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幸村を討て  今村翔吾著

数年前ある新聞社が著者を招き催した講演で、作家になるきっかけは本屋で見た、池波正太郎著の、[眞田太平記]に魅せられたこの本は読みたい、全巻買ってもらい一気に読んだ。この様な本を書く作家になりたい、そして今なれた。将来自分も眞田を書きたいと、絶対に書くと断言した。あの時の言葉どうり書いた。読む理由、信濃の国人で、根津、海野、眞田、望月が一族、この中に我が家は属し幕末まで真田藩士でした。大阪の陣は信之方、真田幸村は大阪城でどうしたのか。 
源次郎が誕生す、名前の由来が語られる、実は源次郎信繫は次男ではなく三男、次男はさらわれ一年間探したが行方不明、よって父昌幸は大変な子煩悩、兄と二人に草のものをつけ身を守らせた。物語は直ぐに、大阪冬の陣、真田丸は昌幸が築いたのではないかと家康は疑う、昌幸に二度も負けているから。二年前に九度山にて死去しているのに、では、左衛門佐幸村とは誰だ弟の信繫と違うのか。かって攫われた次男のいなみが幸村といった。という説を確かめさせる。 
有楽斎の大阪城内においての立場、信長の十三歳下の弟、信長に茶の湯を許され、師に利休を付けてくれた。当時茶の湯を勝手に習うことを、信長は許さなかった、有楽斎は以前から欲していたから。その道で頭角を現し、後には利休の七人の高弟である、利休七哲の一人に数えられるようになった。兄に憧れ兄のようになりたい、無理そもそも戦いなど、関心すらない、一族の者が優秀であればあるほど、兄は警戒を強めることを知っている。裏を返せば、これほどまでに甘く、目を掛けてくれてるのは、即ち役立たずと思われているから、有楽斎はそれでもかまわない。ただ憧れ続けているだけで、兄の傍らで悠々と茶の湯に興じ、漫然と一生を終える。それでも十分に幸せなことと思い定めていた。兄が本能寺でいってから三十年近く過ぎた、戦いの始まりから徳川に通じている。豊臣家に出仕していた流れのままに、大阪城に籠ることになってしまったが、勝算が殆どないことはよくわかっている。城を枕に討ち死になど愚か、何とか徳川家に通じることがないかと、模索している最中、向こうから誘ってきた。有楽斎は一も二も無く承諾した、それからしばらくして、誰の推薦か秀頼と淀殿に総大将に推されてしまった、断るつもりだと密書で知らせた。すると是非受けてくれ。総大将の立場ならば内通者として、申し分ないという考えか嫌嫌で引き受けた。そして大阪城から逃げ出す時。家臣に総見院様の御名に傷が、と言われるが。俺は兄上とは違うのだ、言いたい者には言わせとけ。
南條の影、南條元忠もと六万石の大名であったが。よんどころなく西軍に引き込まれ、大津城を攻め、戦後取り潰しの憂き目あう。浪人衆に名将、猛将は多いが、蜂屋衆という三十人もの忍びと共に入城しているのは、己だけ。豊臣家が勝つとは思っていないが、蜂屋衆が間者忍びを狩り続ければ、徳川としても厄介だと思うに違いない。そこで旧領への復帰を条件に、徳川方に転ぶのが最も現実的な策。蜂屋衆が次々と関東の忍びをけし、殆どが闇から闇に葬られた。表と同様にそれ以上に激しい戦いが行われていることを知っているのは、己だけでない、今一人真田幸村であると確信した。真田にも凄腕の草の者がいる。幸村はこちらが関東と交渉段階に、入ったことを察した。発覚そして南條元忠は腹を切ることになる。
名こそ又兵衛、後藤新左衛門基国の次男として、播磨国姫路近くの村で生まれた。父と兄は別所家に味方し三木城で没した。一人脱出してから三十年の時が流れた。又兵衛の身に様々なことがあった。伯父が黒田家から追放され又兵衛も退身する羽目になったり、その後仕えた仙谷家が改易されたりしたが、又兵衛はめげない如何なる場所であろうとも、一心に槍振るい続けた。やがて黒田家に誘われて戻ると、数え切れぬ程の手柄も挙げた。又兵衛の名は天下に轟くようになリ。高禄で迎えたいという家が続出し、挙句の果てに天下人の豊臣秀吉から直臣として、大名に取り立てたいという申し出もあった。黒田家にに恩がありますればと断り、秀吉は手を打って褒め称え、又兵衛の名は益々広く知れ渡っていく、又兵衛の言い分はこうだ,直臣になってしまえば数ある大名の一人にすぎぬ。だが天下人の申し出を断った者はそう多くはおるまい。武士は大なり小なり名を上げたいもの、それはより高い禄を食むためであって、又兵衛は徹底して名を揚げることそのものに執着している。主君黒田官兵衛孝高は又兵衛の実力を評価し、この奇妙とも思える信念を理解して愛した。その子長政から疎まれる。黒田長政より後藤又兵衛の方が庶民に至るまで名が通っているのだから。