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227:《ボディジェクト指向#3「変身」》と《あなたは今、しています。A3》に感じた「平面」と「意識の位置」
小鷹研究室の「注文の多いからだの錯覚の研究室展2」に行ってきた.展示とトークで刺激をもらったので,その感じを残しておきたい.おそらく今の私は「平面」ということと「意識の位置」ということに関心があるので,その関心に基づいて展示を見ていたと思う.
小鷹研理さんの《ボディジェクト指向#3「変身」》をまず体験すると,自分の頭が自分の頭ではないような感じを覚えるなど楽しかった.その後,小鷹さんが他の人に作品の説明をしているのを聞いているときに,私が試したのは全く異なる動きをした.
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上の画像では上半身だけが出ているが,説明をしているときの小鷹さんはさらに出てきて足の部分まで出てきた.そうするとそうすると足が鏡に映って,なんとなく「脱皮」をしている感じがあって,奇妙だった.それを見て,自分も試してみた.そうすると「脱皮」という感じはなかったけど,足が「ビヨーン」と伸びた感じがして面白かった.
けど,自分的にいちばんの驚きはそこではなかった.ディスプレイの上に垂直に設置された鏡を見て,自分の足が「ビヨーン」と伸びているなと思っているなと思いつつ,ディスプレイの方を見ると,そこには「平面」になったというか,厚みを失って,ディスプレイに表示されている自分がいた.それにとても驚いた.作品が意図する身体がオブジェクトになるという感覚ではなく,身体が「平面(=イメージ?)」となる瞬間を見るという感じがあった.自分には厚みがあって,鏡の中の自分にも厚みがあると感じるけど,水平に置かれたディスプレイに映る自分には厚みがなく平面だった.その横で同じ態勢の自分には厚みがあって,三次的存在なのに,ディスプレイに映る自分は二次元的な存在であった.
さらに,自分的な感じとして面白かったのは,二次元の自分を見たときに見てはいけない「本体」を見たしまったという感じがあったことである.それは,私が三次元の世界は二次元の情報のホログラフィーであるとする「ホログラフィック原理」をいいなと感じているというのが大きな理由になっている.理論物理学そのものはわからないけど,どこか惹かれている「ホログラフィック原理」における自分の「二次元の情報」をディスプレイに見てしまった.それは普段は見ることがない,私の世界の裂け目から,私そのものを見てしまったような感じがあったのが,とても得難い体験であった.
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宇佐美日苗さんと小鷹さんの《あなたは今、しています。A3》にも「平面」的なものを感じつつ,「意識の位置」ということも感じて,何度も試した.宇佐美さんのこのシリーズの紙の作品の私の体験は,紙に描かれているポーズを自分が取ってしまうということで留まっていた.しかし,今回の木を使った作品は,木に描かれているポーズをとった瞬間に,自分の意識というか視点が,そのポーズをしている自分を眺める位置に瞬時に移動するという体験をさせてくれた.それは,ほんの一瞬だけ,幽体離脱をして,木に描かれたポーズをしている自分を木に描かれたイラストに再帰的に見るような奇妙な感じであった.しかも,それは一度のみならず,何度も訪れた.木に描かれたポーズと同じポーズを自分がしていると思った瞬間に,私の意識は木に描かれたポーズを見る場所に飛ばされる.私の意識は,私の視界の中心にあると思っているのが,ポーズが同じになったと思った瞬間に,私の視界はそのままで,意識だけが,頭の位置を飛び出して,後頭部の少し後ろに移動する.それは1秒もない感じだけれど,私の意識は確かに移動して,私が木に描かれたポーズをしているのを見ている.私の視界と私の意識とが引き離される感じがとても奇妙だった.
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作品を何度も試していたら,宇佐美さんが声をかけてくた.それで上のようなことを話したというといい感じだけれど,そのときは何が起こっているのかわからなかった.紙のときは感じなかったものを,木のときに感じたのはなぜなのかということを思いつつ,私は以前書いた自分のメモを考えていた.
