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243:大森荘蔵『新視覚新論』を読みながら考える09──8章 自由と「重ね描き」

脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.

このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.

引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.



「私が生きてこの透視風景のここにいるということ」,視覚風景の言い換えの「透視風景」という言葉が気になる.世界は逆透視されなければ,視覚風景を形成しない.私がいなければ視覚風景はないし,私がいるのに視覚風景が見えないということはない.私がいることが,すなわち,世界が逆透視されることであり,すなわち,視覚風景が生じるということになる.私がいるというときの私は,私と世界との相互作用の履歴の集合からなる予測モデルを持っている.この予測モデルが世界を逆透視する.私がいるというよりは,私と世界とがつくる予測モデルがあるとき,逆透視が起こる.予測モデルは私だけではなく,世界との相互作用で生まれているから,私をはみ出る存在だと言える.私自身が予測モデルに透視されているし,私が予測モデルを透視して世界を見ているとも言える.いずれにしても,世界を透視構造で見るとするのはいい.そして,透視構造に加えて,私がいるのではなく,透視構造のなかにしか私はいないし,予測モデルも,世界も存在しない.全ては透し見られている.

私の視覚風景は一言でいえば,一群の遠距離過去事象から現在の私の脳に至る因果系列を逆方向に,現在の一瞬に「透視」するものである(その透視の行き止まりは不透明体である).これが六章に述べたことである.もちろん私が「透視」するのではない.「透視」する何ものかがいるのではなく,ただ視覚風景が「透視」という構造をもっているのである.透視構造をもった視覚風景があるということそのことが,私が生きてこの透視風景のここにいるということであり,また,その風景が私に見えているということなのである.この視覚風景のあり方そのものが「私に見えている」ということなのであって,それに加えて「私」なるものがいるのではない.p. 245

過去から現在に因果系列が事物の言語で語られ,逆透視風景が知覚の言語で語られる.これらが「重ね描き」されて,私の視界が生成している.視界は「重ね描き」されている.物理因果の情報の流れと予測モデルの情報の流れが合流して「一つの壺の形の描写と色彩の描写がその壺に「重ねて」なされる」.私がまさに見ている視界で「重ね描き」が起こっている.事物の情報が網膜に入り,網膜が世界テクスチャを取得する.同時に,透視構造のなかにいる私の予測モデルは世界テクスチャが貼り付けられるようなモデルを視界に描く.モデルとテクスチャと重ね描きされて,視界における事象が立ち現れていく.私が起点でもなく,世界が起点でもなく,私と世界とを含んだ予測モデルを含んだ透視構造がある.透かし見る方向としては世界から私へ,私から世界へということはあるが,私が生きているあいだずーっと二つの方向の透視が行われているので,もうどこかが始まりということもない.予測された少し先の未来と圧縮された過去とが絶えず重ね描きされて,現在の視界ができている.このことに,私は慣れきっている.私が慣れていることも予測モデルは組み込んでいる.

そしてまた,過去から現在に至る因果系列に加えて視覚風景があるのではない.その因果系列そのものの逆透]風景が視覚風景なのである.しかしこのことは,その逆透視風景の描写がその因果系列の逆方向描写であるということを意味しはしない.この二つの描写は語彙を全く異にする二つの言語でなされるのであって,その一方だけですます,あるいはその一方を他方に還元することはできないのである.その二つの言語とは,知覚の言語と事物の言語である.そして,一つの壺の形の描写と色彩の描写がその壺に「重ねて」なされるように,知覚の言語と事物の言語がこの因果系列に「重ね描き」されるのである.そのとき色を形に,形を色に還元できないように,知覚の言語を事物の言語に,あるいはその逆向きに,還元することはできないのである.p. 245

