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254:まだ「未開の地」はあるという希望をくれる本

小鷹研理さんから『身体がますますわからなくなる』を送ってもらった.すぐに読んだ.とても面白く,刺激で,前作以上に,小鷹さんのからだに対する強い意志を感じた.同時に,「からだの錯覚」の研究者に枠に収まらないぞと言う意思も感じている.インターフェイスを研究している私としては,身体を拡張する「からだの錯覚」をどんどん追求していって欲しいが,小鷹さんが興味を持つことは,最終的にはヒトの認知のあり方を拡張してくれると思うので,どんどん気になったことを追求していって欲しい!

小鷹研理『身体がますますわからなくなる』
小鷹研理『身体がますますわからなくなる』の表紙に描かれたイラストがかわいいので,ぜひTシャツにして販売して欲しい😍

ヒトとコンピュータとの接点,もしくは,ヒトと情報との接点を研究するインターフェイス研究者としては,第4章の「半地下のラバーファミリー錯覚」が一番の盛り上がりだった.物語を拒絶してきた小鷹さんが物語を介して,錯覚を語っているところも興味深いところだった.

からだの錯覚を体験していない人に伝えるには,物語を組み込む必要があるということなのかもしれない.では,それを熟知している小鷹さんが物語とからだの錯覚とを行き来することの意義はなんだろうか.錯覚を体験してない人がいまだ触れたところがないからだを物語の力を使って引っ張り出すということを目指しているのかもしれない.物語と文字の力を使って,からだを読書体験に引っ張り出すということを小鷹さんが狙っているとすると,次の小鷹さんの本は「小説」になるのではないかと思ったりした.

第4章に『薬指のクーデター』という錯覚が取り上げられている.詳しくは本を読むか,リンク先の小鷹研の説明を読んでもらうとして,この錯覚についての以下の説明が,これからのインターフェイスを考えるときにとても有効だと私は考えている.

以上が,『薬指のクーデター』を「触る指」の側から眺めたときの心理学的な背景だ.自分と他人の入り混じったものを一方の手で同時に触っているとき,それらはまとめて自分のものとされる強い傾向が存在する.そのように,僕たちはできている.p. 186

小鷹研理『身体がますますわからなくなる』

私はこの説明を読んで,抜書きしているときに,タッチパネルに触れるという体験で,自分の行為とディスプレイに表示されているデジタルオブジェクトとの挙動とが重なり合っていって,徐々に自分の行為がデジタルオブジェクトによって導かれていていく感じを説明できるのではないかと考えた.

タッチパネルに触れているときに,私はそこで触れているデジタルオブジェクトも自分のものとしてしているのかもしれない.しかし,そのように考えるには,まず自分とデジタルオブジェクトとが入り混じって,それらを同時に触れているということが求められる.しかし,タッチパネルにおいては,私がデジタルオブジェクトに触れているときに,これらを同時に私が触れるという状況をつくることはできない.その代わりと言えるかはまだわからないが,デジタルオブジェクトはヒトの行為を計測して,行為と遅延なきインタラクションだけでなく,行為の少し先の動き予測して表示できる.このように自分の行為のちょっと先の予測が「見える」ことを体験し続けると,「自分と他人(デジタルオブジェクト)の入り混じったものを一方の手で同時に触っている」状態になるのではなないだろうか.自分の行為の少し先をデジタルオブジェクトの挙動で見続けると,自分とデジタルオブジェクトとに同時に「触れる」体験をする自分でもデジタルオブジェクトでもあるような主体が生まれて,そのあらたな主体を,私は自分のものとしてしまうのかもしれない.

「見える」ことが「触れる」体験を変えてしまうことはよくあるけれど,ヒトとデジタルオブジェクトのインタラクションでこのふたつ感覚を組み合わせた試みはまだこれまでのモノとヒトとの関係を「お手本」にしてつくられている.ヒトとモノとのあいだには明確な境界があり,その境界で起こる認知と行為のための強固な予測システムが出来上がっている.モノとは異なり,情報で構成されるデジタルオブジェクトの場合は,モノとのインタラクションで構築された予測システムを流用しつつ,コンピュータ側の情報処理をうまく使って,「見える」と「触れる」とを組み合わせたヒトの予測を裏切りつつも効果的に機能する独自のシステムがつくられる余地があるはずである.そこで,人類において起こったことがない何かが起こると思う.小鷹さんが開拓する「からだの錯覚」をデジタル世界の設計に応用すると,未だ体験したことがない何かを感じられて,それはヒトの認知世界を変えていくだろうと,私は考えている.

