言葉で書けることには限りがあります。 どんな人が綴ったどんな言葉にも必ず背景があって意図があります。 誰かに何かを伝えたいときに、 正確に伝わらないその全責任は発信元にあると 私は考えていて、「この人はこういう人だから」 「こんな表現をするのは、こういう人だから」 というパーソナリティを加味して受け取るのは 受け取り手の善意であり、期待するものではありません。 だからできるだけ誤解なく 正確に自分の気持ちを相手に伝えたいから 言葉を学び、伝え方を学ぶわけで それは、も
夏目漱石か、織田作之助か。 みたいなタイトルになりました。 「アートと命どっちが価値があるのか?」 最近、ちょっと前に話題になった ゴッホのひまわりにトマトジュースをかけた環境活動家の言葉、ニュースの見出しを見て数年前に考えたことを思い出した。 今また、昼も夜もずっと考えてる。 芸術至上主義と言えば「絵仏師良秀」 鎌倉時代の説話集「宇治拾遺物語」の中のお話です。 仏画作家の良秀が、 妻子が中にいる状態の自宅が火事になっているところを、 「今まで不動尊の炎を下手に描いて
欲しがりもねだりもせず 望みもせず 私のつまらない人生 少しだけ、15年前に応援してた人の話をする。 素敵な人だった、笑いのセンスが抜群で、お芝居の仕事をたくさんしてた。 見たことない、出会ったことない本や 普通に生きていたら生で見る機会がなかったであろう俳優さん、女優さんいったことない土地や、食べたことないごはん。 たくさん経験させてもらった、幸せだった。 少しシャイで、言葉よりも行動で示すところが かっこよくて。他のタレントさんがハイタッチしたり ファンサをしてる中、
毎日泣きながら応援しているなんて 口が裂けても言えないけど 楽しいはずのものが 楽しかったことと 同じくらい、いやそれ以上に 悩んだり苦しんだりする瞬間が多くて。 自分が大切にしていたものが 目の前でガラガラ崩れてくるのが 苦しくて悲しくて、 自分が間違ってたんじゃないかって問われてる気がして。 やらなきゃよかった、言わなきゃよかった。 期待しなきゃよかった。 ただのファンだけど。何をする義務もないけど。 こんなに苦しい思いをするなら、 自分がもうこの場所からは 求め
星の王子さまのキツネの名言で「大切なものは目には見えない」というのがあるんですけど 実はその後の文章がすごく苦しいんですよね。 「バラのためになくしたじかんが、きみのバラをそんなにもだいじなものにしたんだ。」 人を長く応援しているとそういうことがあります。 いつまでもここにいたいって気持ちの中には、この場所を手放したくないって思うことも含まれてて。 過去の時間って その瞬間楽しかったことも、綺麗だったことも 忘れたくない景色、匂い、音 思い出せる限りは、その時間は永遠
推しとか担当とか。そもそも、推しって何を基準に選ぶんでしょうね お顔が好き、人間性、歌が上手、あの演技がサイコーだった、お話しして素敵な人だった、ファンサがいいから、なんとなくetc. 私は、お顔がとてつもなく好きだった人もいたし 笑いのセンスが大好きで応援してた人もいたし でも共通してるのは、 やっぱりそれまでの過程で見てきた大好きな「譲れない部分」がなくなってないこと、 自分の中で「こうあって欲しい」という姿が変わっていないこと、 そこが信じられる限りは、同じ気持ち