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突然、父が亡くなりまして。

2024年10月13日(土曜)の19:33、私の実の父が亡くなりました。
73歳でした。

今はまだ父の死から2、3日しか経っていないのですが、記憶や気持ちが鮮明なうちに文字に残しておきたいと思い、これを書いています。
誰かに読んでもらというより備忘録なので、わかりにくいところがあったらすみません。

父が倒れるまで

当日はとても気持ちいい秋晴れの日でした。
私と旦那さんは、神宮のラグビー場で行われていた「神宮コナモンストリート」に、昼前に向かいました。
広島焼やたこ焼き、暑かったのでソフトクリームやビールなどなど。。いろいろなものを食べてひとしきり満足していた午後2時過ぎのことです。
父の居る介護施設から電話がありました。

普段は母へ連絡がいくのですが、母はこの日社会人向けの学校の登校日でした。
授業中だったようで、この時のように母に連絡が取れなかった場合、娘の私のもとに電話が来ます。

介護施設からの電話は、大体父に何かが起きたときの緊急連絡です。
着信画面を見た瞬間、「あ、何かあったんだな。嫌だな。」と思ってしまいました。

電話を取ると、施設の方から、
「お父さんが食事をのどに詰まらせてしまいました。食べ物は職員が取り除きましたが、意識がありません。呼吸もありません。救急車を呼んでいます。」
と言われました。

「あ、ダメかもな。」
私の、一番最初に頭によぎった気持ちです。

(今までのこと)父について

私の家族は、父・母・娘の私の3人家族でした。
私は5年ほど前に結婚して、父母とは別の家で暮らしています。

父は7、8年前から体調を大きく崩していました。
まだ私が実家にいたころに慢性心不全となり、血が固まりやすくなっていました。
ある年の冬に血栓が脳に飛び、その影響で脳いっ血を起こし、命こそ助かりましたが、半身まひが残ってしまいました。

最初はまひのある体で、バリアフリーもままならない実家で、介護をしつつ父も生活していました。
それも限界が来て、介護施設へと移って、今に至ります。

(今までのこと)父と私

父と私は、仲が良くも悪くもない関係でした。

元気なころの父はお酒もたばこも嗜んでおり、気の荒い性格でした。
怒りっぽくて母に苦労ばかりかけ、本当に嫌いだった時期もありました。

ただ、仕事のいろいろや年齢の事もあり、父はだんだん静かに、体も小さくなっていきました。
父の変化と私の成長につれ、お互いに昔のことを忘れて声を掛け合えるようになりました。

父と、平穏に生活できた20代。
特にこれといった思い出は無い(笑)のですが、それが今となっては懐かしく、一番の思い出です。

みんなで病院へ

話は父の倒れた当日に戻ります。
父は意識も呼吸もないまま、救急隊によって病院に運ばれました。

私と旦那さんは、その時いた神宮(外苑前駅)から、父の搬送される練馬区の病院まで向かうことになりました。
どんなに早くても1時間。
しかもまだ母とは連絡が取れていませんでした。

冷静になろうとはしていても、なんとなく頭がボーっとして、上の空。「フーっ!」と、何度も何度も深呼吸をして、施設からの連絡の後からずっと早い心臓の鼓動をどうにか抑えようとしていました。

このとき、周りで休日を楽しむ人々がとても羨ましく感じました。
同時に、「どんな結末でも受け入れるから、早くこの状況が終わってほしい。1週間ぐらいタイムスリップしたい。」と思いました。
辛いことがあると、現実逃避しがちです。

移動中、病院から連絡が何度かありました。
「お父さんは搬送時に呼吸もなく、心停止もしていましたが、薬によって、すごく弱くですが心臓が動き出しました。ただ、このまま人口呼吸器をつけて延命しても脳への障害はほぼ100%避けられません。つまり、植物状態です。」
こんな内容でした。
最初は過度な延命希望についての有無にはっきり答えられませんでした。それは母が決めたほうが良いと思ったので。
ただ、話を聞いているうちにだんだんと状況を把握出来、最終的に私から延命不要を病院に伝えました。
この判断をしたことを後から母にも伝えましたが、母も同意見でした。

