244:大森荘蔵『新視覚新論』を読みながら考える10──9章 言い現わし,立ち現われ
脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.
このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.
引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.
1 「思い出し」の立ち現われ
インターフェイスの体験を「「見触」様式で立ち現われる」ということから考えてみる.そうすると.インターフェイスは「見触」様式で立ち現われているマウスなどの物質とディスプレイに表示されている画像との組み合わせを操作することで,「思考」という様式で立ち現れている「情報」を操作するということになるだろうか.情報がそもそも「情報」という立ち現れの様式と考えたほうがいいのかもしれない.しかし,情報がこのように処理されるだろう「思考」の立ち現われなかで処理されることで操作されるようになっているとすれば,「見触」様式を媒介にしてまずは「思考」様式に操作されるとともに,それを操作した先に「情報」様式の立ち現われがあるということにあると考えたが,情報はあるにはあるが,立ち現れない状態のままなのではないか.インターフェイス体験で私の「見触」様式で立ち現れるのは,それを開発・設計した誰かの「思考」の立ち現れでしかなく,そこでは情報が立ち現れることはない.では,開発・設計者はどうだろうか.ここでも情報はあることになっているが,そこでも「思考」様式の立ち現われまでしか至ることはできないのではないだろうか.でも,「見触」や「思考」の立ち現われの根底には情報があるということが感じられてならない.情報は立ち現われないけど,そこにあり続けるものであると考えてみるとどうだろうか.
2 言い-現わし
「言明を「規定を一段書き加えた主語の再提示」とみることもできまいか」というのは興味深い.認知過程において,主語がジスト知覚のように要約的な情報を提示して,述語によって情報の解像度を上げていく.知覚によって駆動する認知過程だけでなく,言葉によって駆動する認知過程でも主語-述語によって立ち現われの解像度が上がっていくと考えてみるのは面白いかもしれない.大森は「じかに」とか「すなわち」と書いて,コピー・像を排除していく.情報がじかに思考様式で立ち現れる,それがすなわち見触様式となる.情報の様式は変わっていくが,コピーは生じない.情報はじかに立ち現われて,その立ち現われすなわち別の立ち現われとなる.「すなわち別の」と私が書くときは解像度が変化するということを考えている.ここにもコピーがあるのではなく,同一の情報から様式が変化する=すなわち別の解像度で様式が立ち現われるとなる.「別の様相」すなわち「別の解像度」と考えてみる.同一の情報から複数の解像度が立ち現われて,最初に現われた立ち現われを再提示していく.一つの情報が別の解像度で現われていくなかで,私のなかで思考様式や見触様式が立ち現われていく.インターフェイスでは言い-現わしのように,情報がじかに思考・見触様式で立ち現われる.
「異なる呪文で同じ金星が異なる時と所での異なる姿で立ち現われただけ」というところが,インターフェイス体験としては重要だと思う.「異なる呪文で同じ情報が異なる時と所での異なる姿で立ち現われただけ」と考えてみるのが重要のような気がする.呪文=プロンプトというと今っぽいのかもしれないなと思いつつ,インターフェイス体験においては「呪文」のままのほうがいいかな.chatGPTもインターフェイス体験の一つで,チャット形式そのものが「呪文」になっている.同じ情報が異なる姿=複数の解像度で立ち現われるということ.複数の解像度というのはピクセルの問題だけでなくて,見触や思考といった様式のちがいによる立ち現われの精細さの変化と考えることもできるだろう.見触様式は視界などの高精細な立ち現われを感覚器官にリンクする「界」に提示するが,思考様式は低解像度ではあるが,確かにそこに立ち現われているという感じを提示して「界」の基底を形成していく.「界」が立ち現われるための基底という意味でそれは「world zero hypothesis」における認知の前提となる「ゼロ世界」かもしれない.
3 言葉と立ち現われ
「何ごとかが言葉の立ち現われと連れだって立ち現われている」という部分を読んで,言葉と何ごととをリンクする情報があるのではないないかと考えた.言葉と何ごとはリンクしていて,双方向にリンクしていて,こっちが変われば,あっちが変わる.連れ立って変わる.連れ立って変わること可能にするリンクがあるから,言葉と何ごとかは連れ立って変わる.「すなわち」の変化と呼ばれるものを「リンク」として捉えていく.リンクされているが,そのことを知らないと,言葉と何ごとかのどちらかが変化の主導権を持っている感じが出てきてしまう.主従の関係ではなく,ただリンクされていると考える.リンクという「情報」が言葉と何ごとかを連れ立ち可能にしている.
リンクだと「手に手をとっていった疎遠な連れだち方」になるだろうか.リンクによって瞬時に画面が切り替わるときには「疎遠な連れだち方」には思えない.しかし,ここでは切り替えの速さの問題が問題ではなく「遠さ」が問題になっているから,リンクは「共変」とは異なるだろうか.リンクに近さも遠さもないとすれば,共変として考えられるかもしれない.リンクのリンクだったら遠いけど,リンクそのものには遠近はない.双方向のリンクであれば,ここで書かれている「共変」に近い現れ方かもしれない.大森が書いていることはよくわかる.そのわかり方を,私の言い現わし方で現わしてみたいと思うと「リンク」や「インターフェイス」,「情報」という言葉を使いたくなる.情報を根本において言語と事物との共変を考えると,そこにはリンクがあるとなって,それは情報ということになって,では,情報ってなんだとなると,それは二つの存在を関係づける存在=リンクだとなる.いや,言葉からも情報が立ち現われ,事物からも情報が立ち現われ,情報として言葉と事物とがリンクしているからこそ共変が可能になると言えるのか.情報は「すなわち」という形で言葉と事物とから現れる.