事物の言語と知覚の言語とが「重ね描き」されていることは実感できてきた.そこで,私が疑問に思うのは,私は知覚の言語が優勢で世界を認知しているのに,私の視界を記述しようとすると事物の言語のように世界から切り取って,視界そのものが独立してあるように考えてしまうということである.視界が透視構造のなかにあるということを実感しずらく,私が視点として世界のある座標にいて,視点を中心にした視界が世界から独立しているとは実感しやすい.しかし,私の言語が記述するのは知覚の言語であって,事物の言語は後景に退く感じになる.知覚の言語の透視構造という部分が実感しずらいのだろう.私という視点は想像しやすい.視点を含んだ透視構造において視界が生成していくということは,そこに私の居場所がないので実感が湧かない.事物の言語は私に座標という形で居場所を与えてくれるが,知覚の言語は私に居場所を与えずに,私を透視構造において見透かされるレイヤーにする.「私のレイヤー」として私の居場所があるような気がするけれど,私が点から面となり,さらに面だけでは見えることなく,面を視線が透ることで,はじめて視界が生まれるということで,私の濃度は事物の言語の視点としての私よりも薄い.私スタートでもなければ,私のようで私ではない視線が必要であり,私という面は透視構造をなす脳,網膜は私だとしても,私の外のあらゆる透かされる面がなければ視界が生成されないので,私は特権的存在ではなくなっている.新視覚新論を読んできて,見るということに私がいなくなってきたことは,大森とは異なるかたちで実感できている.しかし,私はそれを明確に示す言語をまだ持っていないと感じる.透視構造を参考にしつつ,予測モデルをベースにした言語を見つけていく必要がある.

事物の言語は大まかにいえば,デカルトの幾何学‐運動学の言語を骨格とする言語である.その最大の特徴の一つとしてそれは時空連言的(spatio-temporallyconjunctivとでも訳せよう)である.すなわち,或る限局された時空領域内の事物言語による描写は,その領域外の描写とは独立になされる,領域外の描写に一切触れることなしに,言及することなしになされる,ということである.したがって,或る領域の描写は,その領域をいくつかの(無限の)時空細胞領域に分割するとき,それらの時空細胞内の描写の連言として表現される,ということである.或る一つの時空領域は通常その領域の外と因果的に連結している.しかしその時空領域内の状態の描写はその連結に言及することなしに完全に描写されるのである(例えば,電磁場や力場の描写を考えて戴きたい).その描写があればその領域内の状態を完全に再現できるという意味で,完全に,である.p. 246

ところが一方,知覚風景の描写,例えば視覚風景の描写はその「透視構造」によって時空連言的ではないのである.(濃い)赤のガラスを「透して」向うに例えば赤く染まった人の顔が見える風景において,その赤ガラスが占める空間領域の知覚描写はその領域の外にある向うの人の顔に言及しないではなしえないことは明らかである.その赤ガラスの「見え具合」(見え状態)はその向うに人の顔が見えるか馬の顔が見えるかによって全く異なるからである.同様に,その人の顔(の領域)の描写は赤ガラスの描写に触れないでは,また厳密には中間の空気領域の清澄透明なことに触れないではなしえない.視覚風景はその透視構造からして空間的分割が不可能な一体構造なのである.更に時間的にもそれは連言的ではない.その赤ガラスや人の顔が静止しているか,動いているか,動いているならばどのような動きをしているか,それによってその視覚風景は時にはガラリと変わるのである.p. 247 

下のテキストに対して,以前の私は「知覚の言語と行為の言語との組み合わせ=インターフェイスの言語として考えてみる.そして,インターフェイスの言語から,インターフェイス以外の知覚と行為の言語を「透視」してみるいうことで,インターフェイスから透視する,というテキストが書けるかもしれない」というメモを書いていた.そして,今回の上のテキストのコメントで「透視構造を参考にしつつ,予測モデルをベースにした言語を見つけていく必要がある」と書いている.私独自のというか,自分が腑に落ちる見るということに関しての言葉を考えるにはインターフェイスが重要なのだろう.見るということと行為することをセットで考える.その際に,インターフェイスというコンピュータを媒介にして考える.インターフェイスを透視構造に組み込んで考えてみる.インターフェイスを透して,私の見るや行為を考えてみて,それをまた私とインターフェイスを含んだ透視構造に組み込んでいく.インターフェイスを透して,ヒトの感覚や行為を記述することが,私がしたいことなのだろう.インターフェイスで起こっているヒトとコンピュータとが相互浸透を考える.