長政の怒りが頂点に達したのは、関ヶ原の戦いの本戦の直前に、大名ばかりが出席している評定の場に、後藤殿にも参加して欲しい。と誰かが言い出し、他のもの者のも賛同したからこれだけでも長政は不満。しかも藤堂高虎がお主の意見が聞きたい、と、振ったものだから長政は怒りをあらわにした。又兵衛の意見など聞いてどうなる。一瞬の静寂の後、又兵衛は言い放った。勝つにしろ負けるにしろ、打って出ないことには家康公に顔向けできますまい。確かにその通りだ。高虎がこれに同意し、皆も追従したものだから、長政は赤っ恥をかくことになる、又兵衛は関ヶ原の戦いの後黒田家より致仕した。浪人中の暮らしはそれほど苦ではなかった、苦があったとすれば、戦いが絶えこれ以上己の名を高める機会がなく、悶々としていることくらい。その時がきた、豊臣家からの使者が現れた。徹底的に己の名を揚げ、価を上げに上げた後に、散ってやるつもりである。間もなく天下泰平が訪れる、百年、二百年間その泰平の世にあって、後藤又兵衛基次こそ最後にして真の武士よ。語り継がれることになるだろう。[誰の名が残るか勝負よ]又兵衛は大阪へ向かっのだ。
正宗の夢、生まれるのが遅かった。あと十年でも早く生まれていれば、天下の覇を争うことができた。そうは言っても諦めるしかない。ただ他の大名連中と十把一絡げにされるだけは御免であった。豊臣政権下でも一目置かれていたし、徳川家もまた無視できぬから忠輝に己の娘をめとらせ、縁戚としているのだ。伊達にも忍びの者がいる、実は後藤隊の位置、後続の部隊が遅れて現れることも事前に知っていた。正宗は大阪方の真田と通じている、左衛門佐噓は申していなかった。さらに厳密に言えば、信之の代わりに出陣している息子の陣にいる忍びが、隠れてい連絡を取り合っておリ、そこから正宗は情報を得ていた。この話は昨年信之から持ち掛けきたのだ。かって正宗は大阪城で信繫と言い合いをした。諦めた正宗に信繫が言う、真田の勇名を今の天下人のみならず万世わたり轟かせ、なお家も守り抜く、我ら兄弟はその願いを叶える所存。関ヶ原の戦いの前に会った、機会があれば夢を叶える、お互いに。結果は正宗は夢を果たせなかった。信之は東軍について家名を存続、昌幸と信繫は西軍に徳川軍を翻弄した。これが真田家が夢を果たそうとした策正宗は解った。衝突するのは互いに一利もなし、極力避けるべし。信之との交わした事前の約定。伊達隊は迫りくる真田隊の露払いをする。
勝永の誓い、近江の国人元の名前は毛利でなく、森いなみも吉政といった、後に秀吉に命じられて変えた。幼い時は美女も逃げ出すといった容姿であった。浅井家の長女茶々の遊び相手に、茶々五歳吉政六歳の時、お転婆な茶々に気に入られた。幼いながらも約束を守るからであった。浅井と織田の戦いで別れの時に、茶々は吉政に、私が困ったらまた助けてくれる、約束します。紆余曲折があり再び相まみえたのは、近江賤ヶ岳の戦いの後、秀吉に浅井三姉妹の警護をしろと命じられた。浅井長政の小姓というの名目で、茶々の遊び相手であったことを知っているのだ。吉政はひ弱な幼い頃と違い槍働きでも、指揮を執らせても人並み以上であった。肥後国、豊前国で起こった一揆を鎮圧した吉政に、秀吉は名を毛利に変えたらと勧められ。小倉城主となった。森では九州においては馴染みがない、毛利の方が国人達も畏敬するという秀吉の計らいである。そして関ヶ原の戦い西軍は敗戦、吉政は改易となり、土佐の山内一豊に預けられた。大阪から吉政のところに茶々の直筆の密書が届く直筆は吉政だけ。小谷に仕えていた時、茶々が吉政は優しい名、勝永にしたら、吉政はその名に見合うような武士になったらと答えた、子ども同士の他愛もない戯れ言であったが。大阪へはいなみを、勝永と変え入城した。
真田の戦い、信之と幸村は忍びにて、通じあって仕掛けていた。家康は殺さぬ、殺さぬほうが名が大きくなる、そして最後の戦い夏の陣、幸村はとうとう家康の本陣に躍り込み、逃げ出す家康の足下に、槍を突き立て家康肝を震撼させた。江戸に帰ってきた家康は、奇妙な戦いであったことに気が付いてた。信之を詰問する、南條元忠、又兵衛、勝永などの下った忍び達からの報告を突き付けるが、見事に信之言い逃れ家を存続させる。この最後の章、家康と本多正信そして信之の丁々発止のやり取り、してやったり真田兄弟が一枚上手、さもありなんと思わせる。一味違う真田家の物語です。お勧めします面白いですよ。
 後記 幸村の子共達、長男は父と共に入城した。幼い男子と娘を二人は、正宗が保護する男子は伊達家にて一家をなし、娘の一人は伊達家の重臣に嫁し、もう一人の娘は真田家に引き取られたと聞いています。有楽斎は地名を残す有楽町が有楽斎の屋敷のあった場所。



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