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094:「向こう側」を「奥行き」によって隠蔽している

わたしは,この見えない向こう側に対する,決してうかがい知れない外部性を「向こう側感」と呼びたいと思います.「向こう側感」を感じない限り,見ている風景は,それ自体で区切られ,その外側は虚無となります.視界のその先にまだ「何か」あるだろうという確信が,「向こう側感」なのです.
ただし,「向こう側」にこちら側と同様の世界が続くだろうという感覚は「向こう側感」とは違います.同様に続くという感覚を「奥行き感」と呼ぶことにします.平凡な我々は「向こう側」もこちら側と同様に続くだろうことを経験的に知っています.しかし経験的知識は論理的真理ではありません.次の瞬間に変わるかもしれない.いわば平凡な我々は「向こう側」を「奥行き」によって隠蔽しているわけですが,重要なことは向こう側に対する直観です.ちなみに自閉症スペクトラムの人々は,向こう側に対する感受性が鋭く,これを奥行きによって隠蔽できないのです.位置No.1145/2996

郡司ペギオ幸夫の『天然知能』を読んでいて,とても気になったところ.フォンタナはキャンバスに穴をあけたり,キャンバスを切り裂いして,キャンバスの「向こう側」を感じられるようにした.それは,画家がキャンバスに描いてきた「奥行き感」のイリュージョンを消滅させた先にある,文字通りのキャンバスの向こう側を,見る者に示していた.

大原美術館でフォンタナが切り裂いたキャンバス=《空間概念》を見たことがある.そこには「奥行き感」のイリュージョンではなく,「モノ」としての立体があった.そして,切り裂かれた部分を覗き見て,キャンバスの「向こう側」を見たとき,何を見ているのだろうかという気持ちになったことを思い出した.

「奥行き」が消失して「向こう側」が現れるのは,フォンタナの作品だけではない.私たちが普段見ている,コンピュータやスマーフォンのインターフェイスでも同じようなことが起こっていると,私は考えて,「GUIが折り重ねる「イメージの操作/シンボルの生成」」というテキストを書いた.

理論神経生物学者のマーク・チャンギージーは『ひとの目、驚異の進化』において,ヒトの目が前向きについているのは立体視のためではなく,複数の層の障害物を透視してより多くの情報を得るためという透視仮説を提示した.この説に従えば,私たちは二つの目で「奥行き感」をつくりだしてきたのではなく,手前と奥という二つの層の知覚で常に「向こう側」をつくりだして,その先を見ようとしてきたと言える.

このように考えると,西洋絵画の歴史はヒトの層的な知覚の「向こう側」を「奥行き感」で隠蔽してきたことになる.その長い歴史のなかで隠蔽されてきた「向こう側」の存在を,アーティストは徐々に気づき始めて,その一つの頂点としてフォンタナがキャンバスに穴を開け,切り裂いたと考えてみたらどうだろうか.

このように考えたときに,エキソニモの《Click & Hold》で「カーソル」をキャンバスに釘打ちづけした行為はどのように考えられるだろうか.インターフェイスはもともと層状の知覚に基づくもであり,そこでは打破すべき「奥行き感」もない.けれど,エキソニモはキャンバスに釘を打つ.それは,仮想世界でつくらた複数の層をそのまま物理世界に取り出すために必要な行為だったのではないだろうか.隠蔽されていないむき出しの「向こう側」を,そのまま保存するために,エキソニモが行ったことが,「奥行き感」による隠蔽を突き破るフォンタナの行為と似ていることは興味深いと言えないだろうか.

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