見出し画像

フラットネスをかき混ぜる🌪️第4回:認知負荷ゲームとしてのエキソニモ「Sliced (series)」(1)──《A destroyed computer mouse, sliced》を見る体験を記述する 👀✍️

このテキストはiiiidに連載していた「フラットネスをかき混ぜる🌪️」を修正・コメントしたものです.

これまでの連載でブレイロックが書く「写真のフラットネス」について考えてきた.その結果,「写真のフラットネス」とは三次元の世界を二次元に変換するフィルムや印画紙のような物質を指すのではなく,二次元の表象から三次元のリアリティを立ち上げる主観的現象でもなく,モノ以前に根源的情報があるとした世界観が前提になるが,根源的情報を一つのフレームで切り出した「情報のフラットネス」と言えるものであった.「情報のフラットネス」は,主にディスプレイ装置に敷き詰められたピクセルの集合で構成される「物質的フラットネス」によって根源的情報から切り出されて,ヒトに伝えられる.そして,ヒトが「情報のフラットネス」を意味のあるメッセージとして受け取ると,ヒトと世界とのインターフェイスとして機能している意識で,ヒトが世界に対して持つ適応度に応じた「現象的フラットネス」が立ち現れ,ある表象が視界に展開される.

デジタル以前の写真は,主に三次元空間を二次元平面に変換したメッセージが紙という物質的フラットネスにプリントされていた.ヒトは写真を見て,自らが備えている次元の復元に最適化したコードを用いて,現象的フラットネスに三次元空間を立ち上げる.しかし,デジタル写真以後の「写真」はブレイロックの作品が示すように,ヒトがまだ適応できていない色情報の組み合わせを微細化したピクセルによって表現し,次元の変換に制限されない情報のフラットネスのレパートリーをつくり始めている.このような状況において,物理世界に対しての適応度を高めるためにヒトが構築してきた二次元と三次元の変換という幾何学的コードから逸脱して,ピクセル操作によって生み出される多様な色情報の組み合わせをメッセージとして読み取るためのコードを考える必要が出てきている.

これから3回ほどエキソニモの「Sliced (series)」 (2020) 」を取り上げ,「解像度」をキーワードにして,「写真」の読み取りのコードを考えていきたい.今回は《A destroyed computer mouse, sliced》(2020)を見た私の体験を記述することで,次回以降の考察を進めていく準備をしていきたい.

エキソニモ《A destroyed computer mouse, sliced》2020

《A destroyed computer mouse, sliced》を見る.破壊されたマウスがあるのを見る.真ん中あたりの切り刻まれた傷から,私はこのマウスがエキソニモの《断末魔ウス》で,グラインダーを使って破壊されたものだとわかる.とは言っても,この情報はこの作品にはあまり関係ないかもしれないなと思いつつ,さらに見る.グラインダーでプラスチックのシェルを切り刻まれて,外にはみ出した内部の基盤が見えている.グラインダーで削られたプラスチックの細かい屑も見える.《断末魔ウス》のマウスだということを知らないと,グラインダーで破壊されたということは意識に上がらないかもしれない.けれど,多くの人はカッターのようなもので切り刻まれて破壊されたマウスがあると見るだろうと思いつつ,私はマウスというか作品全体がカクカクしているのも見る.このカクカクは多くの人も見るだろう作品の特徴だろうな,でも,最初に見るのは「壊れたマウス」だなと思いつつ,私は作品を見続ける.

