134:消去されたはずのバルクの薄靄が生じてくる
《景体》について荒神は,「私たちは,海の景色そのものに近づくことは出来ない.海に近づけばそれは波になり,さらに近づくと水になる.」といいます.本作は,「景色として見渡すような海」の存在感を持ったまま,「間近にあるひとつの塊」としても把握することができるような,立体作品を意図しています.目の作品は,驚きや違和感によって,我々の知覚や感覚が生成されるプロセスを揺さぶり,体験により深い「実感」を与えます.そこには子供の頃に感じるような素直な驚きがあり,誰でも世界に対する発見や不思議を抱くことが可能であることと,その重要性を伝えています.
目《景体》2019,ミクストメディア
これまで連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」で,私はディスプレイやキャンバスなど厚みを持つモノを取り上げて,サーフェイスの奥/先に,あるいはサーフェイスとともにある「バルク」という存在について考えてきた.それは,意識から捨象されていたモノの厚みを「バルク」として改めて取り戻して考えることであり,サーフェイス単体ではなく,その奥/先に「バルク」を置くことで,サーフェイス自体の変化を考えることでもあったと言える.
対して,今回考えてみたい目の《景体》は,海が持つバルクを意識的に取り除いてサーフェイスのみの存在にすることで奇妙な感覚をつくりだしている作品だと考えられる.《景体》はもともと「サーフェイスから透かし見られた」と仮定すると,これまでの考察のように無意識的に捨象されていたバルクを取り戻す作業とは異なる作業をすることになるだろう.つまり,目はなぜバルクを消去して,サーフェイスのみの作品をつくったのか,ということを辿っていく作業を行うのである.《景体》をいくら見て,考察しても,そこにバルクはなく,透かし見られるサーフェイスしかない.バルクを取り除いた先に,サーフェイスのみの作品が生まれ,「「景色として見渡すような海」の存在感を持ったまま,「間近にあるひとつの塊」としても把握することができるよう」になっているのではないだろう.
目の荒神が言っている「「私たちは,海の景色そのものに近づくことは出来ない.海に近づけばそれは波になり,さらに近づくと水になる」ということを,物理学者のカルロ・ロヴェッリが『時間は存在しない』で書いている「いかにも「物」らしい対象でも、長く続く「出来事」でしかない」や「あの雲の輝く表面はどこに行ったのか.消えたのだ.変化は徐々に進み,霧と澄んだ空気とを分かつ「表面」はどこにもない.あれは幻だったのか.いや,遠くから見た光景だったのだ」という視点から考えることはできないだろうか.
目の《景体》は鑑賞者という視点を得たときに,バルクを消去されたサーフェイスに近づいていくとサーフェイスが消去されて,消去されたはずのバルクの薄靄を生じさせるような作品なのではないだろうか.