「終わりの町で鬼と踊れ」4話
スワンボートと鯉
渡船場に行くと、腰に日本刀を帯びて、仁王立ちで渡船場にいたおっさんが、俺を見つけるなり言った。
「お前もふらふらしてないで、自警団に加わってちゃんと島を守れ」
相変わらず、言うことはいつも一緒だ。
「俺は俺のやり方で守ってるよ、情報持って来てやっただろ」
昨日西見さんに言った話は、自治会にも自警団に伝わっているはずだ。
「地下鉄沿線づたいに伝令してやるよ。ありがたいだろ」
亨悟みたいにへらっと笑って受け流す。めんどくさい。
さっさと逃げ出すに限る。船に乗り込んで、舫杭に固定しているロープをほどくため、振り返った。
コンクリートの上から俺を見下ろす日本刀のおっさんの顔が目に入る。どんどんその顔が険しくなる。ああ、しまった、煽ったか。
怒鳴りつけられるかな。思ったが、ライフルをかついだおっさんがやってきて、まあまあ、と日本刀のおっさんの肩をたたいた。
「子供のいうことに目くじら立てなさんな」
「早死にしないよう、気にしてやってるだけだろう」
吐き捨てて、日本刀のおっさんは、もう一人のおっさんの手を振り払い、俺を睨みつけてからいなくなった。
しまったなあ、こういうの、七穂へのあたりに影響が出ないといいけど。
助け船を出してくれたおっさんは、しゃがみこんで、膝に頬杖をついて溜息をついた。
「お前も、もうちょっとうまく立ち回れよ」
「やってるつもりなんだけどなあ」
相手を選んでるつもりなんだけど。
「とりあえず話し聞くふりだけでもしろよ。たいていの大人はそれで満足するんだから」
ガキめ、とおっさんは苦笑する。
そして顔をあげて、海の向こうの、姪浜の渡船場を見る。
「ここから見てると、昔のままに思えるよ。車が走ってて、天神は人だらけで、博多駅からは新幹線が出てて、空港からは飛行機が飛んでる。他の都市とは違って空港が近いから、飛行機が落っこちてくるんじゃないかってくらいに大きくてな」
姪浜が見える。その先の、福岡タワーやドーム球場も。福岡の街は決して背が高くはない。
東京なんかはもっとビルがそびえたっているとおっさんたちは言うけど、福岡は空を飛ぶ乗りものが近くに発着していたせいで、建物の高さに規制があったらしい。
俺はそんなでかいものが空を飛ぶところなんて見たことがない。雑誌で写真を見たことはあるが。
他と比べてどんな町だとしたって、ここから見れば街は整然とそこにあって、家が並んで、マンションがあって、そこに人々の生活がありそうに見える。
でも近くで見れば、燃やされたり、壊された家が並んでる。
人の制御を無くした木々がアスファルトを破り、その辺の家に巻きついて、自動販売機に絡みついていてる。いつ崩れてもおかしくないようなマンションもたくさんあるのに。
おっさんたちにとって、遠くから見る分には、あっちのほうが理想郷なんだろう。
この島は俺にノスタルジーを抱かせるけど、おっさんたちにとってはここから見えるあっちの方が、ノスタルジーなんだろう。
「榛真」
俺が聞き流してるのに気付いて、おっさんは、やれやれとつぶやいた。
「風が強いし雲行きがあやしい。この時期は台風が多いから気をつけろ」
サンキュ、と俺は軽く応えて、船のエンジンを入れた。
天候が荒れると、七穂が体調を崩す。発作を起こさないか、その方が心配だ。
対岸に渡って、津崎さんに挨拶して犬を撫で回してから、自転車を回収する。それから念のため、装備を確認した。
手首に巻きつけた投弾帯は、片方が輪になった紐のようなものだ。
ヒップバッグの中の投石代わりの釘や小銭。それから銃。
ベルトにぶらさげた手製の鞘にいれた包丁。
それと、リュックにつっこんだボウガンの矢がはみだしている。
ブルゾンのフードをかぶり、チャックを鼻まで引き上げて、リュックを背負い直し、俺は自転車をこいだ。
そのまままっすぐ、姪浜駅へ向かう。
能古渡船場は、地下鉄姪浜駅から近い。自転車で十分もあればつく距離だ。
