「なりたい」の罠
小学校の卒業文集で、たしかふざけて「総理大臣になりたい」と書いた記憶がある。そんなつもりは一ミリもなかったが。
(大きくなったら)何になりたいか、という問いに答えるとき、いや、答えようとするとき、他者の視線を意識せざるをない自分がいる。
ケーキ屋さんになりたい、お嫁さんになりたい、YouTuberになりたい、野球選手になりたい、等。
全部「他者にどう見られるか」を意識した上での答えにならざるをえない。
「なりたい」という言葉は自意識を孕んでいる。だから純粋な欲望とは言いがたく、社会性みたいなものがある。
「歌いたい」と「歌手になりたい」は別だ。歌いたくなくても歌手になりたいと思うし、歌手になりたくなくても歌いたいと思う。
「したい」と「なりたい」を混同するからおかしくなる。したければ、すればいい。それで達成だ。
それは「したい」なのか?「なりたい」なのか?と問う必要がある。
と書いて、真逆のことを言う。「歌いたい」と「歌手になりたい」は同じだ。他者の視線を踏み倒しさえすれば、歌えば、歌手だ。演じれば、役者だ。詩を書けば、詩人だ。
空気階段の鈴木もぐらのインタビューで、彼が甲本ヒロトの「バンドを組んだ時点で夢は叶っている」だったか、そんな感じの言葉に励まされたと言っていたが、まさにそうだ。
「したい」と「なりたい」は別で、同じだ。「なりたい」の捉え方次第で、何にでもなれる。
他者(あるいは社会)の視線を自分に取り込むほど「なりたい」が叶えづらくなる。
CD(古いか)を出さないと歌手じゃないとか、商業デビューしないと作家じゃないとか、お店を出さないとケーキ屋じゃないとか、そういうのは、だるい。
歌えば歌手、書けば作家、ケーキを作ればケーキ屋。
したいことをすれば、なる。
したいことをすることが、なるということ。
一般的な「何者かになりたい」という気持ちには、他者の視線がたくさん含まれている。含まれていればいるほど、何者かにはなりづらい。
てっとりばやく何者かになりたいなら、他者の視線を踏み倒し、勝手になればいい。
そんな気がする(気がするだけかもしれない)。