140:物体の集積に付与したあらたな架空のサーフェイスを物体に接合する
連載第1回サーフェイスから透かし見る👓👀🤳「サーフェイスからバルクとしての空間を透かし見る」からの引用
───引用はじまり───
モノにはサーフェイスに囲われた内部がある.『表面と界面の不思議』には次のように書いてあった.
一般に物質は表面という変幻自在の“仮面”の層をつけているといってよい.工業プロセスではその仮面の的確な把握が重要である.むしろごく薄い表面の性質が内部の物質本来の性質より重要になる場合が多い.
丸井智敬・井上雅雄・村田逞詮・桜田司『表面と界面の不思議』,工業調査会 ,1995年,p. 10
ここで興味深いのは,サーフェイスが物質の「仮面」の層と呼ばれ,「物質本来の性質より重要になる」という点である.では,サーフェイスはどのように構成されているのであろうか.
表面の成分組成のほか,凹凸の度合いを示す粗度,濡れ性,光の反射・吸収特性などが代表的な表面特性である.最表面には電荷の帯電,独特の原子配列の変化,分子の吸着などがおこるせいぜい数原子分の厚みの部分がある.その厚みは気体分子の吸着層でおよそ0.5nm(ナノメートル:mmの100万分の1),油脂などの汚れ層が5nm,さらに下の酸化膜10nm,加工による変質層が1μmぐらいなど,これは金属の値である.
丸井智敬・井上雅雄・村田逞詮・桜田司『表面と界面の不思議』,工業調査会 ,1995年,p. 11
私たちがモノに触れたときの感触や見た目の印象を決める光の反射はサーフェイスで決まっている.私たちは物質本来の性質ではなく,「独特の原子配列」を持つ仮面であるサーフェイスを感覚していると言っていいだろう.しかし,サーフェイスはごく薄い最表面でしかなく,その奥には,サーフェイスと同じモノでありながら,性質が異なる「バルク」が存在している.
表面と内部の違いをとりわけはっきりさせたい時,表面に対して内部を“バルク”と呼び,表面に対する内部の特性をバルク特性と呼んで区別する.バルクとは“全体”という意味である.
丸井智敬・井上雅雄・村田逞詮・桜田司『表面と界面の不思議』,工業調査会 ,1995年,p. 11
ここでは,「サーフェイス」と「バルク」という二つの異なる名前が一つにモノに与えられていることに注目したい.
───引用終わり───
ということを,MASSAGEの連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」の第1回で書いた.改めて考えてみると,サーフェイスというのは物体の最表面で外部の粒子を受け入れている領域といえる.物体であり,外の環境を受け入れ,馴染んでいるのがサーフェイスであり,バルクはその奥にある.
微視的に物体を見ると,それは原子や分子などの粒子の集積であって,サーフェイスは外の環境からの粒子が入り込んでいる領域だといえる.中と外との粒子が入り混じっている領域で,そこで汚れが吸着し,粒子の変化=酸化が起こる.粒子の変化が終わったところからが,バルクとなる.基本となる粒子はバルクとサーフェイスとで変わらないけれど,外の粒子が入り込んでいるかどうかで,その性質に変化が起こる.「図1.2 クローズアップ表面(『表面と界面の不思議』,p. 12)のように微視的なスケールで物体を見ると,その物体は私たちが見ているのは異なる様相を見せる.
普通のレンガを考えてみてほしい.その質量はおよそ1キログラムである.「レンガのように硬い」と私たちは言う.しかしレンガは,硬そうに見えてもほとんど完全に空っぽの物体である.十分な圧力をかければ,それらをはるかに小さなサイズに押しつぶすことができる.もし圧力が十分に高ければ,ピンの頭やウイルスのサイズにまでレンガを圧縮することができるだろう.それでもまだほとんど空っぽの物体のままだ.位置No. 6862/8448
私たちはふだん気付きませんが,地球には無数のニュートリノが降り注いでいます.その無数のニュートリノは,原子と衝突することはきわめてまれで,私たちの体や,地球でさえやすやすとすり抜けてしまいます.このことは,私たちの身のまわりの物質(原子)が,ほとんど“からっぽ”であることを教えてくれます.
───
こうしてみると,私たちの身のまわりの物質はほとんど”無”である,といえそうです.しかし,私たちのふだんの生活では,壁に手がめりこんでいくようなことはありません.それは,壁の表面の電子と手の表面の電子が,電気的な力で反発しあうことなどによります.電気的な力は,はなれていてもはたらきます.そのため,物質がほとんど”無”であるにもかかわらず,私たちにはそのことに気づかないのです.
ニュートン 2019 5:無とは何か
そして,スケールを変えて見ると,物体は「完全に空っぽ」だということである.私たちの直観とは異なるが,科学的には私たちが見ているのは「ほとんど空っぽの物体」なのである.空っぽだからこそ,外の環境からの粒子を受け入れるということが起こる.空っぽとなると,バルクとサーフェイスという言い方自体も,あるスケールで物体を見たときにだけ現れる状態に対してつけた呼び名ということなるだろう.
《景体》を見るときにも,「景色⇄物体」とのあいだでスケールの変化が起きている.景色は全体として一つのサーフェイスであるが,同時に,物体を集積したものである.景色は物体の集積の手前に見る人の認識が入り込んで,「汚れ層」「酸化層」のようなあらたな(架空の)層の集積をつくった結果として,物体とは異なる一つのサーフェイスとして見えているのだろうか.もしそうだとすると,《景体》はそのスケールの変化で生じる「景色」という架空のサーフェイスを物体化したものだと言えるだろう.景色についているヒトが物体の集積に付与したあらたな架空のサーフェイスを物体に接合したのが《景体》だと考えられる.
黒いうねりの海の物体をつくり,そのサーフェイスと認識によって生じる架空の景色サーフェイスとを並べて,接合する.そうすることで「景色⇄物体」で起こるスケールの変化が「遠近」という空間的な切り替わりではなく,見る人の意識の中で起こる時間的に切り替わる状況をつくりだしているのではないだろうか.このような状況では,《景体》もそれを見ているヒトもすべてが小さな粒子の集積でしかなく,それらが他のものとかき混ぜられ,混じり合っている領域がサーフェイスであり,それ以外はバルクとなっているのではないだろうか.ヒトのスケールでは海の景色を見ているときの海の手前の空間は「からっぽ」に見えるが,そこには粒子が溢れている.その粒子の集積ももまた別のレベルで見れば,ほとんど「からっぽ」ではあるが,粒子レベルで留まれば,そこには粒子の薄靄が存在している.粒子の薄霞の中に,別の粒子と反応しているサーフェイス部分もあれば,粒子が他の粒子との関係を持たないバルク部分もあるということである.