姪浜駅は別の路線に連絡しているから、地下鉄とは言うものの地上にある。それが島の人間にとって少しは救いだった。
姪浜駅も、線路が地下に潜るあたりにも、隣の室見駅にも、自警団が交代で見張っている。
駅にはシャッターが降りて、自警団の人達は少し離れたところにいた。俺はまず姪浜駅の自警団の人たちに、炭鉱の奴らのことを知らせた。
それから地下鉄の入口や道路わきの大きな建物に気をつけながら、地下鉄沿線上の道路へ向かう。
太陽が出ている間も、吸血鬼どもは日よけの傘や外套をかぶりさえすればうろつけるのだから、油断はできない。
線路脇で見張りをしているおっさんたちに挨拶をして、炭鉱の奴らのことを知らせながら、俺は中央区へ向けて自転車を走らせた。アスファルトはでこぼこで、ガタガタ自転車を鳴らしながら、ぐいぐい進む。
勝手気ままに育った街路樹の木陰にも気をつけながら、懸命にペダルをこぎ続ける。
気が進まないが、天神に戻って、炭鉱の奴らがあの後どうしたのか探らないと。
あいつらが刺激した吸血鬼どもが変な動きをしていないかも気になる。
まっすぐ東へ伸びる大きな道路を走り続けると、先は西新。商店街が長く延びて、学校や大きな病院跡があるところだ。
ここは危険なんだが。迂回するか迷ったのは一瞬で、俺は大きな道路をまっすぐ進む。
「史跡 元寇防塁入り口」と書かれた大きな石碑の横を通り過ぎた所だった。
嫌な予感がして、慌ててハンドルを切り、地面に片足をついて方向転換しながら止まった。
顔の真横を、ヒュンと音を立てて何かが飛んでいく。
少し遅れて、冷や汗が背中を伝った。まっすぐ進んでいたら、顔面を打ち抜かれていたところだった。
――めんどくさいヤツに見つかった。
俺は大きく舌打ちしながら、体勢を整えた。
「臆病者は勘だけはいいな」
張りのいい声が、しんとした辺りに響いた。
ポクポクとくぐもった蹄の音がする。
路地から栗毛の馬が進み出てくる。馬上には、俺と同じくらいの年のヤツが、背筋を伸ばして乗っている。ヤツの構えた大きな弓は引き絞られて、矢がまっすぐ俺の頭を狙っていた。
「今日こそ目障りな顔のど真ん中に穴をあけてやる」
「うるせえ、お前ぶっ殺して、馬を食ってやる」
言い返す俺を、ヤツは端正な顔で嘲笑った。
いつからか覚えてないが、こいつとはすっかり顔見知りだ。
こいつは、本来は市内のもっと山の方が縄張りのはずだ。山の方には、流鏑馬神事をやっている神社があって、そこの馬場に行っていた人達が子供達に馬術を教えていたりするらしい。
やはり、昨日の騒ぎの影響なのか。吸血鬼の奴らは奴らで何かを企んでいるのか。
「史仁、さっさと殺しちゃいなよ」
無邪気な高い声が言った。
レースのたくさんついた日傘をさして、くるくる回しながら、馬の影から少女が姿を見せる。
ボンネットとかいうらしい大きなツバのついた帽子をかぶり、顎でリボンをでかでかと結んでいる。
裾が大きく広がって、とにかくたくさん布がついたワンピースを着て、白いタイツをはいていた。
顔のほとんどを覆ったサングラスを、手袋をした手で押し上げた。サングラスだけ明らかに格好に合っていない。
七穂と同じ年くらいに見えるが、こいつはここ何年もずっと、見た目の年を食っていない。
史仁は人間だが、こいつは人間じゃない。
馬上から弓を構え、生真面目な顔で俺を睨む人間の少年と、楽しそうに笑う吸血鬼の少女のコンビは、西新への道の真ん中で立ち塞がっていた。
「勝手に殺していいのかよ、人間は貴重な資源だろ」
言いながら俺はさりげなく左手をヒップバッグにのばす。
「お前みたいな協調性のないやつ、管理コストがかかるだけで、一利もない」
史仁は馬上から俺を見下ろし、冷ややかに言った。
「天神で騒ぎを起こしたのお前だろう」
「だったらどうだっていうんだよ」
もう情報がまわっているのか。そのせいでこいつは南の方からこっちまで出てきたのか。何らかの招集がかかったのか?
