入り口が答えになってしまう時
昨日、壇珠さんと話している時に、
”初めは「入り口」だったものが、
「答え」になってしまうことってあるよね。”
という話になった。
本当に。本当に。
首がもげそうなぐらい頷いた。
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例えば私だと、体の癖から心の癖を見るということを8年ぐらいやってきて。昨年から、それ自体を「教える」ことからは、どんどんとおりていっているのだけれど、
とはいえ、自分の思考や認知を眺めながら、慣れ親しんだ「そこ」を通過しながらものをみる(要は、体癖論を使ってみる)ということ自体は、もう、毎日毎日毎日、やってしまっている(笑)
…ほんま、いきすぎた趣味でつねw
ああ気持ち悪いw
この道具は一体何なのか?を相対化する、認識を深め続けることで、道具自体を解体していっているというか。
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「入り口」だったものが、
「答え」になってしまう。
最初は
・そこから世界を観たらおもしろそう!
・新しいことを知れそう!
と、好奇心からの新たな世界への入り口だったものが、全てをそこへと集約してしまい、全てをそこで解決したり感じたりしたくなる、「答え(正解)」信仰とでもいう、思考癖。
ある意味で、一神教的とも言えるかもしれないですね。
それが完全な答えだ、それは唯一神たるものである、という所にふと立ってしまっていると、それ以外の思考回路を完全に停止する。
一つを選ぶということは、
その他を徹底的に拒否してしまうことにもなるから。
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体癖論を心理学的な道具にしたくて
探究しながら講座をやってきた数年間の、自分の中での一番の葛藤は
どこか、他者を”説得”しにかかっている気持ち悪さ。
そこからものをみて面白がってもらうために
一度そこにぐっと入ってもらうために、
方便として、説得を試みてしまうこと。
(んでこれがまた、上手いんだな…)
それがどうにも「不誠実だな」と感じて仕方がなくて。
例えば、
嫉妬心が強く起こりやすい人達って一定数いるんですね。
”一番近くにいたい”、”一番に目線が欲しい”。
その渇望が怒りの火を燃やしてしまう。
そういった穴に、ずぶずぶとはまりこんでしまう感じ。
その穴へのはまりやすさ、抜けにくさ、無意識の癖を扱ってみる、ということ。
自分自身の癖を知ることは、
入り口としてとても良いんだけれど、
これが答えになると、
例えば全てが「体のせい」になる。
実は「そこから」ですよね、大事なところって。
(あまりにつらい感じの時や自己否定感の強い人は、それをゆるめるために「持って生まれた体のせい」にすることが有効なときももちろんある!実際、そこを諦めて受け入れて生きること以外に無いから…)
持って生まれた体の癖、体のせいです。
以上!
ではない。
一つに全てを預けたくなる、甘え。
そこに立ってみて、
「じゃあ、どうする?」に、
どうにもこうにも、人は行きづらいんだなと
この数年で、思い知った。
タイプ論的なことを体系的に学ぶことは自己理解にも他者理解にもものすごく有用なんだけれども、入り口にこそなれ、「正解」という袋小路になってしまうのであれば、それ以外のことへの盲目さにはまり込んでしまいやすい。
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だから、ぐるっとまわって、
どんな道具を持ってみたとしても
私個人が感じている、とある1つのこと。
それ以上でも以下でも無い。
壇珠さんとの対話から、
あらためてそのことを考えた夜でした!
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