動物園でないた日
このご時世になってからというもの、人の密集する場所への出入りはすっかりご無沙汰になってしまった。ようやくワクチンの接種が進んで感染者数の増加が抑えられてきた頃、万全の対策を整えながら我が家のレジャーも徐々に解禁することにした。
オットも私も動物がだいすきなので、いちばんに動物園に行こうという話になった。屋外なので感染のリスクも少ないし、時間帯によって混雑を避けることもできる。私たちはマスクを装着し、遅めの時間を狙って動物園のゲートをくぐった。
空いている時間帯の動物園は混雑時との満足度がまるで違う。混み合う時間帯は動物を見にきたのか人間の後頭部を見にきたのか分からなくなるが、閑散としている動物園は自分の好きなペースでじっくり楽しむことができる。人混みが苦手な私には大変ありがたい。
私たちが順路を辿っている途中、キバタンという可愛い名前の大型オウムを目にした。真っ白な羽根にブルーベリーのような嘴、つるんと孤を描いた長い黄色のたてがみが可愛らしい。飼育員さん手作りの看板に目をやると『気まぐれですが、話しかけるとお喋りしてくれることもあります!こんにちは、が得意です』と書かれていた。看板に添えられたかわいいキバタンのイラストには『こんにちは』とモクモクの吹き出しまでついている。人間界のおしゃべりクソ野郎代表としては、是非ともオウム界のおしゃべりさんとお話ししてみたい。
運良くキバタンの周りが閑散としていたことに感謝しつつ、私はさっそく声を掛けた。
「こんにちは」
「…ギィェッ!」
キバタンは虚空に向かってひと鳴きすると、くるりと身を翻して私に尻を向けた。なんという辛辣な反応だろうか。もう既に若干嫌がられた気がしたが、憧れの女性にナウシカを掲げる私としてはここで引き下がるわけにはいかない。動物と心通わす為にはこちらが怖くない人間であることを伝えねば。
今度はたっぷりの慈愛を込めて
「こんにちはっ」
と声を掛けてみた。CV(キャラクターボイス)のイメージは島本須美。大丈夫、ほら、怖くない。ね?
「ギェー 」
キバタンは止まり木の上を右往左往しながら、あくびのように気だるく鳴いた。ナウシカ作戦も失敗である。
私はここでピンとひらめた。失念していた、私はもう何年も言葉の通じぬ者と言葉のコミュニケーションを取っていたではないか。保育士として赤ちゃんと接する時の必殺技、オウム返しである。赤ちゃんが喋る喃語を、同じような声色で真似ることで心の交流を図る。
目には目を、「だぁ」には「だぁ」を、
「ギェッ」には「ギェッ」をだ。
私はゴホンと咳払いした後、ひと鳴きした。
「ギェッ」
するとキバタンが今まで向けていた尻をパッと翻し、こちらの方を向いて鳴いた。
「ギェッ」
キバタンが小首を傾げながらくりくりした目で私の両目を捉える。心が通じ合った気がした。脳内にプシャァとアドレナリンが迸る。
後ろで一連の流れを見ていたオットの方を振り返り、渾身のドヤ顔を決める。
「こっちを見てくれたよ、私のオウム語が通じたんや」
興奮する私と対照的に、オットはそうですかといった様子で「へぇ」と返事をした。
私は反応の悪いオットを背に、もう少しだけキバタンとお喋りすることにした。ついつい欲をかいてしまうのが人間の、いや、私の悲しい性。この調子でいけばキバタンお得意の「コンニチハ」が聞けるかも知れない。
私は再びキバタンに向き合い、今までの人生で見聞きしてきたオウムの声色を真似て投げかけた。
「コンニチハッ!」
我ながら中々うまい。目を瞑った人が私の泣き声を聞いたらオウムと思うに違いあるまい。キバタンは相変わらず私を見て小首を傾げている。もう一押しすれば鳴いてくれるかもしれない。調子に乗った私は口を開いた。
「コンニチハ!コンニチハ!コ〜ンニチハッ!コニチハ!コニチハコンニチハ〜!」
その時だった。
「ママーーーー!!!!!!!!!!」
子どもの大きな声が響き、私とキバタンは飛び上がった。あわてて振り返ると、焦るオットの向こう側にちいさな男の子がぽつんと立っていた。男の子は順路の向こう側目掛け、短い両手をめいっぱい振りながら叫んだ。
「ママ早く来てー!!!!!!この鳥さん、お喋りしてるよーー!!!!!!!」
嫌な汗がドッと背筋を伝う。
男の子が聞いていたのはキバタンの声ではない。
オバタンの声なのだ。
「ギェー !」
キバタンが叫ぶ。
ギェー と言いたいのはこっちの方である。ここにきてマスクと私のうますぎるオウムの真似が仇となった。
男の子はお母さんの手を引きながらキバタンの籠の前に駆け寄り、
「ねぇ、聞いて!この鳥さんこんにちはってお喋りしてたよ」
と興奮気味に語った。お母さんはキバタンの籠に掛かった説明書きを読み
「お喋りする鳥さんなんだって!まー君もこんにちはってご挨拶してみたら?」
と言った。
「うん!こんにちは!こんにちはーーー!!」
男の子が何回呼んでも、キバタンは何も喋らなかった。拝啓、キバタン殿。こんな事をお願いできる身では無いのは重々承知の上だが、一度でいいからコンニチハと鳴いてはもらえぬだろうか。私の祈りも虚しく、微動だにしないキバタンに徐々に興奮が冷めていく少年。
「さっきは言ってたんだよ、ほんとだもん」
悔しそうに拳を握り締める彼の姿に
『コンニチハー!!!!!』
と泣き叫びたいのを堪えるオバタン。
これこそまさにマスク社会の産んだ弊害。
私はその後逃げるようにキバタンの籠を後にし、段々と遠くなっていく小年の声に無い胸を痛めた。
ナウシカへの道は険しい。
私のようなエゴという名の腐海の毒に冒された人間がオウムと心通わせるには、まだまだ風の谷での修行が必要そうだ。