「お前みたいな野蛮なのがいるから、俺たちはいちいち生活を乱されて迷惑なんだよ」
馬上ですらりと背を伸ばして、しっかりと矢で俺をねらっている王子様みたいな史仁は、ボロボロで傷だらけの俺に言い放った。ヤツの近くで、吸血鬼の少女は無邪気に、くるくると日傘をまわしている。
史仁は、吸血鬼と共存を選んだ――否や、吸血鬼に飼われた人間達の一人だ。
吸血鬼だって、いちいち人間を狩って食事をするのが面倒になるらしい。
中には特に凶暴な奴は狩って食うのがいいんだって言うのもいるだろうが、だいたい食事のたびに狩りをしてちゃ食いはぐれることもある。
人間は数を減らしているし、狩り続ければそのうちいなくなる。そう気づいたんだろう。自然の成り行きだ。
やつらは人間を飼うことにした。保護と引き換えに。
誰だって閉じ込められれば反抗するが、そこの人間たちには自由が与えられているらしい。学校や病院に住んで、グラウンドなんかを丸ごと畑や田んぼにして、皆自分たちの糧を得るために働いている。
しかも人間たちは、ほとんどが皆自分の意志でそこにいる。そこにいれば安全で食べ物があるからだ。
かつては吸血鬼を排除しようとしたくせに、人間たちの一部は今や、やつらを病気の人間として憐れみ血を与えながら、保護されて生きている。
日中働く人間たちを見張るのは、日傘やフードやサングラスで防備した吸血鬼たちもだが、ほとんどが人間だ。
やつらが縄張りにしているのは、主だったところで、この先の西新駅すぐ近くの総合病院、それから渡辺通り駅近くの総合病院。それから、史仁達の縄張りの福岡大学とそこの大学病院。
地下鉄駅に隣接で、でかい病院はおあつらえ向きに入院の設備があるから、人間を飼ったり自分たちが住むのに都合が良かったんだろう。特に渡辺通りの方の病院は、上層階が老人ホームだったおかげで、便利だったのに違いない。
何より、病院なら輸血ができる。
やつらはそこで飼った人間から血を抜き取って、その血で生きている。
そうすれば噛みついて死なせることもないし、血を抜かれる方もさほど痛い思いをすることもない。
俺と史仁は、同じ終末後世代。
ただし、俺は人間が文明的生活を守る島の生まれで、やつは吸血鬼に飼われた人間の子供だ。
根本的に違う。
史仁は、人間のくせに人間達の見張りをすると同時に、外敵からのガーディアンでもある。
だからこいつが縄張りを離れてこんなところにいるなんて、絶対におかしい。
「うるせえ、お前みたいなのがいるから、吸血鬼どもを根絶できねーんだろ!」
俺は吸血鬼の少女を指さして怒鳴る。
史仁はキュウと端整な眉を寄せる。まずい。慌てて身を低くしたと同時、頭上を矢が飛んでいった。
俺は手首に巻いていてた投弾帯をほどく。太くなったところに、ヒップバッグから取り出した手製の散弾を装填した。ほとんど同時に腕をふりまわし、史仁めがけて放つ。
散弾は地面に当たって弾け、ネジやら釘やらをばらまいた。
「史仁!」
叫びながら少女が飛び出してくる。飛び散った凶器は少女の頬や腕や身体中に傷を作った。血が吹き出す。
「杏樹、危ない!」
「わたしはいいの、史仁に当たったらどうすんのよ!」
少女は血まみれの顔で、ものすごい剣幕で怒鳴って、駆けだしてきた。史仁がハイッと声を上げて馬を繰る。
「当ててるんだよ!」
「お前のノーコン弾なんか当たるか!」
史仁が怒鳴り返してくる。うるせえ!
