言葉にしないこと


言葉で書けることには限りがあります。

どんな人が綴ったどんな言葉にも必ず背景があって意図があります。

誰かに何かを伝えたいときに、
正確に伝わらないその全責任は発信元にあると
私は考えていて、「この人はこういう人だから」
「こんな表現をするのは、こういう人だから」
というパーソナリティを加味して受け取るのは
受け取り手の善意であり、期待するものではありません。

だからできるだけ誤解なく
正確に自分の気持ちを相手に伝えたいから
言葉を学び、伝え方を学ぶわけで

それは、もちろん
日常のコミニケーションに対してもそうですが

私は昔からなにかを感じると
すぐに言葉に変換し、SNSに書き殴り
長文の感想をしたためて
出演者様に手紙を送りつけ、
ここが素敵だった感動した、
この表情が、この声のトーンが。

そう御託を並べ、好きな理由はいくらでも説明できた
なんで好きなの?と聞かれて
できるだけ正確にそれを表現することこそが
私のやりたいことでした。

今もそうです。
この手の動き素敵だな、
周りが動いてる中の静だから、
眼目を集める美しい動きなんだな。

途中まで力強いけど
最後に力が抜けるから緩急を感じるんだな。

そんなことを思いながらステージを見ている。
説明しようと思ったら、
際限なく言葉が出てくる。

でも、そんなひとさじその瞬間を掬った感想よりも
大きい気持ちが心にあるのです。

それを表そうとしたら、初めて言葉がなくなった。

わからないけど、心がギュッとなる。
かっこいいでも、かわいいでも、なくて
恐ろしいでも、苦しいでもない
そんな心が動く瞬間が確かにあるんです。

自分の中で視界をクリアにして
整理できる唯一のツールである言葉を奪われて、

なんとか伝えようと思ったら
使い古された陳腐な表現しか出てこなくて。
悔しかったし、自分がもっとたくさんの言葉を知っていれば経験が、あればひょっとしたら
この気持ちを書き表すことができるかもしれない。
そう思ったこともあります。

でも、言葉に書けない、その表象が
たしかに世の中に存在するんだと思います。
複雑で映画や小説と違う、言語化できない部分。

表現できない感想になにも意味はないのかもしれない
伝えられない思いに、価値なんてないのかもしれない
でも、たしかにここにあったんです。

言葉にするというのは、
大事な要素を消してしまう気がして、
ひょっとしたら、この書き表せない不可解な思いが私がここからこの景色を見たい理由なのかもしれないのです。

もちろん言語がそんなに万能で崇高なものだと思っていないが故です。表象には多くの手段があるので。

だからこれからも、言葉の限りを尽くして
この「言葉にしない」部分の価値を伝えるために
出来る限り他の部分を言語で表現するのです。
思うこと、考えること全てに価値があると信じたい。
だからこそです。

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