259:「再帰的なグラフィック」を持つ私が侵蝕される
出張報告書
小鷹研理さんが主催する小鷹研究室の展示「注文の多いからだの錯覚の研究室展3 「ミーのドーン!!」」に出張で行き,数々の錯覚を体験した.その出張報告書に,私は小鷹研の2年前の展示と同様に宇佐美日苗さんの作品が一番惹かれると書いた.
「〈視界〉の手前」は〈無〉
出張報告書を書いてから,私はずっと宇佐美さんの今回の作品が引き起こす体験についてすでに書いているような気になっていった.そこで,日記を遡ってみると,「〈視界〉の手前」は〈無〉」というタイトルがつけられた日記に,宇佐美さんの作品に関する記述が書いてあった.
私は何かを思い出そうとしてずっとも思い出せないまま,その日の日記を書いていた.日記を書き終わり,私はお風呂に入ったのだが,そこでずっと思い出せなったのが「瞼」に関することであったと思い出せた.お風呂で思い出す前は,「瞼」にまつわることは私の〈視界〉の手前に止まっていた.そこに何かが現れているのは感じているが,それを〈視界〉に持ってくることができない.〈視界〉の手前にその存在は感じているが,それに対して,私はどうすることもできないという状況にあったて,それがどうも気持ち悪い,頭が痛くなる状況だった.
そんな状況を体験したあとで,こんなテキストを読んだ.
『意識の脳科学』に書かれた一文は,思い出したくても思い出せない「〈視界〉の手前」の感じを表しているように感じた.偏頭痛で失った視野を埋めるのは白でも黒でも無だということ.その「無」の視野は「〈視界〉の手前」が〈視界〉を埋めてしまったという感じがした.私は偏頭痛持ちではなく,視野が「無」になってしまったことはない.しかし,「〈視界〉の手前」で何かがあるけれど,それが何んであるかを確かめられないときの感覚というのが,「無」なのではないかと感じられた.何かがある感じがするのであれば,それは「無」ではないだろうというツッコミがあるのはわかる.私もそう思う.でも,私が,私たちが感じる「無」というのは,何かがあるけどそれがどうしようもなく現れない,感じだけがあるけど,何もできないで,感じだけはあるけど〈視界〉にそれは現れないという感じなのではないか.
それは完全なる「無」ではない.あるにはあるけど,その感じをどうやってもこちら側に持ってこれないで,それは手前にあり続けるという感じだが,その手前は確かめようがない.「手前に何かがあり続ける」という感じは,私がその感じを感じつつも,それを確かなものとして認知できないところにある.そのとき私が感じている,それをどうにか認知しようとしてもどうにもできないという感じを,私は〈無〉と感じた.それは確かにないし,「ない」から見えもしないけれど,私が自分の〈視界〉を見ているということを成立させる「〈視界〉の手前」のどこかにはあるという感じだけを感じ続ける.その感じを感じているところには,白も黒でもない無色の何かがあって,その無色の周囲には無色の空間があるだけなので,何か見えているかというと何も見えないし,体験もできないのだから,何もないと言えばないのだけれど,何かを感じてしまう.だから,上の引用を書いた渡辺さんの「頭の後ろに何もないのと同じようにそこには何もない」とは全く異なるのだけれど,白ではなく無色だということから考えがトントンと進んでいったら,私の感じる〈無〉というのは「〈視界〉の手前」のことなのではないかと思った.
「〈視界〉の手前」に〈無〉があると言うか,広がっていると言うか,「〈視界〉の手前」が〈無〉であると言うか,何かがあることを感じているけれどそれはどうしようもない感じで「ない」のであって,それは何をしようが「ある」にならない状態であって,私はそれを〈無〉と感じていると,私は考え,それを「〈視界〉の手前」と呼ぶことにした.そして,「〈視界〉の手前」に,いつも意識に現れて,目の前に広がる〈視界〉を見ている〈私〉はいないような気がした.これもまた,私は物理的に現にいるではないかというツッコミがあるし,私もそう思う.けれど,「〈視界〉の手前」に〈私〉はいないよう気がしてならない.
