249:統合の一つ前の状態にある複数の要素を記述する

科研「生命と物質に関わる理論的調査と制作実践」で食べ物に関しての文献を長いこと読んできた.でも,いくら読んでも,食べ物を食べて,美味しいと感じるまでにプロセスを書いたものに出会わなかった.そして,科研も終わりに近づいた時に,科研に参加してくれたアーティストの永田康祐さんのテキスト「一杯のお茶から: ノーマ京都とコンプレックス・シンプリシティ」を改めて読んでみた.そうすると,私がずっと読みたかったことが書いてあった.そこで,科研の最終報告会で永田さんのテキストを本人の前でレビューするということを行なった.

今回の記事はそのときのレビューを再構成したものです.永田さんのテキストからの引用は一切なしで書いているので,彼のテキストを読んでから,私のテキストを読んでもらうといいかなと思います.

「食材(だけ)を食べさせるわけではない」節から料理に対する記述が始まるのだが,永田さんはこれから食べていく味のベースラインを記してくれる.私はノーマのコース料理を食べていないが,これから永田さんのテキストとともに味わって,つまり,読んでいくので,最初に味の基調が記されるのはありがたかった.コース料理だから順番通りに書くのが定石だとしても,最初に読者は味の基調が想像できるようになる.しかもここで永田さんはノーマの特徴の酸味を書いたあとで,今回のコースを「麹や味噌などの濃厚な旨味を基調に料理が構築されている」と書いてくれるので,単なる日本の旨みではなくて,酸味も少しは関係するのかなという感じを抱かせくれるようになっている.ノーマの料理を食べていなくても,北欧の味を知らなくても,日本の料理を多く食べてきた人はここで書かれていることから,コース料理でこれから味わうのがいつもとは異なる味だが,全く知らない味でもないということを想像しやすくなるのではないかと思う.

最初の八寸に対する記述を読むと,永田さんは,対比を使って,実際に食べている料理の印象を強くする記述してくれている.対比するということで,テキストを読む時間が生じて,それによって,読者もテキストから想像・生成される感じが「明確」になっているような気がする.永田さんが料理を味わった時間と私が永田さんのテキストを読む時間とが重なり合っていく.私が想像する味は永田さんが感じたものとはもちろん異なるけれども.味や香りの変化を感じられる時間の流れを,文章を読む時間で感じられるようになっている.

対比だけだけなく,「どの食材も燻してあったり,干してあったり,麹などに漬けてあったりして」と料理手法を並列して記述していくことで,それぞれの手法に対応する香りが想像されて,「多層的な香りのレイヤー」が想像しやすくなっている感じる.燻し,干し,麹といった一般的な名称によって,ノーマの料理を食べていなくても,これらの手法を使った食べ物の食べた記憶が喚起されて,テキストを読む人の意識において「多層的な香りのレイヤー」が構築されていく.

永田さんは料理以前の発酵の過程に関する記述もノーマの料理の記述に入れている,このことは,料理の味を記述するということが様々なレベルの時間を記述することなのではないかということを思わせてくれる.発酵の過程を記述することで,どれか特定の食材ではなく,どこかの記憶にある発酵食品,もしかしたら,食品ではない発酵=腐敗における香り・匂いの変化を想像させる.香り・匂いの変化から味の変化を想像させる.料理の体験を伝えるということは,何か決まった味を記述するということよりも,食材や料理がつくれられる時間を含めてはじめて生まれる味や香りを,その料理を食べているあいだのそれらの変化とともに記述した方が,その体験を活き活きと伝えることができるのではないかと思った.

7品目「鬼海老」の記述にはとても衝撃を受けた.なぜなら,メインの食材だと考えられる鬼海老そのものの食感と香りの記述がないからである.鬼海老を食べているのだけれど,この記述を読むと読んだ人は「生姜ペーストや昆布塩の風味」のみを味わうことになる.永田さんが書いているように,鬼海老がまさにメディウムとして機能している.「メディウム=媒介」という単語の意味を強烈に感じたテキストであった.鬼海老はないけどあるというような感じになっている.