俺は思いきり自転車のペダルを踏み込んだ。三十六計逃げるに如かず、身を翻して真後ろに逃げる。
上半身を前に倒して身を低くしたところで、また頭を空気が切る音がかすめる。矢が飛んでいった。
「相変わらずすばしっこい、逃げるのだけは見事だな」
「うるせえ、生き延びた者勝ちだろ!」
間近の路地へハンドルをきる。
路地の入り口に唐突にある石の鳥居をくぐった。ここは神社の参道を道がぶったぎっていて、鳥居の先は商店街だ。
店や路地が入り組んで、逃げ込むにはちょうどいい。俺はとにかく後ろを見ずに自転車をこいだ。
馬はやっかいだ。蒸気トラクターや俺みたいな自転車では、コンクリートのデコボコ道に翻弄されるが、史仁の馬術はなかなかのもので、軽々と馬をあやつり、障害物を飛び越えてくる。
だが、やつらはおいかけてこなかった。
自分達の縄張りじゃないからか。なにか、厄介な事態になっているのか。
天神で俺が――あの少女が殺した吸血鬼のせいか、炭鉱ヤクザどものせいか。
あちらこちらと路地を曲がりながら南下していくと、城跡の石垣が見えてきた。
大きな公園の前へ出る。蓮の葉がびっしりと水面を覆った濠が見えてきた。大濠公園だ。
ふらふらと大通りに出てきた人影に、俺はあわててブレーキを握りしめた。それだけじゃ止まりきれず、ハンドルを切って、スライドしながらすっ転んだ。
赤い布をかぶった、見覚えのある背格好の人物だ。
「おい!」
死にたいのか、俺を殺したいのか。島を出て早々に、何度も打ち身をこしらえる羽目になった俺は、自転車を起こしながら、苛立ちまぎれに怒鳴る。
窮地を脱してきて気が立っていた。
「何やってんだお前!」
大きなパドルにすがるようにして、少女が道の真ん中に突っ立っている。赤いストールポンチョの下で、赤い眼鏡が俺を見た。
「……あんたか」
紗奈は、ちゃんと俺を覚えていたらしい。気の強そうな目は相変わらずだが、顔が蒼白だった。
痛みにむかっ腹がたっていたが、頭にのぼった血がひいてく気がした。
「お前、怪我は大丈夫なのか?」
ふらふらしている理由がそれしか思いつかない。怪我をしてるか腹が減ってるか、大抵どちらかだ。
「ちゃんと手当てしないからだろうが。抗生剤と痛み止めがあるぞ」
それ見たことかと言う俺に、紗奈はパドルを杖のようにして歩きだした。こんなでかいもの、かえって邪魔じゃないのか。
「いらない」
どこかで休もうとでもいうのか、公園の方へと向かっている。
「お前な。そんなんで、昨日の奴らとか吸血鬼に会ったらどうするんだよ。他にも変なのがうろうろしてるし」
「昨日はこの辺の家に隠れてたんだけど、なんかバカどもが夜うるさくて」
「炭鉱の奴らこの辺に来たのか」
「うるさいから黙らせたけど。腹が減ったし疲れたし眠い」
俺はおとといの様子を思い出した。あれだけむちゃくちゃできれば、あいつらも追い払えるのかもしれない。
のろのろと歩く紗奈の後ろを、俺は自転車を押しながら、なんとなしについていく。
「とりあえず西の方に来たつもりだったんだけどな」
亨悟と俺の隠れ家からすれば、こっちは南だ。
「お前方向音痴か? 今の時間は太陽と逆に進めばいいだろ」
そうだな、とうつむいたまま少女は皮肉に笑った。いつも憮然としていたのに、急にそんな表情を見せられて、俺は何か気まずい思いになる。
公園の門を通る。
きちんと管理されていたはずの公園は、今は木が鬱蒼と繁って、コンクリートのランニングコースも亀裂だらけでデコボコだ。