〈私〉は,今,キーボードを打っている私ではない.〈私〉は「〈視界〉の手前」で何かを感じられる存在である.「〈視界〉の手前」を体験して,キーボードを打っている私にその体験を被せてくる存在とでも言えばいいだろうか.「〈視界〉の手前」は「見える」が生じる状態の手前であるから,そこには「見える」ものがないので,そこで何かを見る主体としての〈私〉がいないことは当たり前のようなことだが,なぜか〈私〉がいないと感じることが重要な気がする.〈私〉がいないから「〈視界〉の手前」にあるだろう何かを見れなくて,だからこそ,そこは私にとっての「〈視界〉の手前」になっているわけだが,見えなくても,何かしらの認知体験が生じていなくても,「〈視界〉の手前」という領域は確かに「ある」という感じだけがある.そして,「〈視界〉の手前」が示す何も見えないということと並んで,何も聞こえないし,何も触れられないという状況を成立させるのには,〈私〉がそこにいてはならないのは確かな感じがしている.
私にせよ〈私〉にせよ,そこに何かしらの視点を持つ存在いないということを,私は体験できないと思ってきたけど,意外と身近な思い出せそうで思い出せないもどかしさとともに生じる「〈視界〉の手前」という領域で体験できているように感じる.「〈視界〉の手前」では,私は確かに何かを見れない,何も〈視界〉に現れないという感じを持っているが,その現れないということを成立させるには,私と重なり合うような〈私〉もまた「〈視界〉の手前」にはいないということが条件となっていて,〈私〉がいないという感じを持って,逆に「〈視界〉の手前」という何も見えない領域のことを感じられるようになっている.〈私〉がいないからそこに現れているだろうものを捉える視点がなくて,それが〈視界〉に現れないから,私はそれを見れない.でも,何かはあるという感じだけはしている.この感じをつくっているのは,私の脳を含めた肉体がつくっていると思うのだが,その肉体が〈私〉とも私ともリンクしていない.脳を含めた肉体が私でもなければ,〈私〉でもなく,何かを見た,聞いた,触れたという感じをつくってはいるが,それらが〈視界〉などの意識とリンクした領域に現れるための視点などの何からしらの基準となる点がないとき,私は「〈視界〉の手前」を感じているのかも知れない.
〈基準点〉がないけど,そこに何かしらがあるという感じがあることだけが,私に感じられる.そのとき「〈視界〉の手前」を含めた「意識の手前」に〈私〉は存在していない.私のなかに〈私〉が存在しない領域があることを,私は〈基準点〉を失った脳を含めた肉体とともに感じている.それは「非意識」と呼ばれる領域なのかもしれない.私は私の非意識にどうしてもアクセスできないように,私は「〈視界〉の手前」に〈私〉を〈基準点〉として置こうとしても置けない.しかし,その状態においては,どうやっても〈私〉が入れない領域があるという感じとともに〈無〉として感じられてはいるので,「〈視界〉の手前」は非意識のように私が完全にアクセスできないわけではない.非意識ではないところに,〈私〉が〈基準点〉として入れない領域が私のなかにあるということが,私に〈無〉を感じさせるのかもしれない.
再びの《あなたは今、しています。》
出張報告書から始まり,宇佐美さんの作品を体験する前に自分が書いたテキストを経由して,改めて,今回の宇佐美さんの作品を考えると,今回展示された《あなたは今、しています。》は,私の「〈視界〉の手前」にアクセスして,〈基準点〉を勝手に打ってしまう作品なのではないか.
幽体離脱感は前回の方があったけど,今回の作品を見た瞬間に自分がその板とシンクロしていく感じがあって,その体験はベニアに描かれた再帰的なグラフィックに私を貼り付けるとともに,意識において私と〈私〉とのあいだに「ミラーリング」を生じさせて,そのミラーリングは私と〈私〉のあいだで無限に繰り返されているように感じる.それは,「〈視界〉の手前」に作品が描写する状況が入り込んできているのを感じたうえで,その板を見ているという二重の認知が実行され,さらに,その認知が無限に反復していくプロセスに私が巻き込まれた感じであった.