しかしこれではまだ日常描写と科学描写とのつながりを示すには充分ではない.「生の言葉」としての日常言語は知覚の言葉の他に行為の言葉を含むからである.しかもこの知覚の言葉と行為の言葉とは並列したり層をなしたりしているのではなく,全く一つの言葉として一体になっているからである.そしてこの一体となっている「生の言葉」と事物の言葉が行為の場面でどのように「重なる」か,それがここで検討を試みることである.p. 248

1 誤認された「意志」

過去の私はこの節を読むときに,ヒトがインターフェイスで行う行為の意志と予測との関係について関心があったらしく,多くのメモを残している.そのメモを読むとそちらに引っ張られる.例えば,「」と書いている.もう少し大森の言葉に即して考えると,ヒトがインターフェイスを介して,コンピュータに対して行為を行うとき,そのヒトは「手を上げる」のだが,コンピュータにとってその行為は「手が上がる」でしかない.ヒトの「行為は常に意志的」だが,コンピュータはそこから行為のみを抽出していっている.コンピュータには「抽出の残滓としての意志無し行為」の履歴が蓄積されていっていく.この履歴をを使って,コンピュータはヒトの行為を予測していく.ヒトは常に意志的な行為において,過去から未来へと常に流れていく予測モデルにおいて,行為をし続ける.コンピュータによる行為の予測と予測モデルによる意志的行為の予測とが重なり合っていくと,ヒトの意志的行為が計算可能な「抽出の残滓としての意志無し行為」と同じものとなっていくような感じが生じる.

以上の観察から次のように言いたい.意志が常時行為に貼りついているのではなく,常に意志的である行為があるだけなのだ,と.行為から抽出できるような意志などはどこにもない.そして抽出の残滓としての意志無し行為などがあるわけではない.催眠や夢遊病といった異常な状況を別とすれば,行為は常に意志的なのである.そして意志的行為として,単なる物体運動と対比されるべきなのである.たしかに,私の手を上げる行為を,物体運動として「手が上がる」と描写することもできる.しかしその描写は「手を上げる」という描写と全く異なるのである.それは一つの曲の音楽的描写がその空気振動描写と違うように,違うのである.たしかに,「手を上げる」という行為描写は「手が上がる」という運動描写を内含する.しかしそれに対し,「手が上がる」は「手を上げる」を内含しない.したがって,意志的行為と物体運動との対比は,両方の描写が可能な行為と運動描写のみが可能な運動との対比である.p. 252

下のテキストを読んだときに「行為の瞬間的運動状態から座標[[情報]]を抽出して,インターフェイスが行為の予測を行うとき,コンピュータが予測しているのは行為の未来ではない.瞬間的に独立した状態として予測されているので,未来ではなく,現在の情報から予測された,現在から切り離された行為の状態である.だから,コンピュータの予測は,ヒトの行為と最小誤差で重ね合わせることもできるけれど,常に行為の最中であるヒトとは異なる原理だから,慣れるまで違和感が残る」と比較的長めのメモを私は残していた.ヒトの意志的行為を物体運動として,その座標情報だけを抽出したものがコンピュータにインプットされていき,そこから予測情報がアウトプットされる.ヒトの意志はそこにはないと言い切りたいけれど,行為と意志とはそんな簡単には切り離せないのではないだろうか.コンピュータに蓄積されていくのは「抽出の残滓としての意志無し行為」の履歴になるのだけれど,そこから計算した予測情報に対して,ヒトは意志の残滓を感じてしまう.行為と意志,抽出の残滓としての意志無し「行為」と計算/予測される「意志」,これらがインターフェイスにおいて交錯している.

また,単なる物体運動では,その瞬間的運動状態を云々することができる.しかし意志的行為は過去から未来へ持続し展開し継続する行為として,その前後と独立な瞬間的状態を語ることができない.常にそれは食事中であり歩行中であり,どこかへの途上なのである.行為の現在は,過去と未来を語らずしては語れないのである.行為には一段落があるが,その段落もまた次の段落に対してのみの段落なのである.p. 252

ヒトは常に時空四次元風景の「意志的に予期された未来」を含んだものとして視界の中にいる.対して,コンピュータは「抽出の残滓としての意志無し行為」の履歴とともにあり続け,そこから未来を予測し続けて,前後と独立した瞬間運動状態を提示し続ける.ヒトの視界において「意志的に予期された未来」と前後と独立した瞬間運動状態とが重なり合う.今現在では,前後と独立した瞬間運動状態はディスプレイのフレームで「意志的に予期された未来」から隔離されている.しかし,Vision ProのようなHMDでは,「意志的に予期された未来」と前後と独立した瞬間運動状態とが混じり合う.そうすると,「人は常時この意志的風景の中で現在の意志的行為をなしつつあるのである」ということが言えなくなるかもしれない.

