見出し画像

258:余宮飛翔『amnesia』と「Mask」──つぎはぎと凹凸

過去

シールが貼っているタンスのとっては丸かった.多分,空色の取手だったと思う.取手を思い出したのは,余宮飛翔さんの『amnesia』での画像のつぎはぎ部分が,少し厚みがある感じで,シールに似ているなと思ったところからだった.シールは厚みがあるということを思ったら,タンスに貼ってあったシールがブワーッと私の〈視界〉に現れてきて,その中に,タンスの取っ手もあったという感じだった.余宮さんの『amnesia』は写真なのか,絵画なのかが曖昧で,おそらくさまざまな画像がコラージュというか,さっき書いたようにつぎはぎされている感じがいい.その継ぎ目がシールっぽいと感じたところから,私が小学校のときに実家にあったタンスとそこに貼られたシールが思い出されてくるのだから,何がきっかけになって,過去が私の〈視界〉に現れてくるのかはわからない.

余宮さんの『amnesia』は多くの画像をつぎはぎして,作品が構成されている.このとき,一つ一つの画像はシールのように平面だけれど,一枚の作品として見ていると,立体的な感じになっている.私の過去に現れてくるタンスに貼られたシールは平面だし,貼られているのもタンスの平面で,立体的なところとして丸い取っ手がある.取っ手以外は平面的なのだが,全体として立体的なものとして現れている.色々な角度からそのシールを見ていたはずなのに,私の視界に現れているシールは真上から見た感じになっている.そのシールは図柄以外のところが透明だった.透明なので,図柄だけ見えるが,透明部分もうっすらと見えて,それが四角の平面になっている.シールは四角の平面であるということを強く感じたあとで,余宮さんの『amnesia』を見ると,不思議な感じを伴って,作品が見えてくる.その不思議さは平面のつぎはぎなのに立体に見えてくるところにあると思う.もともと立体のものに,画像が貼られているのではなくて,直方体の奥の面に画像を貼っているような感じを出しつつ,つぎはぎされた画像は立体感をつくっている.これは私の過去の現れとは似ていないなと最初は思っていたのだけど,この次元が曖昧な感じというのは,小学生の私が見ていた寝る部屋のタンス周辺の在り方に似ているのかもしれないと思ったら,タンスとその周辺は余宮さんの『amnesia』のように見えてきた.そのなかで,まだ図柄を思い出せないけど,図柄以外は透明な四角までは思い出せてきたシールだけが,明確に平面を主張していて,そこだけ見る角度が決まっている.〈視界〉の中で,そこで視点が決まっているという感じ.視点が決まっていて,見え方も決まっていて,そこから感じられる感じ方も決まっているのに,図柄は見えてこない.

余宮さんの『amnesia』を見ているあいだに図柄が現れるかと期待しているのだが,いっこうに見えてこない.でも,こうして書いていると,余宮さんの『amnesia』のつぎはぎの仕方がシールを破ったような感じに思えてきた.タンスに貼られたシールの幾つかは剥がされていた.私が剥がしたのか,弟が剥がしたのか,親が剥がしたのか,そもそもシールを貼るときに,失敗してそのようになったのかはわからないが,いくつかのシールは破れていた.破れたときはショックだっただろうか.シールを貼ったのが,2,3歳だったとしたら,シールが破けたときに悲しさを感じたかのどうかはもうわからない.破けたシールだけが,いくつかタンスに残っていた.そしてその破れ方は,余宮さんの『amnesia』の切り貼りされた画像の端の部分になっている.私の過去と余宮さんの『amnesia』とが段々と入り混じってきている.

一昨日


余宮飛翔「Mask」展示空間

名古屋のPHOTO GALLERY FLOW NAGOYAで,余宮飛翔「Mask」を見てきた.余宮さんの作品について書きたいと思って何ヶ月か経っているが,「これだ!」という視点が見つけられないまま「Mask」を見に来た.なぜ写真なのか,なぜPhotoshopを使うのかということに関して,『amnesia』を見ていた私は決定的な理由を考えられないでいた.自分が納得できるその理由が見つかれば,余宮さんの「作品について書ける」と思っていた.「作品について書ける」と確信を持てるようになる最後のピースを探してながら,ずっと展示を見ていた見ていた.そして,最後のピースは「カーテンかと思ったら,カーテンがプリントされた半透明の布だった」という体験にあるかなと思った.余宮さんは世界を「面」にしたい.面は面でも凹凸をなくした面で,その凹凸をなくした面を使って空間をつくりたい,そのための写真であり,Photoshopだと感じた.それをカーテン以上に強く感じさせたのは,会場で目を閉じて,会場を想像したとき,その想像の会場が,実際の会場と同等か,それ以上の感じで,私に現れたことであった.会場にいるのだから,会場そのものをダイレクトに体験した方がいいというのは思い込みに過ぎないのではないか.私が想像した会場は,今,私がいる会場の大まか感じが現れていて,細部は劣る,けれど,重要なのは,そこに凹凸がないということだ.私の意識におおまかに現れている会場は,立体感もあって,床とか壁の質感もある.だが,そこには凹凸がない.凹凸までは再現されていないと言った方がいいのかもしれない.凹凸がなくても質感や立体な感じがあるのは,そこで私が見ているものが想像された空間であり,作品だからだ.これを感じたとき,余宮さんの作品を自分なりに書ける気がした.