保坂和志さんの『未明の闘争』にあった「ブンは結局私のところに行かなかった.」という文章が気になっている.「ブンは結局私のところに来なかった.」なら別に普通だが,「ブンは結局私のところに行かなかった.」はちょっとおかしい.この文章は最初「私」という登場人物が基点・中心になっているが,最後には「俯瞰」的というか,三人称的な世界になっている.私は中心から外れている.「ブンは結局私のところに行かなかった.」という短い文字列のなかで視点が変わる.これはとても興味深い.CGの3次元空間でのバーチャルカメラの移動にようにとてもスムーズに視点が移動する.身体はそこにありながら,そこにあるままで,視点=意識がスムーズに,瞬時に移動する.これは興味深い.
「ブンは結局私のところに行かなかった.」という文字列は私の意識を否応なく変化させた.この変化の暴力性はエキソニモの《↑》にちかいものがあった.身体をここに/そこにおいておきながら,意識だけがあっちこっちに連れされる感じ.
《あなたは今、しています。A3》にも「ブンは結局私のところに行かなかった」と同じような奇妙さを感じていた.やっていることは紙版の《あなたは今、しています。》でも同じなのだけれど,今回の木で作成された《あなたは今、しています。A3》だけに「ブンは結局私のところに行かなかった」と同じような奇妙さを感じたのはなぜだろうかと考える.けど,それは,私の関心が最近,私の意識がどこにあるのか,意識と視界との関係とを考えているからかもしれないし,紙はペラペラしていて,私の意識を受け止めるにはどこか弱かったのかのかもしれないとか考える.前者の理由は,作品を受け止める準備が私にできたということになるだろうけど,後者は全くしっくりこない.木という少し厚みがあって,表と裏とを使って作品がつくられていたから,何度も試すという感じになって,何度も試しているうちに,意識が後ろに飛ばされたのかもしれない,というのもしっくりこない.意識はいきなり飛ばされたのだから.木に描かれポーズに自分に合わせようとしたことは何回かしたけど,意識が後ろに飛ばされた体験が一度起こってしまうと,それが強烈というか,自明すぎて,何回か試したことなど関係ないと感じている.
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一度後ろに飛ばされると,《あなたは今、しています。A3》にも《ボディジェクト指向#3「変身」》に感じた「平面」を感じてしまった.いやここでの「平面」は,作品について書こうと思ったときに出てきた「平面」だから,あとから構成された「平面」の感じだろう.意識から視点が切り離されて,頭の後ろにいったときに.視点から捉えられる私の意識は木に描かれたイラストのような平面的なものになっていて,そこでは私の三次元的な厚みは失われた感じになっている.もちろん,実際に三次元の厚みを失っているわけではない.けど,視点が後ろに引き離せれたそのときだけは,私が木のイラストに重ね合わされて,平面的な存在になっていると感じたのは,私のなかの事実となっている.
言語学との対話、ことばとからだのイビピーオ(伊藤雄馬 × 小鷹研理 on 金井学)にも,とても刺激を受けた.
伊藤雄馬さんが「言語は身体なんだ」と言って,言語を一つずつたどり直すことで,その言語が話される環境に根ざした身体性に辿り着き,その世界を見ることができるということを言っていた.トークを聞いて,名古屋駅に向かう途中の栄のラシックの前で,私はこんなメモをした.
あたらしい言葉にもリンクする身体性があり,そこから辿れる感覚というのがあるはず.そこを記述していきたいと思った!
私はデジタル技術やコンピュータが出てきた言葉で,身体性や意識を改めて捉え直したいと考えていた.ということを,伊藤さんの話は再度思い出させてくれた.自分がやろうとしていることに,どこか自信をなくしていたというか,これでいいのだろうかと揺らいでいたので,伊藤さんの言葉はとても心強いものであった.