239:エキソニモの『Infected Cites』をめくる📖
エキソニモの『Infected Cites』を読んだときに,面白かった体験.iPadをめくるという感覚を感じたときには,ゾワっとした.iPadはページをいくらめくっても厚みは変わらないけど,『Infected Cites』ではめくるごとにページ一枚分薄なっていく.当たり前だけれど,iPadという視覚情報とめくるという行為の情報が拮抗して,少し変な感じになる.
また,本に印刷された手の位置から宇佐美日苗さんと小鷹さんの《あなたは今、しています。A3》に通じる面白さがあった.でも,『Infected Cites』は《あなたは今、しています。A3》とは違って,私の視点は飛ばないし,「平面」にもならないで「私」が読んでいるということが強調される.私が「あなた」にならずに,「私」のまま本を読んでいる.それはいつも通りの本を読む体験のようで,それより強く私の頭の位置が定位される感じがある.
《あなたは今、しています。A3》は「わたしのからだは心になる?展」で体験できます.
作品体験の考察のnoteです.
そして,『Infected Cites』の最後にあるエキソニモ紹介ページがこちら.
このページを見た瞬間は「エキソニモのふたりに見られている!」と感じたけど,すぐに,ふたりがいる位置にいるのは私だから,iPadに私が表示されていないのはおかしいと感じはじめた.彼らがかつてiPadを持って,自分たちを撮影したように,私は本を持って,iPadに表示された彼らが印刷された本を彼らがiPadを持つのと同じように持っている.彼らと私とが重なり合うけれど,メディアも時間もズレているから,iPadに私が表示されていないのは別に問題ないのだけれど,どこか気持ち悪さが残る.そして,その状況を写真にとってもらって,その写真を見ているとかつての私と今の私との頭の位置が同じ位置に置かれているようで,それはそれで気持ち悪い感じがする.
このような状況になると,次のテキストを思い出してしまう.
時間と場所は異なるけど,エキソニモと私,過去の私と今の私とはiPadを持つ,本を持つという行為が持つ同一のメモリーを共有しているのではないだろうか.そして,iPadを持つと本を持つという行為もまた,同一のメモリーを共有している.別の存在,行為だけれど,同一のメモリーを共有しているから,そこをうまく表現すると気持ち悪くなる.
もう配布は終わっているかもしれないけれど…
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