実際に食べた永田さん曰く,鬼海老を感じないそうである.永田さんのテキストを読んでいる私も鬼海老を感じない.それは文字列として鬼海老はところどころに出てくるけれど,味や香りを決定づけるところには現れない.だから,テキストを読んでいると奇妙な感じになる.鬼海老の存在はテキストから知っているけれど,鬼海老を食べたという感じがないままに,生姜と昆布塩の風味が現れてくるからである.あとから,私はエビを食べた感触を思い出した.その感触ははあくまでも事後的なものであって,永田さんのテキストを読んでいるときには,私が感じてきたエビの食感や味というものが一切出てこなかったのである.

8品目「甲いかとウイスキーヴィネガー」に関する記述で.永田さんは「前景化せず」という文言や「くにくに」という擬態語を使って食感を記してる.実際に永田さんのテキストを読んでもらいたいが,これらの言葉の選択によって,イカを食べているときの「くにくに」という食感だけが口の中に生まれるようになっている.ここまでのノーマの料理と永田さんのテキストからは,香りが口の中に広がる感じが描かれていたところで,「くにくに」は効いている.イカではなく「くにくに」しているものを食べていて,その食感と共に香りを感じているように感じてしまう.

8品目のあとで,永田さんはこれまでの個別の体験を一般化してくれている.永田さん自身は,これまで食べてきた体験をまとめているのだが,実際に料理を食べていない私にとっては,,永田さんのテキストを読んでいるときに感じている,口を中心に広がる香りと風味の混合体を感じる体験のまとめになっている.テキストからのみ立ち上がる香りや風味は,ノーマの料理を食べたことがない私にも,ノーマの料理の感じを体験させてくれているような気にさせてくれて,とても不思議な感じである.食べるという行為が香りが口を満たしていく行為となり,どこか曖昧な抽象的な行為に変わっている感じがするようになる.それは,ノーマの料理そのものがそのような指向を持っているかもしれないけれど,永田さんのテキストがその指向を推し進めているような気もする.

ノーマの料理から受けた感じを詳細に記述していく永田さんのテキストを読んでいくと,私を含めた多くの読み手にはきっと口の中に充満する香りや風味は食感をもった食材だけでは生まれないという感じが生まれてくると思う.食材にも食材の時間があるが,それ以外にも調理の時間というか,発酵の時間など複数の時間のレイヤーがあって,永田さんが書いているテキストはそれらを香りや風味の記述に凝縮して書いている感じがする.

「凝縮」という言葉を使ったが,それはこのテキストで重要なアイデアである「カプセル化」に繋がってくると思う.永田さんのテキストを読んだ時に,「カプセル化」というアイデアに衝撃を受けた.コンピュータのプログラムで使われる言葉を料理に使うのセンスにやられたと思った.そして,テキスト2周目の今回も,食材のカプセル化というアイデアは今も面白い.ただ,今回口の中に広がるフレーバーを意識して読み進めてくると,この部分は思弁的なものとして読んでしまった自分がいる.

それはなんだろうと考えてみると,永田さんがノーマの料理を食べた体験からカプセル化が導き出されるのはわかるけれど,永田さんのテキストとともにノーマの料理を体験して私からすると,カプセル化のカプセル化を体験しているように感じてしまうということかもしれない.しかも,永田さんが料理の体験をカプセル化していく解像度の高さに比べて,私の料理に対する解像度は低いから.「カプセル化のカプセル化」は永田さんのカプセル化を全く活かせなていないことになる.自分の解像度の低さを補うために,永田さんの料理をカプセル化した文章ではなく,カプセル化というアイデアのみを「思弁的なもの」として受け取って,私はバランスを取ろうとしたのだと思う.

最初に読んだときに,カプセル化に受けた衝撃は,アイデアのカプセルかであって,思弁的な作業に関しては,私は料理に対するよりも高い解像度を持っていて,カプセル化というアイデアと対等に接していたのだと思う.2回目のカプセル化を私は料理に関する味やフレーバーと受け取って,それは永田さんとノーマを料理の感じをどうにか伝えようとして格闘したリングに私も立ったとこを意味するのかもしれない.ただ,私の解像度は低かったということである.