電車を乗り継いで(いつもよりとても遅く感じた)、父の病院の近くまで着いたころだったでしょうか、母もようやく連絡が取れました。
母もさすがに気が動転していました。少し泣いている様子も声から伝わってきました。
しかし、なんと、授業の単位を取るために、最後にあるという試験を受けてから向かうとのことでした(笑)
その時は動転して出た言葉なのかと思いましたが、真面目に単位が取りたかったようです。
なんだか、身内の死の瀬戸際に、公演を完遂する俳優さんか何かなのか。と思ってしまいました。

施設の方からのお話

(余談)病院はマスクが絶対必要なんですね。マスクも持たず着の身着のまま病院に向かった私と旦那さんは、病院内の販売機でマスクを慌てて買いました。

病院につくと面会までの間、先に病院に到着していた施設の方々から経緯の説明をしていただきました。

詳しいことはここでは省きますが、ほんの少し職員の方が目を離したすきにのどに食べ物を詰まらせ、様子がおかしい状態をおそらく詰まらせた1、2分後に職員の方が気づき、処置をしたが意識が戻らなくなってしまったとのことでした。
(経緯はすべて施設内のカメラで録画しており、家族も確認しています。)

「しっかり見守りが出来ていれば」「そもそも食事の内容がこうでなければ」
施設の方はとても真摯に事の重大さを受け止めて、施設としての責任をお詫びしてくださいました。
老人向け施設の事故や事件のニュースが増えている昨今、こんなに実直に状況を受け入れて頭を下げて下さった施設の方々に怒りの感情はまったくありませんでした。
ただ、苦しい思いをしたであろう父と同じ状況を繰り返さないように、施設として今後するべき対応や対策はしていただきたいという事を伝えました。

父と会う

私が存命の父と最後に会ったのは、2024年の2月ごろでした。
父はチョコが好きだったので、バレンタインチョコを兼ねてホワイトとミルクのチョコレートのアソート缶を持って施設に面会をしに行きました

2月以来、年内にもう一回くらいは施設に行きたいな。行かなきゃな。と思っていた矢先の今回の出来事でした。
会いたいと思った時に、会わなきゃダメですね。

救命救急室に運ばれていた父は、酸素を入れるための管を口にくわえ、目はうっすら開き、一目で死に際だとわかる状態でした。

施設からの電話で
「あ、ダメかもな。」
と感じた思いが、
「あ、ダメだな。」
に確信した瞬間でした。

お医者さんとは、心臓の動きをサポートするために薬を入れているが、薬の追加はせず、父の自発的な心臓の動きが止まるのを待つことで同意しました。

父の死

その後、救命救急室から一般病棟へ移動しました。
救命救急室ではまだ暖かかった父の腕が、病室へ移動したころにはだいぶ冷たくなっていました。

母とも、父が病室に移動して少し経ってから病院に到着、合流しました。
「お父さん」
母は、私が居るときは父の事を『おやじ』と呼んでいました。私が父の事を『おやじ』と呼んでいるからです(笑)
母と父、二人きりの時は「お父さん」と呼びます。
母が、父に声をかける姿に、とても胸が苦しくなりました。
私よりも、もっともっと長い間共に歩んできた父と母。
私の知らない二人の絆があると思うと。
今も言葉で表現できません。

そして、改めて施設の方から母へのお話がありました。
私は、動転している母が施設の方に酷く当たってしまうのではないかと少しヒヤヒヤしていました。
しかし、母は施設の方にとても感謝していました。
私は見れなかったのですが、母は父が食べ物を詰まらせるまでの食事の経緯を残した一部始終の映像を施設の方に見せてもらいました。

父は生涯、歯の健康に無頓着で、すでに50代のころから歯が少なくなっていました。
なのに入れ歯もせず、ほぼ歯茎と、わずかに残った歯(結局死んだときは残2本(笑))で食べ物を溶かしたりかみ砕いたりしていました。

しかし、そんな状態でもずっと食いしん坊で、しかも早食いでした。
施設では刻み食にしてもらっていましたが、食べ物の形がわかる程度に残ってないと嫌がるし、職員の方にとっても、面倒くさい入居者だったと思います。
映像を見た母も、「食べるペース早すぎだわ!こりゃだめだわ!」と笑っていました。危篤の父の横で(笑)