デジタル世界独自の体験を設計するためには,身体の位置情報から逃れる必要があると思う.下の引用は,からだを身体という監獄から逃れさせようとするとても強い表現で,小鷹研理さんの強い意志を感じる部分である.

僕たちの無意識は,抹消から送られてくる身体各部の位置データに対して,逐一,目を通しているわけだが,これを主体性の顕れなどと決して称揚しないでほしい.これら位置情報を伝える神経系は,言ってしまえば,身体の関節に勝手に埋め込まれたGPSのようなものだ.GPSの埋め込まれた受刑者よろしく,僕たちの認知世界では,生まれながらにして手足の全ての動きが監視され,神経ネットワークの中枢でいつでも参照できるように公開されている.この監視社会の監獄から独力で逃れる術など存在しない.p. 243

小鷹研理『身体がますますわからなくなる』

「からだの錯覚」だけでなく,デジタルオブジェクトをうまくデザインすることで,私たちの認知世界で「生まれながらにして手足の全ての動きが監視され」た状態にある身体をより自由な「からだ」へと変容させられると,私は思っている.身体の位置情報をいかに乱して,あたらしい情報に編成しなおすのか.ここにインターフェイスのあたらしいデザインや,メディアアートの可能性があると感じている.

そのためには,小鷹さんが「圧倒的に未開の地」として「耳」を発見したようは衝撃を持つ何かを見つけなけないといけない.

このあたりではっきりさせておいた方がいいだろう.『ブッダの耳錯覚』は,耳という土地が,カタチを伝える神経網世界の中にあって,圧倒的に未開の地であったという衝撃的な事実を告発していたのだ.p. 251

小鷹研理『身体がますますわからなくなる』

ここで「見つけないといけない」の主語は「私」である.私はインターフェイスデザイナーでもメディアアーティストでもない.それらを体験して,文章にする研究者である.でも,プロダクトや作品の体験を通して,私もまた「圧倒的に未開の地」を発見したいと思っている.

現在,私にとっての「圧倒的に未開の地」は「瞼」である.瞼は皮膚でも特殊なのかもしれない.前作の『からだの錯覚』から小鷹さんは,皮膚を自分でありながら自分ではない「半自己」として考えていた.今回はこのことがさらに突き詰められていた.そして,私は『身体がますますわからなくなる』を読んでいるときに,瞼は他の皮膚とは異なるのではないかと思った.瞼は光の遮断という機能があって,皮膚が光を散乱させて,単調化させる.皮膚と動きが明確に光の調整という機能と結びついていて,自在に開閉ができる瞼は他の皮膚に比べると半自己感がないのではないかと感じた.

瞼の皮膚は耳の皮膚のように伸びる感じを得られるのか.明確な機能を持った皮膚はその機能に特化した感じになっていて,何か他の皮膚とは異なるものになっているのではないか.瞼は他の皮膚と異なり,皮膚の奥に骨がない.皮膚の奥に骨があった方が光を遮れるし,強固に眼球を保護できそうなのに骨がない.また,瞼の皮膚だけが内側から見られるというのも,他の皮膚との大きな違いだと思う.皮膚を内側から見て,そこにイメージを見るということの意味を考える必要がある.その試みの一つが,村本剛毅さんの《Imagraphu》で,この作品は考えれば考えるほど,私はこの作品を見ているときに,私が何を見ていたのかがわからなくなってくる不思議な体験もたらしてくれる.

耳が「カタチを伝える神経網世界」の未開の地だったように,瞼もまた「見える」と「触れる」とから生じる世界の未開の地ということを,小鷹さんのような迫力で書けたらいいなと思っている.

小鷹さんの『身体がますますわからなくなる』は,よく知っている思っていた身体がわからなくなるような「未開の地」を教えてくれる.それは認知科学だけに限ることない.この本はコンピュータを介したヒトの体験する世界にもまだまだ「未開の地」があることを私に教えてくれるし,きっとそれぞれの領域でまだ「未開の地」はあるという希望をくれる本だと思う.


瞼という「未開の地」を巡る冒険


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