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斎藤哲也編『哲学史入門II』(2024)
先日読んだ第I巻の続き。私のバックグラウンドからは、上野修と戸田剛文の二人が、哲学者の議論を紹介するのに「プログラム」や「アプリケーション」といったIT用語を使っているのが興味深かった。それらの言葉の使い方は、エンジニアである私が見ても別に不自然なところはない。トピックが機械論あるいは機械論的な考え方なので連想が働きやすい、ということはあるだろうが、もし仮に同じような本が50年前に企画されていたとしたら、決してこういった言葉は使われなかっただろう。30年前でも難しかったかもしれない。紛れもなく、IT技術が一般に普及している2020年代の今でこそ可能な語り方である。古典の解釈は常に、読み手の時代の感覚を反映しているものだな……と妙なところで感得した。
書誌情報
上野修・戸田剛文・御子柴善之・大河内泰樹・山本貴光・吉川浩満著、斎藤哲也編『哲学史入門II デカルトからカント、ヘーゲルまで』NHK出版新書、2024年
問い(理解の確認)
「大陸合理論」対「イギリス経験論」という近代哲学史の図式(見方)は、いつ頃、誰によって成立したか。
上野修は、デカルトの「私」とスピノザの「神」とは、どちらも同じあるものを指しており、同じ言葉を使って言い換えられる、と語っている。その言葉は何か。
デカルト、スピノザ、ホッブズ、ライプニッツ。この4人の中で最も年少で、18世紀に足を掛けているのは誰か。
ライプニッツは「崖っぷちから引き返した」。その方法は、「現にあらず、これからあることもなく、またかつてあったこともないような諸々の可能なるものを考察することによって」であった(「自由について」)。さて、崖とは何の崖か。
「永遠真理創造説」とは何か。
「最善世界選択説」とは何か。
デカルト以前のスコラ哲学の「魂と肉体」という枠組みと、デカルト以後の「精神と身体」という枠組み、それぞれにおいて、自動機械ーーautomatonーーである、またはありうるものは何か。
ホッブズもスピノザも主権の絶対性を認め、国家の前に自然権は消滅するとみなされるが、スピノザの議論ではそれにも拘らず、人々には国家に敵対する可能性が残されている。そのキーワードは「コナトゥス」である、という。コナトゥスとは何で、なぜ国家への対抗につながるのか。
斎藤哲也は上野修への質問の形で、ライプニッツの哲学(についての上野の説明)を次のように概括している。下線部に入る言葉を答えよ。
「あえて順番をつけて言えば、ライプニッツの神は無数の可能世界から最善の世界を選ぶわけですよね。いわば最善の台本を選ぶ。それから、その台本が現実になるような情報が書き込まれた、無数の_______を創造したと考えればいいですか。」
戸田剛文は、「社会の役に立つかどうか」という物差しを哲学に対して適用することに、否定的ではないどころか、むしろ肯定的である。それはなぜか。
カントの、「認識が対象に従うのではなく、対象が認識に従う」と表現された認識論は、_______的転回、と呼ばれる。下線に入る言葉は何か。
定言命法、仮言命法についてそれぞれ説明せよ。
カントにおける「超越論的」と「超越的」、両者それぞれの対義語が何であるかに触れつつ、両者の違いを述べよ。
ヘーゲルの"Aufheben"が、否定であると同時に保存である、とは、大河内泰樹によれば、何かが否定されずに残っている、ということではない。そうではなく、どういうことだと言われているか。
巻末「関連年表」に記載された、「関連書籍」の概要を順に説明せよ。
いつか読んでみたい参考文献
上野修『哲学者たちのワンダーランド』
野田又夫『デカルト』
バークリ『ハイラスとフィロナスの三つの対話』
バウムガルトナー『カント入門講義』
久保陽一『ドイツ観念論とは何か』