過去の私は「外界の知覚と予測の仮想世界と言葉とでそれぞれ立ち現れる世界の重なり合い」というメモを書いている.言語と事物とから情報が立ち現われと書いたときにの情報は予測によって生成されたモデルだとしてみたい.「よりよく」眺めるために,予測によって生成されたモデルに可能な限り近くなる文字列を書いていく.文字列を出力すると,そこからの立ち現われとモデルとの誤差を修正した立ち現われが現ていく.意識に言葉であれ,事物であれ何かしらの立ち現われが予測によって生成されたモデルとの誤差をつくらないと「より良い」立ち現われは生まれない.でも,予測の生成モデルは高精細なわけではない.おそらく言葉においては高精細ではないだろう.文字列が出力されることで,モデルが精細になっていき,現われが高解像度になっていく.元々,言い現わしに関しては,高解像度のモデルが元々生成されているのではなく,現状のモデルを言い現わすことによってはじめて,モデルが高解像度になっていくためのとっかかりを与えられるのだろう.言葉を使うということは,意識が予測に基づいて生成するモデルを高解像度に現わすということではない.モデルを言い現わそうとして出力された文字列が「呪文」となって,より高解像度なモデルが生成されるきっかけを作る作業である.出力された文字列自体は生成モデルが意識に貼り付ける現れの解像度を持たない存在だが,現れの解像度を高める「呪文=プロンプト」として機能して,結果として,文字列を読むことで,高解像度の現われが「視界」に貼り付けられて,事物が連なった情景を感じられるようになる.
4 空事の「言い-現わし」
対象がネッカーの立方体のように私に立ち現れる.大森のこの話は最初に読んだときに「そうか!」とすごく腑に落ちた.その後,認知に関する予測理論を知った.そうすると,大森の考えは予測理論と合致するのではないかと考えるようになった.私の認知の履歴から予測される立ち現われで対象を見てしまい,その予測が間違っていた場合,対象の立ち現われが反転する.私は予測を透して世界を見るので,予測による立ち現われと対象との誤差によって,その立ち現われが反転する.予測に由来する立ち現われも,予測誤差に基づく立ち現われも,ともに私の対象から「すなわち」の関係で,対象とリンクした存在として等価値である.
下の段落は以前読んだときには特に意識していなかったのだが,今回とても気になっている.「現実と呼ばれる組織網」というのは,無数の立ち現われが幾重にもリンクした結果として「現実」が構築されていく.現実が立ち現われの組織上の区分でしかないならば,それは変わっていくものであろう.テクノロジーの変化によって,立ち現われのリンクが変わっていき,現実が変わっていく.
現実の立ち現れに重視されるのが,触れることのできるものというのは,インターフェイスについて考える上でも避けては通れない.「情報に触れる」というのは今のところは錯覚に過ぎないし,まだ,現実組織には入れてもらえない状態だと言える.しかし,自己帰属感から画面帰属感を経由しての情報帰属感という流れ,自己と情報との主従が逆転して,私が情報に触れるのではなく,情報が私に触れるという状態が現実組織を構成する重要な立ち現れとなることがいずれ起きないとも限らない.この変化とともに,「(私が)情報に触れる」というが現実組織の網の目に入り込んでくる.実際は「情報が私に触れる」だが,そこは視覚的立ち現れをうまく使うことで,うまく隠されていくだろう.いや隠される必要もないのかもしれない.ラバーハンド錯覚のような強烈な体験によって,自分の感覚の組み合わせを勝手に統御されて,別のかたちで統合されていって,元に戻れないということがいずれ起こって,「情報が私に触れる」が情報主体の現実組織のヘソとなるかもしれない.
「「実在せぬものの立ち現われ」をいかに立ち現わせるか.「現実世界」にそりが合わないけれど,それをいかに矯正してそりを合わせていくか.「実在せぬものの立ち現われ」を実在させていくのかが,インターフェイス,モノもどきにとっては重要なことである」というメモを以前書いていた.上の段落へのコメントから考えると,今の私はここでのメモをラバーハンド錯覚体験,正確に言えば,小鷹研究室の「質量ゼロのガムテープを転がす」の体験に基づいて,インターフェイス体験が「実在せぬものの立ち現われ」を実在化していくことを強く確信するようになっていると言える.実在化された「実在せぬものの立ち現われ」は単に実在の立ち現われとして現実組織に組み込まれているだろう.そのときに重要なのは,「私が情報に触れる」のではなく「情報が私に触れる」ということになっているということである.ということ書いているときに,「触れる」というのは「触れられる」ということでもあるから,「私」と「情報」とは触れる触れられるの関係に元々あって,その「主」の割合が私から情報の方に移ったとも言える.それは,Visual Hapticsにおける自己帰属感の配分が環境側に割り当てられるということと同じかもしれない.