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トルコ語編#10: 名詞句、後置詞、接尾辞、格変化
まだ名詞の世界をうろついている。動詞を理解することはできない。
使っている文法書は、名詞の表現の可能性をまず確認するという基本方針に則り、名詞にもう一つの語を添加することで意味の拡張がなされる事象を取り上げて説明している。
トルコ語文法を説明する用語はまだ日本人研究者の間では(?)定まっていないようだが、本書では「接尾辞」と「後置詞」を使い分ける。前者は単語の一部になるもので、後者は単語の一部にならず独自性を保つもの、という違いがあると述べている。
それは、正書法上で分かち書きするかくっつけて書くかの恣意的な違いであって、本質的な区別ではないのでは? と思ったが、そうでもないらしい。ストレスを担う/担わない、母音調和の原則が適用される/適用されないなど、分かち書きだけではなく、音韻論的(あるいは音声学的)な振る舞いも違うので、区別する意味はあるというわけだ。
細かい議論はともかく、名詞と名詞の組み合わせ方を学べたおかげで、辞書の用例もだいぶ理解できるようになった。単語帳が捗る。
単語熟語帳 arkadaş「友」
Arkadaşım!「友よ!」アルカダシュム!
-im「私の〜」イム
okul arkadaşı「学友」オクラルカダシュ
okul「学校」オクル
yol arkadaşı「道連れ」ヨラルカダシュ
yol「道」ヨル
arkadaş canlısı「友情家」アルカダシュジャンルス
canlı「生き物」ジャンル
oyun arkadaşı「遊び友達」オユナルカダシュ
oyun「遊び」オユン
『ドラえもん』のキャラクター、ジャイアンの決まり文句である「心の友よ」はトルコ語に訳すとしたら、Arkadaşım! に何か強めの一語を付け足す形になるのだろう。
トルコを含む中東や中央アジアの人々について私は、情誼に厚く、旅人を歓待し、友人を大切にする、という大雑把なイメージを持っている。(実際にこの地域出身の人と親しく交わった経験は私にはないから、ただのイメージではあるが。)トルコ語の呼びかけなどで-im「私の」を付けるのは単なる習慣らしいので、そこまでの気持ちが乗っていないことも多いとは思うが、たとえ形骸化していても、そういったホスピタリティの文化を連想させる接尾辞だ。
okulは見た目はschoolに似ているが、wiktionary英語版を覗いてみたら、ヨーロッパ系言語の学校を表す単語とはおそらく関係なく、トルコ語のoku-「読む」という動詞語幹から作られたとの由。ただし、フランス語のécoleに結果的に音が似ているのでこの造語が採用された可能性もあるということが書かれている。こういうのをphono-semantic matchingと呼ぶらしい。
yol arkadaşı「道連れ」という言葉も、私はホスピタリティの文化(の勝手なイメージ)に関連づけてしまう。トルコではたまたま同道しただけの者同士も、何らかの心のこもったやり取りをして、仲良くなるものなのかもしれない、などと想像する。
「友情家」は翻訳のために捻り出されたような、あまり見ない日本語だ。私は、『罪と罰』のラズミーヒンのような人物を思い浮かべる。canlıが「生き物」だからarkadaş canlısıは、友情に生きる生き物、というくらいにその人物の本質に関わる強い規定を伴った表現だろう。トルコでは、あの人はarkadaş canlısıだ、というような人物評はよく聞かれるのだろうか。それとも、辞書の編纂者がただ、たまたまこのフレーズを目に留めて採録したのだろうか。
canlı「生き物」はcan「魂」からの派生語と思われる。canはペルシャ語由来だと辞書が教えてくれる。プラトーノフに、「ジャン」という短編があったことを思い出す。中央アジアの砂漠が舞台の作品だ。おそらく、同じ言葉ではないだろうか?
単語や熟語をめぐって、あれこれと考えたり調べたりしていると、10個のフレーズぐらいはすぐに覚えてしまう。単調な暗記ではないので楽しくもある。今日も、充実した学習ができた。