「カクカク」していると書いているが,作品全体の印象を記すのにうまい言葉が見つからないので「カクカク」と書いているだけである.デジタル特有のノイズと書いた方がいいのかもしれない.『電脳コイル』というアニメで,現実空間に重ねられた仮想空間は壊れるときに,このようなカクカクしたノイズが現れたのを思い出しつつ,私はカクカクした印象の作品を見ている.「デジタル特有のノイズ」と思った時点で,このカクカクは「ピクセル」に由来するものだろうと意識している.ディスプレイを埋め尽くすピクセル.私たちの視界は連続的で滑らかな世界を提示しているが,ディスプレイは四角く区切られたピクセルの集合体で世界を提示している.私はこの作品を何度見ても,はじめに破壊されたマウスを見ているとほんの一瞬意識していて,その際は連続的で滑らかな表象としてマウスを見ているが,直ぐにその連続的な表象は作品全体を覆うカクカクしたピクセルベースの表象を見るようになる.さらに,ピクセルという言葉を意識すると,連続的に見える表象も眼で認識できないほど小さくなったピクセルによって構成されていると考えるようになっている.そうすると先ほど「ノイズ」と書いたけれど,ピクセルの集合でつくられた表現で,大小さまざまなピクセル=四角が現れているように見えていることはノイズとは言えないのではないだろうかと思えてくる.しかし,最初に意識にのぼっている破壊されたマウスという連続的な表象の連続性を様々な四角が阻害しているという点で,作品を覆うカクカクとしたトーンはノイズなのだろう.

マウスホールが出ていた穴の辺り

ピクセルに基づいたカクカクな表象を見ていると,そこにはいくつかの重なりがあることがわかる.カクカクとした表象の重なりを意識して見ていくと,表象がモザイクになっているところに気づく.例えば,スクロールホイールが出ていた穴の辺りをみると,モザイクが現れている.そのモザイクは「画像が劣化している」感じを出している.画像が劣化するとは,その部分の解像度が粗くなっていることを示している.解像度が粗くなれば,モザイクを構成する四角は大きくなる.連続的な表象のレベルでは「スクロールホイールが出ていた穴の輪郭」を示していたところがモザイクになって,画像の劣化という印象を与える.エキソニモがこの作品の制作方法を「画像を入力すると,手前から高解像度,奥に行くに従って低解像度になる5枚のレイヤーが生成され,そのレイヤーを「削る」事によってグラフィックを作っていくという自作ソフトウェアを使って作られた」と書いていたのを思い出す.この説明から,作品制作のために用意されたひとつの画像から,連続的な表象とモザイクの表象という異なる表象が解像度の違いで生み出されていることを確認する.すると,同一の画像データでありながら,解像度が異なると低解像度の画像に対して劣化した印象を抱くのは,少しおかしい感じがしてくる.けれど,ここでも連続的というか同一のリズムと言えるものを示す表象が,四角の組み合わせがつくるカクカクとしたトーンによって破られるという点で「劣化」というネガティブな言葉を当てているのだろうと,私は自分を納得させる.ここで前提となっているのは,連続的な表象がピクセルで構成された離散的な表象より優れているということになるが,それは連続的な表象が記憶のあるかぎりずっと私の視界を覆っているからであろう.

💬
全てがピクセルでできているのだから,全てがカクカクしているはずなのにカクカクの感じが消えて
「連続的」に見えるようになることが不思議である.連続的,スムーズに見えていることが「錯覚」
なのだが,ヒトの眼を含めた視覚システムでそのように見えてしまうということが重要になっている.
私の眼は私に見えているのと異なる感じで作品を見ているのだろう.
連続的な表象からモザイク的な表象に移行するように画像が重なっている

マウスホールの下の辺りの白い部分をよく見ていると,連続的な表象からモザイク的な表象に移行するように画像が重なっているのがよくわかる.最も手前のレイヤーにはグラインダーでついた細かい傷が見える.その下のレイヤーでもその傷は見える.その下のレイヤーを見ると,マウスの色に由来したモザイクは見えるが,傷は見えなくなっている.傷が見えている連続的な表象のレイヤーであってもピクセルで表示されているので,実際には小さなピクセルで構成されたモザイクだが,ピクセルがとても小さいがゆえにマウスのプラスチックのシェルとその傷として見えている.しかし,ピクセルの大きさが一定の大きさを超えると傷を示すような連続的な表象ではなくなり,モザイクに見えてしまう.モザイクとなって細部の表象を失っても,大部分のモザイクはマウスに属した表象として処理され,特に私の注意を引かずに,破壊されたマウスという連続的な表象を構成する一部として見られていく.だから,《A destroyed computer mouse, sliced》を見ていても,傷がモザイクになっていることを見ても,あまり気にならないまま,「壊れたマウス」という全体の表象を意識することが多くなる.このサイクルを中断して,傷とモザイクとの箇所を注視すると少し「?」となるが,デジタル画像を見慣れた人は,解像度が粗くなっただけと判断して,それで終わりかもしれない.