その上を、俺は苦労しながら自転車を押して歩く。風が、大きな池にさざ波を立てている。
「西に何かあるのか」
俺の問いに、何も、と彼女は笑う。
「本州から少しでも離れたかっただけ」
そして、暑い、とつぶやく。やたらと疲れた様子に、俺は思いついて言った。
「コーヒー飲まないか?」
唐突な俺の言葉に、紗奈は顔を上げる。眼鏡の奥の目が、もの問いたげに俺を見た。
手当をさせてくれないなら仕方ない。
「俺のおごりだ」
公園の中には大きな池があって、俺はかつて、藻や何かの蔦にからみつかれたスワンボートを何日もかけて救出した。
白かったと思われる白鳥はすっかり黄ばんでプラスチックもボロボロになっているけれど、乗れないことはない。
「なにこれ」
「見てわかるだろう。白鳥だ」
乗り場の横に自転車を停めて、俺は胸を張ってスワンボートを指さした。
黒いくちばしが誇らしげに天を向いている。
「乗れ」
紗奈は不審げに俺を見たが、俺はとりあえず敵意がないのを示すために、両手を開いて肩をすくめた。
狭いスワンボートは、少女が乗り込むとグラグラと揺れる。
紗奈の顔が不安そうになった。仏頂面ばかりだった紗奈のその顔が意外で、してやったりな気持ちになった。
座ったのを認めてから、リュックを前に回して、ひょいと乗り込む。一昨日射かけられたボウガンの矢も荷物に詰めていたが、リュックからはみ出てて、邪魔だった。
紗奈がパドルを手放さないせいで、ますます狭い。置き場がないので、床に立てて窓からはみ出させるしかなかった。
「これどうやるんだ」
「乗ったことないのか? 漕ぐんだよ。自転車と同じ」
まあ、乗ったことないだろうな。
俺が足元のペダルを漕ぐと、白鳥がゆっくりと動き出す。
池にゆったりと波紋が広がった。ぷかぷかと浮いていた本物の白鳥がゆらゆらと揺れる。紗奈はおっかなびっくり、ペダルを踏んだ。
大池の真ん中にはちいさな島がある。なんとなくそこへ向かって進んだ。
こんなところなにかに見つかったら、狙い撃ちだ。
だけど、スワンボートは天井もあるし壁も少しあるし、手も自由だから、手こぎボートよりはましな気がしてる。
スワンボートの屋根の下で、紗奈は赤いフードを下ろして、眼鏡をはずした。
池の真ん中にある島をぼんやりと見ている。島へ渡る観月橋には、鳩が数羽うろついていた。
「見えてるのか?」
まじまじと横顔を見る俺に、紗奈はあっさりと言った。
「伊達眼鏡だ」
紗奈は振り返って、大真面目に言った。
「防塵・防汚・撥水コートでとても役に立つ。博多駅のビルで拾ってきた。それにUVカット。人間だって紫外線から目を守らないと、すぐにばてる」
なんだそりゃ。
見えてるのか、と思った途端、近くで目を合わせているのがなんだか気まずくて、俺は目をそらした。顔を正面に向ける。
「しらね」
「お前も吸血鬼のふりするなら、サングラスくらいした方がいい」
天神で会った時のことを言っているのか。それはまあ、そうかもしれない。
だけど昔、ヤクザみたいだと亨悟に大笑いされてから、サングラスをするのはやめている。
「忠告どうも」
俺はそれだけ言って、ゆっくりとボートを漕いだ。
狭苦しいスワンボートの中で、俺たちは黙ってペダルを漕ぐ。ギコギコと軋んだ音と、水音があたりに響いた。
風が頬を撫でて、隣の少女の髪があおられて、かすかにふれた。空を灰色の雲が流れていく。