「〈視界〉の手前」に現れないはずの〈私〉が,私が《あなたは今、しています。A3》に描かれたベニアの板を持ち,そこに描かれた再帰的なグラフィックを見た瞬間に,すでに〈私〉が再帰的なグラフィックを見ているという構図が私の意識に現れていて,私は〈私〉が見ている構造を今,見ていますとなる.そのとき,私は作品を体験するまで「〈視界〉の手前」に〈私〉を〈基準点〉として置けなかったのだが,作品を体験すると〈私〉は〈基準点〉として「〈視界〉の手前」に置かれているのを体験できてしまう.私が「〈視界〉の手前」に置こうとしても置けなかった〈私〉は,宇佐美さんの作品によって,「〈視界〉の手前」に置かれてしまっていて,私は「〈視界〉の手前」に現れたベニアの板に描かれた行為と同じ行為をしている〈私〉と私をベニア板に見る.ベニアに描かれた再帰的なグラフィックを見て,そのグラフィックと同じ行為と同じ姿勢に私の肉体がセットされた瞬間,私は〈私〉が普段アクセスできない「〈視界〉の手前」に〈基準点〉として置かれるのを感じていて,私が作品を見るより前に〈私〉が普段は見えてこない「〈視界〉の手前」でそれを見ているということが,肉体を介して,私に伝えられる.普段は見えない「〈視界〉の手前」で何かを見るという体験が生じる.このことが《あなたは今、しています。A3》をしている私に気持ち悪さというか,どこか居心地の悪さを感じさせるのである.
作品を介して,普段はアクセスできない非意識領域の認知プロセスに〈私〉がアクセスできて,「〈視界〉の手前」を見てしまっているような感じが生じて,その後,私の〈視界〉において「わたしは今、しています」という認知が生じる.〈私〉が見ている「〈視界〉の手前」と私が見ている〈視界〉とが重ね合わされて,視点は私のままで「〈視界〉の手前」と〈視界〉が重ね合わされて,〈私〉と私のあいだに一度ミラーリングが生じると,「〈視界〉の手前」にはさらに手前があるように感じられ,同時に,私の〈視界〉をその一部とする(少なくとも)もう一つの〈視界〉があるように感じられてくる.そして,この私が絶対の基準点でなくなり,「〈視界〉の手前」を含んだ〈視界〉は別の〈視界〉の「〈視界〉の手前」となってと,私は〈視界〉の無限ミラーリングに放り込まれてしまう.無限ミラーリングのなかで居場所を失った私は私自身をどうにかして私の〈視界〉に位置付けようとする.しかし,私に無限ミラーリングを終わらせる力はない.無限ミラーリングを終わらせる力を持つのは,ベニア板に描かれたグラフィックの再帰構造である.再帰構造が最も小さなグラフィックに「〈視界〉の手前」に〈基準点〉として置かれた〈私〉を貼り付け,私の〈視界〉に見えているベニア板を持つ私の肉体を「最も大きなグラフィック」に位置付けると,無限ミラーリングは終わる.このとき,ベニア板を持つ私はベニア板に貼り付けられた〈私〉を見ることになり,私の肉体が持つ視点はベニア板の〈私〉からすれば,幽体離脱の視点となっている.
今回の宇佐美さんの作品は「私が〈私〉を肉体の外に飛ばして私を見る」ことを可能にする2年前の作品よりも,幽体離脱感や意識が私の頭の後ろに飛ばされる感じが少なかった.しかし,幽体離脱の再帰構造を作品に明示する形で取り入れることで,〈私〉が私よりも前に作品を見ることが可能になり,私自身が肉体を保ちながら,離脱した幽体となれるといったより複雑な仕組みを持っている.「再帰的なグラフィック」が描かれたベニアを持つ私は,気がつくと作品に侵蝕されていて,私のあり方が不可逆的に変えられてしまっているのである.