それゆえ,意志的行為は常に時空四次元風景の中での行為であり,またそうでしかありえない.それゆえにまた,その四次元風景は意志的風景なのである.特にその未来は意志的に予期された未来なのである.これから飲むつもりのコーヒー,読む予定の本の知覚風景であり,受験をするつもりの来年,結婚する予定の明後年の予期風景なのである.これらの風景は,未来の意志的行為を含むがゆえに意志的風景なのである.人は常時この意志的風景の中で現在の意志的行為をなしつつあるのである.p. 253

「行為から抽出された情報で,コンピュータが行為を予測しつつ,私は予測から構成される仮想世界を意思的行為とともに変えていく.だから,コンピュータの[[予測]]と意志的行為とともに変化する仮想世界とが最小誤差で一致させることは難しい.「一致させる」,誰が,ヒト? コンピュータ? 外界と仮想世界との一致のように,どの主体がといいうより,世界のなかで一致するということで,そこでは主体の意志は関係ない.ヒトの意志的行為が仮想世界を変化させるとしても,一致するのは,仮想世界と外界,コンピュータが予測して引き起こすインターフェイスという外界であって,ヒトはそれを見るだけである」というメモを書いていた.「仮想世界」というところを,「意志的に予期された未来」と前後と独立した瞬間運動状態とが重なり合う「視界」とすれば,今回考え続けてきてることにつながるだろう.Vision ProのようなHMDにおいては,コンピュータの予測がフレームから解放されて,意志的行為とともに変化する視界とは誤差を最小化することを目指して重なり合っていく.そして,誤差が小さくなればなるほど,私の視界においては,私の意志とコンピュータの予測との区別が曖昧になってくる.そこで起こっているのは,私の意志による変化なのか,それとも,コンピュータの予測による変化なのかを問うこと自体がなくなっていく.どちらでもあっても行為は生じて,視界が変化していく.意志と行為とがセットで,計算と予測とがセットになって,これらは別々の行為ではなく,一つの行為として視界を形成していく.今はディスプレイのフレームのなかで,意志と行為と計算と予測とがセットになった一つの行為が行われ,それが私の視界における変化を生み出している.

したがって,意志的に予期する,ということは私の僅かな力の範囲であるが,未来世界風景を意志的に変えることである.私が手を上げる,小石をけとばす,一息つめる,それだけで世界は僅かながら変わる,その意味で世界を変えるのである.つまり,私は意志的予期において未来風景を変える,そして現在只今の行為において現在世界を変えつつある.そしてこれは二つの別々の行為ではなくして,一つの行為なのである.p. 253

このように考えてくると,ディスプレイのフレームから解放されたて,私の視界で意志と行為と計算と予測と渾然一体となって行われたときにおける,行為の自由の問題を考える必要があるだろう.

そして私はこの行為を自由にしつつあるのである.この行為を止めることも変えることもできる,という常識的な自由の意味でである.だがそれはもはや意志の自由ではなく,行為の自由である.この平凡な自由を手がかりにして自由の問題に入ってゆこうと思う.p. 254

2 麻痺,に対しての「自由」

ここで言われている「動作の自由」はsense of agencyにあたるだろう.「行為の主体性は「動作の自由」として表現される」と書いているところから考える.「動作の自由」と表現できるような動作をしているときは,そこに行為の主体性がある.インターフェイスにおいて「動作の自由」は制限されているけれど,行為の主体性は保たれている.カーソルを操作している私は[[sense of agency]]を感じている.スワイプしている私も[[sense of agency]]を感じている.しかし,私はここで画面帰属感,情報帰属感として,主体性を放棄するというか,ヒト単体ではなく,ヒトとコンピュータとの複合体に主体性を付与してみたい.このとき「動作の自由」は「正常な行為には常にそなわっている自由」としてあるのだろうか.「動作の自由」の流れがあって,最初は私の「動作の自由」であったものが,デジタルオブジェクトの連動で,画面=情報の動きが私の動きを決定していくようになる.