彼は作品から凹凸をなくすために,写真を選択し,Photoshopを用いた加工を選択している.写真には凹凸はないから,そのまま展示すればいいというわけではない.そのまま展示したら凹凸は意識されたない.凹凸は一度意識された後で,その存在が消去されないといけない.この意識の流れの操作のためにPhotoshopを用いた加工が行われている.つぎはぎを感じさせる操作をすることで,凹凸を感じさせるが,プリントされたものには凹凸はない.ルーカス・ブレイロックの作品も凹凸を同じ感じで意識させるが,彼の場合,それはPhotoshopでの加工だから影もなけば,凹凸もないというところで終わりになっている.余宮さんの作品の場合は,Photoshopを用いて作成した平面に凹凸がないことを意識させることがスタートで,その凹凸のなさが見ている人の体験に入り込んでくるようになっている.というのも,作品を収めた額には作品から消去された凹凸を復元するように多くの凹凸があるからである.

私がいるこの世界は凹凸で満ちているけれど,その凹凸は意識では再現されない.それと呼応するように,彼の作品は凹凸を意識させつつ,凹凸がなくされていて,額縁が凹凸を復元して,私と作品とを凹凸への意識で繋いでいく.「それと呼応するように」と書いたけれど,私の意識に現れる展示空間に凹凸がないということを意識させるのは,余宮さんの作品と額,カーテン,立体によってつくられた意識に上がるようで上がらない凹凸体験に引っ張られている気がする.私は自分の意識に現れる私の〈視界〉に質感はあるけど,凹凸がない,もしかしたらあるのかもしれないが,明確には感じられないものになっていることを,余宮さんの作品に意識を引っ張られることで知った.他の人の意識に現れる〈視界〉については,私にはわからないから強くは言えないが,あまり表面の凹凸を夢や想像で強く意識するということはないのではないだろうか.質感や触り心地はあっても,凹凸に注意を向けるということはあまりない.この世界が意識に現われるときに,凹凸が削除される.少なくとも私の意識においてはそうで,意識に現われる〈視界〉に作品がスーッと入り込んでいくように,写真という形式で,Photoshopを用いて,凹凸を意識させつつ削除する手法を,余宮さんはしているのではないか.その結果として,作品は気がつくと私の意識に入ってきて,後で思い返したときに私の〈視界〉に現われる展示空間と作品が,私が目の前に見ていた展示空間と作品と同じ,あるいは,それ以上のリアリティを伴う体験をつくるようになっているのだろう.

昨日

昨日,余宮さんの作品における凹凸のあり方を書いて,凹凸がない作品と凹凸がある額縁とが混ざり合って,凹凸を意識しつつ,凹凸が存在しない空間が意識に現れると書いた.けれど,正確には,私の意識に「凹凸を意識しつつ,凹凸が存在しない空間」が現れるのと呼応するように,私は凹凸を意識するようになったということだと思う.私が凹凸に意識を向けるより前に,私とは別の形で「凹凸を意識しつつ,凹凸が存在しない空間」が現れる.この空間が現れて,はじめて,私は作品の凹凸のなさと額縁が示す凹凸を一挙に見れるようになっている.作品の凹凸のなさを見ている時には,額縁の凹凸は見えない.逆もまた然り.それを同時に見ようとして,少し引いてみたとしても,どちらかにしか意識がいかない.私の意識が余宮さんの作品をマルっと丸ごと見ることを邪魔をしている.私は私の意識を取っ払うことはできないけれど,「私の」となる以前の意識においては,意識を取り除いた空間を体験できる.それが「凹凸を意識しつつ,凹凸が存在しない空間」なのだろう.展示空間に配置された複数の作品を体験していると,その空間の情報が私の意識以前の非意識領域で処理されている.非意識領域での情報処理の段階,つまり,私が展示空間そのものを意識する以前の「空白の空間」に,その空間の素性として「凹凸を意識しつつ,凹凸が存在しない空間」ということがインストールされる.このインストールは作品体験の方向性を決めるものだが,それは私が意識的に方向づけているわけでなくて,作品体験を長くするなかで,意識に上がってきたときには既に素性を決められた状態であって,それがどうしてそうなったのかということは,私にはわからないわけではないが,決定的にどうしてそうなかったのかわからない状態で現れる.

