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246:世界を計算可能なひと塊りの情報の集合として体験する──宮下恵太個展「わたしたちの光、おおらかなしるし」

「わたしたちの光、おおらかなしるし」展示風景

ギャラリーEUREKAで宮下恵太個展「わたしたちの光、おおらかなしるし」を見た.宮下の作品《Tolerant Signs》は「光」の明滅を用いて,メッセージを伝達するものであった.ライトスタンドや街灯で光がつけば「1」,光が消えていれば「0」とする.次に,文字と対応するコードを決める.そうすると,光の明滅(1と0)の組み合わせで,メッセージを伝達できるようになる.

可視光を用いた通信装置である.様々な光の明滅によって,符号化されたメッセージを送信する.光センサによってその信号を捉え,人間が認識可能な文字の形へ変換する.現代社会の基盤とも言えるデジタル情報技術は電気を用い0と1という二つの状態を表現することで複雑な情報を伝達する.その「0か,1か,それさえ分かればあとはどうだっていいよ」という態度は,ある意味でとてもおおらかなものに感じられる.

宮下恵太|わたしたちの光,おおらかなしるし リーフレット

「1と0」,「デジタル」というと「冷たい」というイメージがあるが,宮下は「おおらかさ」を感じている.ライトスタンドと街灯という物質的差異は,ヒトの意識で認知的差異に変換されて,「ライトスタンド」と「街灯」という意味を与えられる.しかし,展示されたライトスタンドと街灯などの光を明滅する装置は,その物質的差異は「どうでもいい」とされてしまう.私はその物質的差異をどうしても「どうでもいい」とは認知できないで,「ライトスタンド」と「街灯」が明滅していると感じてしまう.

だが,ライトスタンドと街灯ということは「どうでもいい」のであって,光が明滅していれば,メッセージは伝わるようになっている.私はそのメッセージを受け取れないから,私にとっては光の明滅は「どうでもいい」と感じるというのは嘘で,光の明滅からのメッセージは受け取れなくても,その現象はとても気持ちいいものであった.私はメッセージは受け取れないが,雰囲気というか場の「感じ」を光の明滅から受け取っていた.私は光の明滅がつくる空間をほかの空間と異なるものとして認知し,宮下がつくった展示空間に特別な感じを抱くようになっていた.

《go/stop/stop/stop/go/go/go/go/stop/stop/go/go/go/go》 (2023)

ギャラリーに置かれた複数のライトが明滅していて,私はその明滅を見ている.普段,それは単なる光の明滅に過ぎないが,ギャラリー空間の光はメッセージを伝えている.このことを長く体験して,光の明滅の不思議なリズムが気分良くなってきているときに,歩行者用信号を用いた作品《go/stop/stop/stop/go/go/go/go/stop/stop/go/go/go/go》では,信号が私たちに与えている「進んでよい」「止まれ」というメッセージが剥ぎ取られて,赤と青の光の明滅が別のメッセージを伝えるようになっていることがわかった.これはとても奇妙な体験であった.信号が示す社会的なメッセージが剥ぎ取られ,信号機は明滅のリズムによって別のメッセージを示すようになっている.

《go/stop/stop/stop/go/go/go/go/stop/stop/go/go/go/go》 (2023)

メッセージを記録した紙をよく見てみると,文字化けしているところがあった.信号機の赤と青の光の明滅を見ているときに,私は私の意識のどこかに「進んでよい」と「止まれ」が現れるの止められない.メッセージが「文字化け」していると思うのは私の意識だけであって,《go/stop/stop/stop/go/go/go/go/stop/stop/go/go/go/go》を構成するシステムは,単に青と赤の光の明滅を組み合わせたメッセージを規則通りに文字列に置き換えているに過ぎない.

《Ghost Picture》 (2023)

展示作品で最も衝撃を受けたのは,《Ghost Picture》であった.これは写真のネガがライトボックスで展示された作品である.宮下が様々な光源や暗闇を撮影したネガが8枚ずつ並んでいて,光源=1,暗闇=0として「00111001」を形成して,1バイトのメッセージを伝えているように見える.だが,写真のネガなので,光源=0,暗闇=1に反転することになる.私はこの作品を見たときに,世界を情報の集合として体験するということを感じた.

《Ghost Picture》は写真撮影という身体的行為でつくられる写真のネガという物質をメディアにしているために,光の明滅をメッセージ伝達のメディアとして扱っているほかの作品に比べると,極めて物質的なもののように感じられる.しかし,撮影という行為から生み出される「ネガ」という物質が「論理的否定演算(0と1の反転)」を行うとみなされて,「0と1の反転」装置となっていたのである.

「「0と1の反転」」を実現させるには,そもそも世界を「0と1」の集合としてみなしていなければ,宮下の《Ghost Picture》は生まれない.世界を「0と1」の集合だとすると,ネガ現象という行為とその結果生み出されるネガは,世界が示すメッセージを形成する「0と1」を反転させる「論理的否定演算」という計算行為とその結果ということになる.

宮下はリーフレットの作品説明に「ネガ現像による論理的否定演算(0と1の反転)を通じて,どこにも存在していなかった意味が立ち上がる」と書いている.私はこのテキストを読み,その意味を自分の意識にインストールした状態で,《Ghost Picture》を改めて見た.そうすると,光の明滅のような「0と1」を示す物質的差異が,ネガのような物質によって計算されて,その計算結果を見ている私の意識でそれまでは存在していなかった意味が立ち現れる認知的差異をつくる計算が行われているような気がした.

宮下が撮影した光源や暗闇といった物質的差異が,ネガという物質によって計算され,私の脳細胞でも計算されて,意味をつくっていく.光の明滅をつくるライトスタンドや街灯,光の明滅を反転させるネガ,私の意識をつくる脳細胞といった物質のちがいを超えて,光の明滅の0と1とリンクした情報が計算処理されて,私の意識の中に「どこにも存在していなかった意味が立ち上がる」のである.それは,「わたしたちの光、おおらかなしるし」を構成する多くの作品の光の明滅がつくる空間とその一部として展示された《Ghost Picture》,そして,そこに長くいて空間に馴染んできた私の意識との組み合わせによって,世界を計算可能なひと塊りの情報の集合として体験するということだったように感じられる.

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