この,あらゆる状況において常に主体的である行為において,特にその身体的動作(と姿勢)に着目したい.そのとき行為の主体性は「動作(姿勢)の自由」として表現されるだろう.それは,「別の動作や姿勢もなしえた」という自由であり,意志的予期においては「ああもできるしこうもできる」という動作選択の自由である.この「動作の自由」はいかなる状況にあっても正常な行為には常にそなわっている自由である.p. 255

「麻痺の状態」になるのはsense of ownership,所有感の方になるだろう.主体感なき所有感としての「麻痺の状態」.「動作の自由」は麻痺に対する自由だとすると,ヒトとコンピュータとのあいだの「動作の自由」で主体感なき所有感としての「麻痺の状態」にならなければ,それは「動作の自由」になる.インターフェイスにおける「麻痺の状態」とは何かと考えると,ここでは渡邊恵太 さんの自己帰属感を借りて,「自己帰属感が剥がれた状態」=自己帰属感の一部をコンピュータに与えた状態として考えることができるだろう.私は麻痺しているが,コンピュータは動いているという状態.私が麻痺を感じる状態=動作を「重く」感じる状態だろう.このことはもう少し考えないいけないだろう.

この動作の自由がない状況としてはただ病的状態があるのみである.それは麻痺の状態であり,舞踏病の状態である.私が手を上げようとしても手はじっとしたままである,あるいは上げようともしないのにひとりでに上がる,止めようとしてもとまらない,という状態がそれである.それゆえ,この「動作の自由」は,強制に対する意味での自由ではなく,麻痺(舞踏病)に対する意味での自由である.p. 256

3 動作の自由,その前提

行為を「集団の中の分布確率」で考えること.私の右手は次の瞬間,どこにあるのかは全宇宙におけるどの座標にどこにあるのか,その確率で決定する.右手が届くだろうところは確率が高くて,地球の反対側は確率が低く,宇宙の端はさらに確率が低くなる.宇宙のはしも確率的には0ではないけれど,ほぼ0であろう.しかし,行為をするための脳内状態は,宇宙の端で決定されるかもしれない.決定されるけど,外界からの誤差のフィードバックで行為のための信号が修正される.このような状況で腕の痺れによる麻痺のような「[[主体感なき所有感]]」を考える.脳では分布確率から腕の位置が決定されるが,腕はそこに動かすことができない.痺れている,麻痺している状況からの誤差信号が一度決定された確率を覆して,腕の別の位置座標が選択される.麻痺していないときには確率が低い座標が選択されて,改めて行為のための信号が腕に送られる.同時に,腕からの痺れの信号も来ている.同時に,目からいつも通りの腕の見え方の信号も送られている.ある状況を複数の流れで記述しようとしても,言語の制約でそれはできない.「流れ」と言っているから難しい.確率分布の雲の状態をそのまま記述することは難しい.

ここで,しかしそれでもその動作は確率的には決定されているのではないか,という疑問が起こるかもしれない.たしかに波束の収縮は収縮直前の状態によって定まる確率に従って起きる.しかしその確率は頻度解釈での確率,すなわち集団の中の分布確率であって,それは一回一回の個々の現象については何の発言もできないのである.銅貨のトスでも裏表それぞれの確率ということは,次のトスでどちらがでるかについては何事も語れないのである.それゆえ個々の事象,例えばその時々の私の脳の状態が確率的に決定されている,ということは意味をなさないのである.p. 262

確率分布の雲の状態をそのまま記述しようとすると「ああしてもよし,こうしてもよし,なるようになるだろう」となるだろう.入不二基義さんのような記述で,リズムが良くていい.二重スリット実験のように,私の行為確率は分布している.あとから思えば,観測されれば,体験してみれば,それしかないように感じられるけれど,それが起こる瞬間まで行為も意思も雲のようにムクムクとした感じで,次の状態が確率的に存在している.確率を決定するのは事前情報の集まりで,その状態の一つ手前の脳内の統合された情報の状態が決定する.

だから, IITの統合された情報とは,脳が,自分自身の直前の状態について持っている情報の量でもある.統合された情報,すなわち意識とは,対象についてではなく,自分自身についての内在的な情報だ.p. 110

金井良太『AIに意識は生まれるのか』

自分自身の直前の状態に対して確率の雲があって,それが外界との関係で統合された状態になると考えられれないだろうか.外界を当てにしてはならないのかもしれない.必要なのは「自分自身についての内在的な情報」だけなのかもしれない.ここの情報が何らからのきっかけで統合されると「ああしてもよし,こうしてもよし,なるようになるだろう」という確率の雲から一つの確率が選択される.「何らかのきっかけ」というのは脳-身体システムが長い年月をかけて培ってきた,外界で生き延びるためのタイミングなのだろう.

