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トルコ語編#15: kız「娘」
ようやく年末の休暇が少し取れるので、語学が捗る。
読書も進めたいところだ。
きょうの単語熟語帳 - kız「娘」
kız almak「嫁をもらう」クザルマク
almak「取る」アルマク
kız istemek「娘を嫁に望む」クズィステメク
istemek「要求する」イステメク
sinek kızı「クラブのクィーン」スィネックズ
sinek「ハエ」スィネク
kız kaçırmak「娘を拐かす」クズ・カチュルマク
kaçırmak「逃す」カチュルマク
kız kardeş「妹」クズ・カルデシュ
kardeş「きょうだい」カルデシュ
kız almak「嫁をもらう」に出てくるalmak「取る」と、昨日学習した、çocuk aldırmak「子供を堕ろす」に出てくるaldırmak「取らせる」は、形も意味も似ている。辞書によれば、-dir(-dır, -dür, -dur)は動詞語幹に付いて他動詞を形成する接尾辞だそうだ。ひとつ勉強になった。
娘というのは、少なくともトルコ語の慣用的なフレーズの中では、取ったり、要求したり、あるいは拐かしたりする対象のようだ。こうした語彙は、なんとなく遊牧民的だと感じる。遊牧しつつの略奪が生業であった何百年か前には、トルコ人も大いにkız kaçırmakしていたことだろう。
このkaçırmakは意味の捉えづらい言葉だと感じた。「電車を逃す」という場合のように、欲しいものを手に入れずに終わるという、英語のmissにあたるような意味がある一方で、「娘を拐かす」という際には、欲しいものを手に入れて終わっている。後者の場合の動詞の主語は誘拐者になるが、誘拐された娘の親からすれば娘をmissしているわけで、視点が逆転しているようにも見える。私が混乱しているのは、行為主体の視点にこだわりすぎているのだろうか。むしろ、誰かにとって望ましいものが失われるという事象を中立的に(中動態的に?)表現する単語、というふうに理解するべきなのだろうか。
「クラブのクィーン」はちょっと面白かった。日本語で「死ねっクズ!」と叫んだとすれば、トルコ語ネイティブには「<クラブのクィーン!>」と叫んでいるかのように聞こえ、さらにトルコ語の文字通りの意味としては「<ハエの娘!>」と叫んでいることになる。トランプのクラブ♧の記号をハエと呼ぶのは、ハエの目の形にでも見立てたものか。
kardeş「きょうだい」というのは最も基本的な語彙の一つだと思うが、母音調和していない(aとeが同居している)。外来語をそのまま使っているケースだとそういうこともあるが、外来語でもないようだ。母音調和は元々、言いやすいように発音されるという、音声学的な現象だから、言いにくくなければ、同じグループでない母音同士も例外的に共存が許されるのかもしれない。この単語の場合、rとdという、調音に時間のかかる子音が間に2つ挟まっているので、aを発音する時点でeと同じ舌の構えになっていた方がいいのかどうかは、言いやすさの点ではどちらでも良さそうである。