もうちょっと天気が良ければ気持ちがいいのに。島を出るとき言われた通り、空はどんどん陰ってくる。
静けさの中、水面を何かが跳ねた。
「なんだ、あれ」
紗奈が驚いた声をあげる。意外と素直な反応に、俺は思わず笑った。
「鯉だ。うまいぞ。泥臭いけど」
「だろうな」
「釣るか」
「誰か管理してないのか」
「誰が管理してんだよ、こんなとこ」
誰かの縄張りだなんてことは聞いたことがない。
それに鯉は池の中にめちゃくちゃいる。混乱のはじめの頃は食料として狙われて獲られまくったようだったが、人間が減っていつの間にかまた増えたようだった。
紗奈は俺を見て、ちいさくため息をついた。それから、くすりと笑った。
「のんきだな、あんたは」
また思いもよらない反応に、俺は戸惑った。
なんとなく間が持たなくて、腹にまわしていたリュックの蓋を開けて、中をあさくった。
七穂に渡された包みを取り出す。ハンカチの包みをほどくと、サランラップに包まれた白いものが出てくる。
本当は、とてもとても惜しい。
「食えよ」
七穂が握ったおにぎりだ。
海塩や海藻で味をつけてある。中味が何かは、食べてからの楽しみだ。
「妹の手作りだ。今まで誰にもわけてやったことがない」
一つ紗奈に差し出すが、少女は唖然とした顔で俺を見たまま、動かない。
仕方がないので、膝の上に乗っけてやった。
「あとこれ、コーヒー」
水筒を取り出す。
能古島には、もともと珈琲の農園がある。
自治会は、その珈琲農園をつぶして、食いものを育てることを検討したらしい。でも結局、俺の家の前のコスモスと同じように、何となく残された。
元々の島の姿を変えすぎるのを、嫌がる人も多かったのだ。
島で作って、焙煎して、挽いたばっかりの贅沢品だ。
「飲んだことない」
「そうだろう。インスタントコーヒーだって、どこで拾っても湿気てカチコチだからな」
「米も、子供の頃に食べたきりだ」
紗奈は、おっかなびっくりサランラップを開いて、握り飯を手で掴んだ。
目の前に持ち上げる。
白い握り飯は、スワンボートの狭い屋根の下で、輝いて見えた。
「せっかくの飯がカチコチになるぞ」
「……ああ」
意を決したように、おにぎりにかじり付いた。
思い切りよく、大きく一口。厳しい顔で噛み砕いて、飲み込んで。
肩を震わせて、ぼろぼろと涙をこぼした。
「うまい」
「そうだろう」
泣くほどうまいか。思わず笑った。
紗奈の仏頂面が崩れて、更にしてやったりな気持ちになった。奥の手を使った甲斐がある。
コーヒーをカップに入れて渡してやると、紗奈は涙をぬぐいもせず、受け取った。そのまま一口。
あれで味がわかるんだろうか、もったいないなあ。
俺は思っていたが、紗奈はぼろぼろと涙をこぼして、少しも泣き止まない。
おにぎりをつぶしてしまいそうなほど、強く握りしめて。
「おい……」
あまりにも泣き止まないので、少し浮かれていた気持ちがどんどん沈んでくる。
おにぎり落とすぞとか、早く食べろとか、コーヒーこぼすぞとか、いろいろ浮かんだけど、口から出てこない。思いもよらない展開に途方に暮れてしまった。
七穂なら、抱き寄せて肩を叩いてやればいいんだけど。
なぜか肩を震わせて泣く少女の横で、ただ黙ってボートをこぎ続ける。
「風が強いな」
ごまかすようにつぶやいた。
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