しかしこの無差別的,盲目的な必然性はまさにその無差別性と盲目性とによって全く空虚な必然性なのである.何がおきようと,それは起こるべくして起こる,これはケセラセラの歌を歌うだけのことである.それは「ああもこうもできる」動作の自由を少しも妨げない.ああしてもよし,こうしてもよし,なるようになるだろう,というのだから.それは自由に矛盾したり対立したりするだけの空気抵抗をもたないのである.それはむしろ自由を自在にさせる真空場なのである.そしてケセラセラを歌うも歌わぬもまた私には自由である.だが落下中のスピノザの石にはその自由がない.p. 263

4 自由の立証──ランダム予言破り

下の箇所を読んでいるときに,強烈な錯覚を体験することは「麻痺」に値するのかということを考えた.否応なしに感じてしまう錯覚には選択肢がない感じがする.それまでにない感じを体験しているという点では,これまでの感じ方から「自由」を与えられている感じがあるが,それが自分の意思を介在できできない強制的に動作の自由を失っているという点は「麻痺」だとも言える.でも,その状態に「驚いている」と感じてる自分がいる.それはこれまでの感じ方を失っていることに対する感情であり,錯覚の前後を対比して感じる「自由」が錯覚にはあるということにだろうのだろうか.錯覚を感じているときは自分ではどうにもならない感じ方を強制されているとは言えるが,もともと何かを感じているという点で「麻痺」ではなく,動作の自由を失ってはないないということにだろうか.動作の自由は失っていないが,感じ方は強制されている.「強制」の変換候補として「矯正」が出てきたので,感覚の組み合わせを矯正しているのが錯覚と言えて,それは麻痺ではなく,矯正された自由であり,特に,錯覚の前後を対比できて,かつ,錯覚の後にも元に状態に戻れるという点ではとても自由な状態なのだろう.

だがまさにそのことによって通常の健康な人間は動作の自由を失いっぱなしということはありえないのである.生涯の麻痺,あるいは一生舞踏病であり続けるという不幸な例外を除いては,人は通常はそれらに対比して自由なのである.現に現在只今,私は上に述べたような異常な経験をしていない.今現在,私は麻痺してもいなければ舞踏病でもない.私は今現在は自由なのである.そしてまた幸い今日まではそうであった.p. 266

5 物理世界と自由の重ね描き

「私は世界の一項目ではなくいわば世界に拡散しているのである」ということを実感するのは難しい.どうしても世界のなかの一座標として,私を感じてしまう.私が見ている世界,すなわち,私なのだということは実感にはないが,視界そのものが認知プロセスで生成されたものであると知ると,視界,すなわち,私である.視界として見えている世界に私が拡散しているとは言える.いや言えない.視界を生成しているのが私であるから,私すなわち視界とは言えるが,視界が示す世界に私が拡散しているという感じは得られない.視界における次の状態は,私に近いところは何かしらの状態変化が起こる確率が高く,視界の端の方は変化する確率がほとんどないと考えれば,私が拡散しているということも受け入れられそうではある.