誰かが悪いわけではありませんけどね。
ただ、もう少し時間が経ったら、私たち家族の中で父の死は悲しい話というより笑い話になっていると思います。

その後、心拍が落ち着いていて、母と旦那さんと私も1、2時間弱見守っていて様子が変わりませんでした。
私たちが病院に着いた頃には16時過ぎだった時計が、19時になっていて、病室の窓も真っ暗になっていました。
そういえば、このころ(死の1時間前くらいから?)父の布団の中から硫黄臭がとてもしていました。
もう、いろいろ緩んでいたのかもしれないですね。

「今日は泊まりますか?」と看護師さんに言われ、母がいったん帰るとのことだったので、じゃあ一度病院を離れようかと思っていた矢先でした。
まるで「お前ら帰るのかよ!」と言うかのように、父の心拍が一気に落ちていきました。
40…38…39…38…39…37…35…19…0
40台、30台を何度か行き来したあと、がくんと心拍数が0まで落ちていきました。
「あ」
あ、しか言えませんでした。

その後

父は病院外で倒れたため、ご遺体は警察の検案を通してから葬儀社へ運ばれる旨となりました。

遺体となった父を横に、警察から事情聴取を受け、やっと病院を後に出来ました。結局22時近くになっていた気がします。

最後まで、私は旦那さんと一緒にいたから冷静をある程度保てていたと思います。この日、一緒に父を看取ってくれた旦那さんには、とてもとても、感謝しています。


今現在(これを書いている今)、まさに父の死後の対応に母と共に追われています。
身近な人が亡くなった後はとても忙しいですね。
やることが山積していて、なかなか寝れなかった昨夜、以下のまとめを見つけてとても共感するところが多い今日です。

母は、自立した性格なので、父の死は寂しくも、介護から解放されたことにほっとしている。これからは時間やお金に悩まず自分のやりたいことをやる。と、病室でも言っていました。
流石に当日はとても疲れていましたが、泣き崩れたりせず、粛々と状況を飲み込んでいました。
ただ、今は気丈にしていますが、気持ちが乱れるときもあると思います。これから母のサポートは、私がしていこうと思います。

私自身も、会社から忌引で時間をいただいています。
今回の事に関わっているすべての方がとても親切で温かく、悲しい気持ちを軽減させてくれている気がします。
周りで同じ状況に誰かがなった時にも、同じように対応させていただきたいなと、改めて感じました。

何かないのかな。

よく、故人が亡くなる前後に夢に出てきたとか、不思議なことがあったとか聞きますが、私には今のところありません。
ここ数年は特に、父と疎遠になっていたこともあり、父の中で私に何か伝えようという気持ちは無いのかもしれません(笑)
まあ、そういう事とは無縁なキャラクターの父だったので、納得といえば納得です。
母は、父が死ぬ前の日の夢で「好きなようにしなよ」と言う父の夢を見たそうです。おい!私にも何かないのか!

ただ、一つだけ、してやられたなと思うのは、母と私の誕生日の丁度真ん中ぐらいの日付で父が亡くなり、命日となったことです。
(母の誕生日が10月頭、私は10月末なので。なんなら私と旦那さんの結婚記念日も10月末。)
父は1月生まれなのですが、誕生日がずらせないなら命日で!とばかりに10月に自分のイベント(?)をねじ込んできたような気がして。
毎年10月は今まで以上に予定が多い日になりました。


そんなこんなで今は、父の体はまだ残っているし、やらなければならないこともたくさんあるのです。
だからなんとなく、私は父が死んだという事実が受け入れきれてないのかな、と自分でも感じています。
父の死後の用事がある程度落ち着いてきたとき、はじめて死んだことを実感する気がします。
それは、母も同じかも。

昨日今日で、母の住む実家と、今私と旦那さんが住んでいる家を行き来する最中(実家と住居は電車で1時間ほどの距離)、乗り換えする新宿駅の雑多な人混みが、なんだか心地よく感じます。
私の周りでは普段と違うことが起こっていて、新宿の人混みはいつもと変わらない。見えない壁を隔てた先にあるような、当たり前の日常が、今は羨ましく、早く私もその人混みの中の一人になりたいと感じます。

父の死から経過する日々で、いろいろな思いがこれからも溢れてくるのかなと思います。
私に余力があれば、その都度書き記しておきたいと思っています。
なにぶん筆不精なので、今後書き足すことはないかもしれませんが。

まずは、これから葬儀まで、父との肉体的なお別れの日々を、1日1日噛みしめたいと思います。

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