永田さんがカプセル化して記述してくれているからこそ,私は永田さんのテキストに集中することができる.その結果として,食べてもいないノーマの料理を感じることができている.でも,それはあくまでも私の記憶から「経験の再組織化」が起こり,もしくはカプセル化が起こった後で感じているフレーバーであって,ノーマの料理そのものではないという当たり前のことをここでは強く感じた.

11品目「お豆腐と生アーモンド」に対する永田さんの記述は圧倒的だと思う.提供された料理を視覚的に楽しみ,口に入れて,食べ終えるまでの時間の流れを過去→現在→未来という流れにするのではなく,それを一度混ぜてしまって,再構成されていく.料理を食べたあとで,食べた体験を伝えるために食べるに関する体験の再組織化を文章で行っていく.そこで,今まで封印されていたかのような口の中での出来事の記述が入ってくる.私が読みたかったのは,ここで書かれているような口の中での出来事であった.食べ物が口蓋,歯,舌によってその形状を変えられていくと同時に香りと食感が変化していく.その総体を「おいしい」とカプセル化してしまうのが常であるが,永田さんは執拗に変化を記述してくれている.香りの変化は上でも書かれていたけれど,くしゃくしゃとした食感,ペーストが飛び出すといった記述が,料理を食べている口の中の出来事を教えてくれる.では,この記述からおいしさがわかるかという,それは難しい.やはり形状の変化ではなく,それに伴う香りや風味の変化が記述されているからこそ,そこに味を感じるのだろう.香りや風味の出どころとしての食感であり,食べてもの形状なのであろう.香りや風味の出どころが記述されることで,香りや風味の儚さを支える土台が生まれるという感じであろうか.

香りや香りや風味の変化だけでなく,食感や形状の変化を記述すると「食材の風味の対比関係や隣接性」を明確にできるような気がする.時間による料理の変化を示す変数が多いほど,しっかりと記述できるという感じであろうか.時間的なずれをできるだけ複数の感覚で記述すること.それは実際には同時に起こっている出来事・現象だろうが,それを文字で記述するとなると,どうしても時間的に引き延ばされる.書くのにも,読むのにも時間がかかる文字列の特性を活かして,口の中でほぼ同時に起こっている出来事を引き延ばしていく.画像をピンチアウトするように,テキストで料理の体験を引き延ばしていく.食の出来事と現象が引き延ばされていった先に,食材の風味の対比関係や隣接性が検出されていき,味の検証可能性が生まれてくる.

味の検証可能性を探るには,構成要素に意識を向けながら,要素に還元するのではなく,構成要素間の関係を記述しないといけない.時系列で次々に変わっていく関係を記述することは難しいし,時系列と言いながらも,記述は感覚の同時性を引き延ばし,押し広げることだと思う.そのように書かれたテキストは,体験としての料理の複雑さを示していると思う.料理をつくること自体が複雑だし,料理がつくられるまでの時間が圧縮された料理を味あうときに起こる凝縮したものを引き延ばしていく感じをどのように書いていくのかということがとても重要になってくる.料理を味合うということは,やり直しが効かない行為だと思う.それを記述するためには,感覚と記憶とをどのレベルで統合していくのかということが問われている.おいしいといったときに,その言葉に統合されている感覚と記憶と押し広げて,構成要素の関係を記述するのは相当難しいと思う.

ノーマのコース料理は,料理の根源的な複雑さを感じるためのトレーニングとして考えられるのではないだろうかと,永田さんのテキストを読んでいて思った.料理が運ばれてから,コースが始まってからの出来事の記憶とともに,そのときの食べるという行為に関係するできるだけ多くの感覚情報を統合しようとしながら,簡単に統合することはせずに,統合の一つ前の状態にある複数の要素を記述することではじめて,美味しさの根源的な複雑さにたどり着けるのだろう.統合一つ前の状態に留まることは,料理を体験しているまさにその時には無理だろう.そのときの感じを思い返して,その感じが記憶とを統合する一歩手前で,改めて,料理を食べていたときの複数の要素から成立しつつある複雑な要素を結びつける必要がある.つまり,記憶とともに改めて生じる同時多発的な複雑な感覚情報が統合される前の個々の情報を感じてとって,記述しなければ,美味しさの根源にある複雑さには辿り着けないのである.

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