムズを意識して、思想的には緊張関係にありました。ウィトゲンシュタインは、ラッセルなどは後年かなり軽んじています。だが、ジェイムズのことは最後まで「好敵手」として重要視していた。
ジェイムズ/ウィトゲンシュタイン
というのも重要な思想的対立線です。
ジェイムズは、じつは、カール・グスタフ・ユングも強い影響を受けています。ユング最初期の『タイプ論』はジェイムズの「心理学」の直接的な影響下で書かれました。今となっては、フロイト×ユングのカップリングよりも、
ジェイムズ×ユング
のカップリングの方が思想的に豊かなラインと言えるかもしれません。
西田幾多郎からの枝として、
西田幾多郎ー今西錦司
が、生物学、動物行動学、生態学(エコロジー)まで、その基本的な視座を提供している大きな磁場となっています。複雑系科学や内部観測論につながっていく枝がたくさん生い茂っています。
さらに、間接的ではありますが、
西田幾多郎ー(今西錦司)ー岩田慶治
といったライン。ここでは、現在の、いわゆる「存在論的転回」後の人類学の、じつは中心的テーマと言ってもいいかもしれない「アニミズム」についての思考が原理的なレベルで徹底されています。
岩田慶治を中心にして、その周縁にフィリップ・デスコラ、ヴィヴェイロス・デ・カストロ、エドゥアルド・コーン、レーン・ウィラースレフ、ティム・インゴルドなどの人類学者を配置して読んでいくと生産的かもしれません。
西田幾多郎の思想を盟友の鈴木大拙と隣り合わせて、そこから仏教の思想に入っていく端緒とするのもいいでしょう。
西田幾多郎・鈴木大拙
鈴木大拙は禅宗をベースにしていますが、西田がライプニッツを受けつつ展開した世界像は華厳的です。
華厳といえば、南方熊楠、そして、熊楠の仕事をレンマ学として発展的に継承している中沢新一の名前が挙げられます。
南方熊楠ー中沢新一
仏教については、突き詰めていけばきりのない奥の深い分野ですが、私の興味からすると、大乗仏教の大きな源泉である、中論、華厳経、法華経の3つの経典がとりわけ重要です。これらの思想が、岩田慶治ー存在論的展開後の人類学に通底する来るべきアニミズムというテーマにリンクしていく。
ライプニッツーミシェル・セールというラインからの枝として、ブリュノ・ラトゥールの存在も重要です。
ミシェル・セールーブリュノ・ラトゥール
ラトゥールは、前述の人類学者達とも、影響・緊張関係にあります。敢えて前述しなかったのですが、ラトゥールは、マリリン・ストラザーンとの対照させて読んでいくことで、最も生産的な思考ができそうに思います。
ブリュノ・ラトゥール×マリリン・ストラザーン
ライプニッツからのラインとして、私のなかでは西田、セールほど巨大ではないものの、バーバラ・M・スタフォード、ホルスト・ブレーデカンプ、ジョン・ノアバウアー、ゴットフリート・ベームといった、言わば図像論的転回とでも括られうるラインも重要なものとなっています。重要というか「好み」なんですね。
さて、以上が、現在の私の思考のトポスを提供してくれている、最も大きな骨組みです。固有名は削ぎ落として削ぎ落として、最も太いラインだけ残しました。
実際、例えば本居宣長、柳田國男、折口信夫、小林秀雄といった国学ライン、吉本隆明や橋本治といった最も親しんだ批評家達、現代思想以降、最近の新実在論に至るさまざまな文脈は、すべて外してあります。
また、ひとりの思想家の思想を自家薬籠中の物にするには、その思想家の著作だけを読んでいてもそれはかないません。例えばライプニッツを読んでいくとき、同時代のニュートン、スピノザ、デカルト、パスカルといったコンステレーションを読んでいくことも重要になります。さらに、その本質的な継承者とでもいうべきディドロなどを読んでいくと、理解がさらに立体的になるでしょう。そうして、ディドロを読めば、同時代のゲーテやフンボルトなどにも自然と目が向いていきます。ここに挙げた固有名は、言わばそうした思想的磁場の象徴的な一点に過ぎないとも言えるわけです。ですが、もちろんそうした固有名もすべて外してあります。

ともあれ、現在の自分の思考の基盤のところにある、一番太い骨格だけを取り出してみました。
このあたりは清水高志先生の領域でもあります。あの人は「プロ」なので、こうした思想的磁場から、哲学的な新機軸、新領域を開拓するという仕事をされているわけですが、私はディレッタントなので、またプロとは違う栄養の活かし方をしていくということになります。

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