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“愛するということ”の前に
最近ようやっと、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本を購入しました。
実は現段階では、40ページくらいまでしか読んでいません。
でも全然いいのです。むしろ、フロムの考える「愛するということ」を全て知らないこの瞬間に、私なりの「愛するということ」を言葉にしておきたいと思って、書くことにしました。
私が愛についてはじめて考え始めたのは、中学生の時でした。
当時、合唱部に所属していたのですが、部活動で歌うことになったのが、新川和江作詞、信長貴富作曲の『春』という曲でした。
これは、冬の静止した季節から春の生命力溢れる芽吹きが感じられるような一曲なのですが、歌詞の最後に
「人よわたしはめんどりの様な 理屈ぬきの情熱で抱きしめる
希望と親愛の卵を抱きしめる
緑の影に胸を高鳴らせ、心ふるわせ
わたしはたまごを抱きしめる」
という歌詞が出てきます。
合唱に限らず、歌を歌うときに歌詞の意味を考えるのはすごく大切なことです。ただ譜面通り、音楽記号通りに歌ってもいいのですが、なぜフォルテなのか、どうしてここにアクセントがあるのかなどは、メロディーと歌詞の意味によっても大きく変化します。
メロディーの性質や法則などは中学生では学べる範囲が限られていたので、顧問の先生が手助けしてくれました。しかし、歌詞の意味は自分達で考えるようにという指導を受けました。
よく考えてみると、私はこの時から言葉についての興味を持ち始めたのかもしれません。
わたしはめんどりでもないですし、ましてや親になったこともないただの中学生。まだ知らない気持ちについては、考えなければ理解できるものではありませんでした。
そして考えた結果、“母性愛”に辿り着きました。その時は「母の無償の愛ってこういうことなんだ!」と思っていましたが、この「めんどり」も、人間界の欲が介在しないような動物の本能的な愛を表しているのかもしれない、などもっと色々な視点で考えられるようになったのはもっともっと後の話です。
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次に深く考えたのは高校生の時でした。同じ文芸部で同級生の部長さんが、突然、先生に「愛についての講義をしてください!」と言っているのを聞いて、私も一緒に参加してみたのがきっかけです。ちなみに先生は数学担当。厳しいところもありましたが、とってもチャーミングで、笑いどころも作ってくれる素敵な先生でした。
先生が授業してくれたのは大まかにいうと「愛には種類がある」ということでした。
中学生の頃に知った母性愛も愛ですし、恋人に注ぐ愛、友達を愛し、車やバイクなど趣味のモノにも愛情を持つ人もいます。
そして授業の中では、恋と愛の違いについても色々と考えました。先生はその時、その違いが大事だと言っていました。だから私は「見返りを求めるか求めないか」の違いだと結論づけました。
それは中学校の時の「無償の愛」という言葉に関連することなのですが、『春』の愛を知って以降、私の中で「愛」というのは見返りを求めない、無償のものだと考えていて、そのことから見返りを求める有償の愛は、単純に誰かを愛するのではなく、自己愛の一つの形なのかなと思っていました。
ちなみにちょっとした小話をすると、当時の部長さんは、数学好きで、虚数のiをこよなく愛していました。笑
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そして、次に愛について考えるようになったのは、つい最近のこと。今の恋人と付き合うようになってからです。
わたしは相手に対して、好きという言葉は使えても、なぜか愛してるという言葉は使えませんでした。それまでの恋愛ではあまり気にしていなかったんですが、今の歳になって、色々なことを理解し始めると、言えなくなってしまったのです。
それは彼も同じようでした。きちんと話し合ったことはありませんが、「愛」という言葉が持つ重さが、簡単に口にしちゃいけないことを悟らせてるのかもしれません。
そして日々彼の考えを知っていくうちにわかったのは、彼が思う愛は「望まない」「受け入れる」ことでした。
それまでのわたしは、悪いところはお互いに直すのが恋愛の掟で、嫌なことははっきり嫌と言っていました。しかし、彼は、わたしが今までの恋人に否定されてきた部分を受け入れてくれました。それは単純に彼にとってはさほど嫌じゃなかったということかもしれませんが、彼はわたしがどんなに意地悪なことをしても、最後にはきちんと許してくれる、というよりもそもそも、許す/許さないの問題ではなく「それもあなたの一つの形だ」と、その形を受け入れてくれました。
その考え方を知った時、わたしが今まで恋人に抱いていた感情は愛じゃなかったんだなと改めて思いました。相手に直してもらうことで愛を証明しようとする。直らなければ、自分のことを愛していないということになる。そんな愛を強いる行為。愛されることをもっと自覚したいという自分勝手な欲望でした。そして自分は愛されるために努力し、愛する。わたしの愛するという行為は、愛されたいがための有償のものでした。
そしてよく振り返ってみると、彼のそうした愛情は最初に話した、たまごを抱きしめるめんどりの愛の姿と似ていました。
“たまごは私に何もしません。むしろ、私の熱を奪っていくような気さえします。でも、私はこのたまごを放ってはおかず、ただ抱きしめ温める。そうしなければあなたは生きていけませんから、あなたが生きていくこと、それだけがの望みです。”
“君は僕を思って色々なことをしてくれるけれど、そんなことをしなくてもいい。僕は君がしたいようにしてくれれば十分。僕は君の隣にいたいけれど、もし僕が君を幸せにできないなら、幸せにできる人のところに行っても構わない。ただ幸せでいてほしい、それだけが僕の望み。”
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言葉にすると、とてもシンプルになってしまうのですが、愛とは、相手の生や幸せを願うような行為であるのかなと、感じています。
しかしそれは言葉ほど簡単なことではありません。わたしたちはまず一番に自分を愛してしまう。だから、他の相手を愛そうとしても、自分がまず先になってしまうんですよね。
「愛するということ」
そんな気持ちが自分にも芽生えるのだろうか、と不安を抱えつつも、
これから、フロムの本を読んでいきたいと思います。
最後まで読んでいただきありがとうございました。photographer:Ryunosuke Kishi
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