そして,このように解像度という概念からこの作品を見る体験を改めて考えると,全体の連続的でスムーズな表象と所々にあるモザイク的でカクカクとした表象とをそれほどひっかかりもなく行き来できるのは,異なる解像度が混在することで対象の見え方に連続的な表象との違いが生じているが,たとえ違いがあっても同一の撮影対象から得られた情報に基づいた表象だと,脳が処理しているからかもしれない.ひとつの対象から複数の解像度の情報が生成される場合は,生成された複数の情報はひとつの対象に属すと処理されるから,同一の対象の異なる表象として見ることが,問題なく成立するということだろう.

💬
「同一の撮影対象から得られた同一の情報に基づいた表象」と書いていたが「同一の撮影対象から得られ
た情報に基づいた表象]であって「同一の情報」ではない.ここは「一つの対象から複数の解像度の情報
が生成される」と考えた方がいいのかもしれない.複数の解像度が生成されるときに,ピクセルがオンの
情報を示しているときに,「オンではない」ことが含む無数の選択肢=情報のフラットネスが入り込んで
きたうえで「オン」とするプロセスによって,複数の解像度が生成される.
モザイクというよりは色面となった表象

マウスの下の辺りを見てみたい.高解像度で表示されているグラインダーの傷があり,段々とレイヤーが削られてモザイク状の表象があり,最後はモザイクというよりは色面となった表象が見えている.この大きさになるとマウスという対象が示していた三次元の物質という感じはなくなって,二次元の平面となる感じがある.同じ情報から生じた表象なのだが,マウスというモノの属する存在ではなく,色面という独立した存在が現れている感じである.この大きな色面の上にある小さな色面から構成されるモザイクも二次元的存在だと感じられるが,こちらはマウスの一部を示しているような感じがある.さらに,マウスの右下端辺りのあまり色の変化はないが,より小さな色面で構成される細かいモザイクを見ると,二次元的なモザイク表象が向こうに存在するマウスの輪郭を隠しつつ示しているという感じになっている.その上にあるレイヤーはモザイクにはなっていないが,白い平面が区切りなく広がっていて,これはマウスに属するのだろう.さらに上のレイヤーもその下のものと同様に区切りのない白い平面が広がり,グラインダーの傷を詳細に示している.

まとめると,私にはこの作品が次のように見えていることになる.最前面とその下のレイヤーは連続的表象として見え,真ん中に位置する3番目のレイヤーはマウスという物質をその向こうに感じさせるモザイクだが,その奥の4番目のレイヤーは単なるモザイク的表象として見え,最後の5番目はマウスとは関係がないわけではないが,マウスという物質とは縁を切り,どこか「これ以上は何も認識できませんよ」という認識の底を感じさせるような色面になっている.

