KAAT神奈川芸術劇場『アーリントン』を観劇して
直接誰かと会うことを推奨されなくなるだなんて、思ってもいなかった。家の中で楽しもう、と呼び掛けられる日が来るとは思ってもいなかった。
わたしたちは今アイーラのように、知らぬ間に何かに閉じ込められているのかもしれない。いつかまた、マスクをせず街の中を思う存分走り回って、大好きな人に会に行けると信じている。お酒を飲みながら、大人数でくだらない話ができるって信じている。ちょっと前までは当たり前だった日々を、今はただ「夢」として想像することしかできない。もう気付けば、2020年4月頃からのこの生活は10カ月も経っている。
本作は2020年4月に上演が予定されていたのだが、延期を余儀なくされ、2021年1月の、このタイミングでの上演となったそうだ。(無事上演できて、本当に良かった。)
小宮山智津子さんの翻訳、とってもとっても、素敵だった。言葉を全身で聞いた。一言も取りこぼさないようにって、沁みこませるように聞いていた。最高に幸せな時間だった。
アイーラのセリフで2つ、心に残ったものがあったので自分のための備忘録として残しておきます。(正確には覚えていないので、ニュアンスです。)
横にいる人と同じ空気を吸いたい
そうか、そうだよな。家族がいなくなってから、カメラの向こうの人と会話することはあっても、物理的に「横にいる人」がいなくなっちゃったんだよな。今とすごく重なってて苦しくなった。
登場人物同士が直接会うことが叶わないから作品だからこそ、「音の扱い方」がとても肝になる作品だなって思ってずっと観てた。マイクを通した声と、地声の声色の違いって、そっかこんなにあったけ。最近、画面越しに声を聞くことが増えているから、地声すらも愛おしく思えてしまった。想像以上に、いろんな場所からいろんな音が飛び出てきて、そうそうこれこれ!今まさに舞台観てる!わたし!ってこれもまた染み渡った。
待つことで少しずつ弱くなっているのかもしれない
アイーラは自分の番号があと何時間後、何日後、何年後、何十年後に呼ばれるかを知らない。ゴールを知らされないまま、静かにその部屋の中で"待つ"ことだけが許されている。多くの人はきっとこの状況を打開するために、部屋を壊し、結果的に自分を壊していく=傷つけていく。そして自ら死を選ぶことで、解放される。入手杏奈さんが演じた"若い女"はまさにその象徴だった。"待つ”という行為がいかに人を苦しめ、狂わせるのか。終わりのない我慢の限界値。最終的には破滅へと追い込んでいく構図は、今たまらなく怖い。
印象的だったのは、アイーラが部屋を出る際に、傷一つないきれいな身体だったこと。それに対し"若い男"と"若い女"の身体には、痛々しいほどの傷がいくつも刻まれていた。そうか。アイーラは自分を傷つけることはしていなかったんだ。何十年もの間、ただただ信じて待ち続けていたんだと。扉がだんだんと開いていくとき、部屋の中にある植物にまぶしすぎる光が当たり、絵の描けられていた下手側の壁に投影されていた。残酷な現実が待っているはずなのに、あのシーン、たまらなくきれいだった。
観終わって劇場を出ようとしたとき、「なんか、、悲しかったね、」と近くにいた方が話していた。こんな瞬間、何カ月ぶりだろうか。私は間違いなく、たくさんの見知らぬ人たちと同じ空気を吸っていたんだ。時間と場所を共有していたんだ。ちゃんと私はここにいたんだと、なんだかうれしくなった。
だけど、劇場を出て、劇場から街に吸い込まれていく"わたし"を感じて、怖くなった。またひとりになってしまった。
と、ここまで書いてみたものの、観劇した後の感想をまとめるってこんなに難しいのかーーーとお手上げ状態。でも観た時間以上に、作品のことを自分の中で考える時間を持てて、やっと消化できてきた気がする。
さすがKAATだなあって思うくらい、感染症対策万全でした。席間隔も開けられていて、舞台から客席も離れていて、最大限に接触が避けられていました。今度は中華街にも行けたらいいな。
(すごく個人的かつ完全に余談ですが、南沢奈央さんが私の知っている南沢奈央さんのままで、時空飛び越えてる?ってなりました。というのも2008年ドラマ&映画『赤い糸』、2013年の東京グローブ座『ストレンジフルーツ』等、その当時魅了されすぎてしまって困ったくらい。今作もまた、私を変えてくれました。HPを観たら可愛すぎたので、とりあえず貼っときます。)