ここで自由なのは動作そのものであって,私が体を「自由に動かす」のではない.動作は私によってなされるもの,私という作動者によって動かされる受動動作なのではない.動作そのものが自由なのであって,そのことがすなわち,私が自由に動いていることなのである.ところが「私が手をあげる」という日常の表現は,「私」という語が入る他の表現と同様に,このことを誤解させるはなはだ危険な表現である.それは最も表面的,最も省略的に使われるときのみ安全な,しかし一歩でも「私」にふみこむと必ずといっていいほどに誤認に導く表現なのである.第一にこの言い方は動作は必ず全身動作であることから注意を外らしてしまう.だが私は五体全身のある姿勢の中でのみ手をあげるのである.そして私はその姿勢の中で肩の筋肉その他を使って手をあげるのではない.肩の筋肉の緊張は手をあげる姿勢そのものの一部なのであってその手段ではないのである.第二に,この表現はその他動詞形で手をあげるのをまるで石を持ちあげるかのように思わせる.しかしそれは本来意味上では,私は坐る,私は歩く,と同様自動詞なのである.そして坐ったり歩いたりするとき,私という命令者がいて私の体を坐らせ歩かせするのではなく,坐ったり歩いたりしているのが私なのである.私,あるいは私の意志,というものが動作の外に,動作の上に,あるのではない.私,あるいは私の意志はその動作の中に溶解し瀰漫しているのである.それは視覚風景の場合に,その風景に加えて「見る私」があるのではなく,ここに視点を持つその風景のあり方そのものが「私に見えている」ことそのことであるのと同様なのである.また,痛みを感じる「私」があるのではなく,痛んでいる私があるだけなのと同様である.私は世界の一項目ではなくいわば世界に拡散しているのである.そしてまた動作の中に拡散しているのである.p. 269

以前の私は「生の言葉と事物の言葉との重ね描きは,情報の二層理論と同じように考えられるのだろうか.同一の世界を異なる二つの言葉で重ね描く」とコメントしていた.情報を物質的側面と現象的側面から捉えて,記述する.物質的差異と認知的差異とで記述する.二つの世界描写をして重ね合わせるようにアート作品を考える.アート作品の物質的記述とともに,それを見ているときの認知プロセスを記述する.文化的側面を入れずに,認知プロセスを記述する.文化的側面が認知プロセスに入ってくることは拒否できないが,そこを意識的に排除したかたちで作品認知プロセスを記述してみたいと,私はずっと考えている.そのときに,作品の物質的記述と現象的記述だけではなく,私の認知を「事物の言葉」で記述すると同時に「生の言葉」でも記述する必要がある.「ここにおり,ここに生きている私と世界が重ね描かれる」ということを記述しなければならない.「ここにおり,ここに生きている私」の認知プロセスの記述によって,視界に展開する世界を記述して,視界が展開されるプロセスを可能な限り事物の言葉で記述しつつ,その方向性を「生の言葉」で決めていく.究極的には,作品を媒介にして「事物の言葉」すなわち「生の言葉」となるような地点を目指していきたい.

知覚の言葉,想起の言葉,感情や気分の言葉,等々,そして動作の言葉,これらはすべて行為の言葉であり,それを「生の言葉」と呼ぶことができよう.それに対して他方に,物理学の言葉,すなわち「事物の言葉」がある.世界はこの二つの言葉によって「重ね描き」されるのである.それが世界の時間空間的描写である場合には,それは時間空間的な重ね描きである.ときにカントは現象界と本体界の重ね描きを拒否したが結局はそれに巻きこまれざるをえなかったのである.その時空的重ね描きが具体的にはどういう風になされるのか,それをこれまで検討してきたのである.それを五章では光学的虚像の場合に,六・七章では時間的虚像の場合に,そしてここでは動作の場合に試みているのである.世界を生の言葉と事物の言葉で重ね描く,それによって物と心,世界と意識,脳を含めての身体と心,それらが重ね描かれることになる.それらは対立する二つの項ではなく,一にして同一なる世界の二つの言葉による描写なのである.そしてそこにまた,日常の生と科学が重ね描かれ,人文,社会,自然科学が重ね描かれ,そしてまた,私と世界とが重ね描かれる.ここにおり,ここに生きている私と世界が重ね描かれるのである.ここに行為している私と世界とがである.この「重ね描き」は心身平行論ではない.別の二つのものの平行ではなくて一つのものの二重の描写なのである.また,知覚風景その他と「脳状態」を同一とするいわゆる「心脳同一説」でもない.二つの「世界描写」の重なりだからである.p. 271