モザイクの方が手前にあるように見えている

最後は,マウスの右側の破片が散乱している箇所を見てみたい.細かいプラスチックの破片が散乱しているなかに白い四角の表象とそれよりは小さい四角のモザイクで構成された表象が見える.これまで見てきたモザイクは連続的表象の奥に位置していたが,ここでは連続的表象として示される破片が小さいために,モザイクの方が手前にあるように見えている.それは,遠くにあるものが小さく見えるということに基づいて勝手に認識されているようである.しかし,実際には破片が手前で,モザイクが奥なので,このことを意識して,位置関係を戻そうと見てみる.しかし,それらの位置関係は簡単には戻らない.位置関係が戻らないまま,プラスチックの破片というモノとそのモノから得られた視覚情報から生じたモザイクとでは,表象という身分は同じだが連続的な表象はモノであり続けるのに対して,モザイクになった表象はモノではなく,どこかしらデジタル的なニュアンスをもつデータや情報という存在として示されていると,私は感じる.その結果,モノと情報とでは存在の様態が異なるためモノの世界の見え方の秩序である「遠近法」は適応できないと考え,奥にある情報がモノの手前に見えるということもあり得ると処理してしまう.実際のところ,どのような理由があるかは正確にはわからないが,一度でもモザイクが手前に見えていると見てしまったら,モザイクは連続的表象の奥にあるものだといかに強く意識しても,モザイクが前に出てきて見えてしまう.認識の底の方にあったモザイクが,手前にやってきて,世界の連続的表象が奥にあるようにしか見えなくなる.

《A destroyed computer mouse, sliced》の部分を分析したあとで,改めて,作品全体を見ると,分析がなかったことにされたかのように「破壊されたマウス」という連続的な表象が一番に見えてきて,その後,「カクカクした画像の劣化のような表象を含んだ画像だな」という認識をしてしまう.作品の細部がどれだけカクカクになっているかを知ったという経験は,私が作品を見た瞬間におこる認知プロセスには何の役にも立たない.連続的表象からカクカクとした表象へ至るという同じ認知プロセスが繰り返される.分析した結果を活かそうと最初からカクカクした表象を見ようとして作品を見ようとするたびに,私は自分の脳がクラクラしているように感じる.

このクラクラ感は「認知負荷ゲーム」に似ている.「認知負荷ゲーム」とは,私が最近,大学からの帰りに行っているもので,意識の認知プロセスの裏をかく試みをするというものである.例えば,最近,脳は予測をしながら外界を認識しているということが言われている.ならば,その予測を裏切るような認識ができないだろうかと認知プロセスをメタ認知して,周りの状況から脳はこのように予測するはずだ,ならば,そうではない認識を意識にのぼらせてみようと試みる.お分かりのように,このゲームは絶対に勝てない.認知プロセスの裏をかいた,あるいは,脳の処理を変更するような認識をしたと私が思っても,それもまたいつも行われるいつもの認知プロセスでなされた処理の結果だからだ.

話をエキソニモ「Sliced (series)」に戻すと,このシリーズは,脳が同一解像度で構成された連続的表象をヒトの視界に展開することに特化している点の裏をかこうとした認知負荷ゲームを見る人にやらせるものだと,私は考えている.写真やディスプレイは同一解像度であることが基本であり,そもそも写真は解像度を変更することができない.だから,同一解像度で構成された連続的表象を認識することは自然なことだと考えてしまう.しかし,外界からの情報を受け付けるヒトの網膜は連続的ではなく,離散的な細胞の集まりであり,中心視や周辺視を考えると「解像度」もバラバラである.離散的で解像度もバラバラなハードウェアを介して色情報が脳に入力されるが,意識に立ち現れ,私の視界を覆う現れる表象は連続的で同一解像度のものになっている.網膜から脳に入力される色情報と意識に現れる連続的表象とが一致しないが,認知プロセスによって情報が処理されるとそれらがあたかも一対一で対応しているかのようになり,視界に投射されている連続的表象を当たり前としてしまっている.エキソニモの「Sliced(series)」は.この認知プロセスに負荷をかけてくる.連載タイトルに引きつけて言えば,「Sliced(series)」は異なる解像度をひとつのフレーム内に混在させて,同一解像度の連続的表象に覆われた視界という「フラットネス」をかき混ぜようとしているのである. 

次回は,今回の見る体験の分析を踏まえつつ,ヒトは予測をしながら世界を見ているとする「予測コーディングフレームワーク」を参照しながら《A shot computer keyboard, sliced》における異なる解像度が混在する表象を読み取るコードを考えていきたい.

いいなと思ったら応援しよう!