「凹凸を意識しつつ,凹凸が存在しない空間」に引っ張られて,私は余宮さんの作品について書くための最後のピースは「凹凸」だと考えるようになった.それを私の意識に決定づけたの「カーテンかと思ったら,カーテンがプリントされた半透明の布だった」という体験だったわけだが,この体験以前に,私の作品体験において「凹凸」が最後のピースになることは決められていた.この流れは作品体験から生じているものだから,作品と私との相互作用によって生じているのは言うまでもないだが,重要なのは,相互作用とはいっても,「凹凸を意識しつつ,凹凸が存在しない空間」という作品体験を決定的に方向づけるものは,余宮作品に主導権があるということである.私は作品に引っ張られる感じで,私の意識に現れる〈視界〉の最も根底に「凹凸を意識しつつ,凹凸が存在しない空間」がインストールされた状態で,作品を体験するようになっているということだ.そのとき,私は展示空間にいるが,作品空間のなかに入ってしまったかのようになっているし,私の意識に展開する〈視界〉は「凹凸を意識しつつ,凹凸が存在しない空間」になっていて,展示空間が私の意識にスーッと入っている状態になっている.その状態で瞼を閉じても,目の前にある展示空間と同じレベルか,もしくは,もっといい状態の展示空間が現れるのは当然だということになる.あちらとこちらとがここまでスムーズにつながり,違いに置き換わることも可能かもしれないと感じさせる状況が,とても新鮮で,驚きだった.

今日

保坂和志の『小説の誕生』を読んでいたら,下のように書かれたところがあった.

私たちはすべてがフラットになりつつある環境の中に生きているから、世界に凸凹があったり、思いがけないところに亀裂が入っていたりすることをつい忘れてしまうのだが、絵の具の色も布の染色に使う色も焼き物の色も、すべてそれぞれに、試行錯誤を経て自然の中から採取されてきたものであって、赤を作り出せたからといって同じ手間と材料で青が作り出せるわけではない。

保坂和志. 小説の誕生 小説の自由 (中公文庫) (p.404). 中央公論新社. Kindle 版.

私は一昨日昨日と,余宮さんの作品は凹凸のなさを体験者に意識させたいがために,彼が写真とPhotoshopを用いて,つぎはぎ感がある面をつくっているのではないかと考えていた.今日,「世界に凸凹があったり」と書かれた,上のテキストを読んで,この二つか考えたことと逆のことが書かれていると思ったり,いや,そうでもないかと思ったりしていてた.保坂和志と別の方向で考えてもいいのだし,参考にして,自分の考えたいように考えればいいのだから,考えをただ書き続ければいいのだが,なんだろう,少し前なら,依拠できるテキストを見つけたという感じだったのが,今は,それに依拠してはダメだ.ダメというわけではなくて,そこからさらに何を考えられるのか,ということを自分に問い始めている.

で,どのようにここから考えたかというと,「世界に凸凹があったり」というのは,現実空間における話であって,余宮さんの作品はその現実空間をフラットにするという意味で,凹凸がないのではなく,元々凹凸を持たないであろう意識のなかの空間を凸凹のある世界に引っ張り出してくるための凹凸のなさだろう.引っ張り出してくるということを何度も書いているが,それほど強いことでもなくて,意識のなかの凹凸のない空間とふとしたことで置き換わってしまうような凹凸のなさを作品として示すということだと思う.だから,気がつくと,あるいは,瞼を閉じたときに,余宮作品が強いリアリティを伴って,私の〈視界〉に現れるということが起こる.目の前の作品が示す凹凸のなさと意識内の凹凸のなさがリンクして,目の前の作品と意識に現れている作品が置き換わる.もちろん,「世界に凸凹があったり」するのは当たり前のことで,そこを重視するということもあるだろうが,意識は物質とは異なる素性を持っているはずで,少なくとも私の意識に現れる存在は凸凹がない.フラットというよりは,凸凹,凹凸がないということが,私の,もしくは多くのヒトの意識に現れる〈視界〉の特徴になっているのではないだろうか.余宮作品は凸凹,凹凸のなさで目の前の作品と意識内の作品とをリンクして,想起とともに現れる作品の現われの強さを目の前の作品と同等以上にしてしまうのだ.

報技術はあらゆる存在をデータとして扱えるようにフラットにしていく技術で,その過程で物質の凸凹と凹凸もなくして技術であるから,凸凹と凹凸がない私の,もしくは多くのヒトの〈視界〉を構成するパーツを構成するには都合のいい道具だと言える.それはネガティブなことでもない.ここをネガティブと捉えてしまったら,いけない.情報技術とともに世界に溢れ始めた凸凹と凹凸がない表面で構成された〈視界〉を凸凹と凹凸のある世界から凸凹と凹凸が失われた劣化したものとして考えるのではなく,世界をあらたなかたちにつくりかえるものとして考えないといけない時期に来ている.余宮さんは凸凹と凹凸のない面を示す作品を凸凹と凹凸に溢れた世界に配置して,体験者の意識で凸凹と凹凸に溢れた世界が凸凹と凹凸のない面に置き換えられる体験をつくる.その体験とともに,世界自体が凸凹と凹凸のない面で構成されているとあらたなに感じられていくのである.

余宮さんの作品は作品集だけではその全てを感じることが難しい.私は展示を長い時間体験して,はじめて,彼の作品を理解でき始めたような気がしている.

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?