ここまで書いてきた「すなわち」ということは,大森がここで書いているところを先取りしている.「「重ね描き」には相互作用(interactionism)が入りこむ隙間がない」ということを考える.「すなわち」が示す緊密さ,一体さをどのように自分の「生の言葉」と認知プロセスを記述する「事物の言葉」との組み込んでいくか.「生の言葉」すなわち「事物の言葉」となり,「事物の言葉」すなわち「生の言葉」となるような記述の仕方を考えるということ.デジタル,コンピュータを体験している私の「生の言葉」が,認知プロセスの「事物の言葉」と緊密にリンクすること.「生の言葉」が「事物の言葉」にリンクして,タップ,クリックであるときは「生の言葉」が画面に現れていて,別のときには「事物の言葉」が画面に現れているような構造を持ったテキストを探究したい.「生の言葉」の裏付けとしての「事物の言葉」ではなく,「生の言葉」と緊密にリンクした「事物の言葉」を探す.いや,「生の言葉」と「事物の言葉」とを緊密にリンクさせる方法を探すとこと.それらが大森の言葉だと「すなわち」の関係になることで,私だと「リンク」するような重ね描きの方法を見つけることが重要なのではないだろう.その一つとして,私は「視界」の立ち現れをピクセルを単位にして描くということをしているのではないだろうか.

しかしそのいずれでもない.上に述べたように,「私」なるものが別にいてあれこれの動作を行なうのではない.だから私が物理過程に干渉することなどはありえない.だが,動作 Aをすることはすなわち から へ移行することである.したがって逆に, から への移行はすなわち動作 Aをすることである.しかしこの「重ね描きのすなわち」はまさに「すなわち」の関係であって何らかの「作用」の関係ではない.動作から物理過程に,物理過程から動作に何らかの作用が及ぶことは全く不可能である.それらは同じものだからである.そして一つのものがそれ自身に「作用する」とは無意味なことだからである.或る物からの光が眼を通って脳に作用を及ぼす,それがすなわち視覚風景(逆透視風景)であったように,動作 Aはすなわち なのである.それらは作用を及ぼすには余りに緊密,つまり一体なのである.「重ね描き」には相互作用( interactionism)が入りこむ隙間がないのである.p. 273

以前の私は「「確率過程が私そのもの」というのがいい.私が行うディスプレイのXY座標の選択もまた「私」であると言えるのかもしれない.コンピュータによって予測されるXY座標もまた私であると,世界に拡散する私は,文字通り,世界に拡散している.」とコメントしている.私という視点から見える世界が視界として生成されて,その中にあるディスプレイにおける座標を選択するということは,生成された世界における座標もまた,私によって生成されたものの選択として,それもまた私であると考えると,私は視界という世界に拡散しているし,その中で明確な座標を選択できるようにしたコンピュータとディスプレイとの組み合わせは特殊な環境を私に与えてくれるのかもしれない.

しかし,それは私が物理過程に何らかの「作用」を及ぼした,ということでは決してない.の出現過程に私が何かエキストラの「作用」──それが物理的作用であれ,心霊的作用であれ──を与えた,というのでは絶対にない.第一,私は手足に何かの「作用」を及ぼして動作Aをしたのではない.上に述べたように,私は使役者ではない.動作A,それが私そのものなのである.そして状態,それが私そのものなのである.は私の状態なのである.だから私は自由にになったのである.からへ,という確率過程が私そのものなのである.からになるということ,それがすなわち,私が自由に動作Aをする,ということなのである.したがって,自由に,意図的に,になるということなのである.p. 274

私の視界は「私がここにいる」ことによって立ち現れている.「私がここで何かしている」ことが,私の認知プロセスが生成する視界で行われている.私は視界で行為をして,視界を変化させていく.視界以前の世界を見ているけれど,私が意識できるのは視界の世界だけである.そして,その視界にコンピュータとリンクしたディスプレイやプロジェクションが入り込んでくると,視界における座標が情報として機能するようになる.視界の一部を操作できる情報が占めるようになったことの意味を考える.自由に動ける視界において,情報が自在に展開できるようになっていることを考える必要がある.私とリンクする情報,情報とリンクする私における生の言葉と事物の言葉を考える.私の生の言葉と事物の言葉は情報にリンクして,情報を現れすようになる.

そうではなく,知覚,想起,期待,意図,等々の世界風景が立ち現われ,五体が様々に動く,脳や神経にパルスが流れ血管に血が流れる,このことが「私がここに居り,生きており,何かをしている」ということなのである.風景に対して,その風景を「見ている私」などはありはしない.その風景が見えている,立ち現われている,そのことがすなわち「私がここにいる」ことなのである.五体やパルスや血流の他に,行為する私,などはありはしない.五体の動き,脳の動き,腸の動き,それがとりもなおさず「私がここで何かしている」ことなのである.自由に何かしていることなのである.p. 274

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