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月ぞ流るる 澤田瞳子著 その三

内裏炎上から、朝児は頼賢がふっつりと姿を見せない。しかも慶円の従僧の中にも居ない心配して叡山に聞合せた、すると慶円はあ奴にはあ奴の考えがあってのこと、いずれその理由が知れようご案じ召さるな、頼賢は生まれ育ち故か実際の歳より肝が据わっている。でも叡山以外を知らない頼賢を心配無用と断言するとは、よほど弟子を信用していると見える。朝児は、(世、始まりて後この国の帝、六十余代にならせたまひにけれどー)村上天皇から、花山天皇の即位まで、天皇の事績を思い付くままに綴った。朝児が初めてこの紙に筆を走らせたのは、内裏炎上から大江家に戻ってきた日の深更過ぎ、朝児の胸を占めていたのは道長の、この世の栄華に対する激しい疑念。いざ当代に近づけば道長の引き立てを受けている大江家の者として自制が手を鈍らせる、道長を弾劾したいのではなく、貶めたいのでもない、ただ誰かが書き記さねばその栄華の陰にこぼれた多くの人々の涙はいずれなかったことになる。物語とは、書き手の感情や理念を言葉にする。藤式部は架空を素材にした。読者は筆者の目指すところに気づくわけない。朝児が抱く世の疑念も、読者に届くはずはないが。書く、たった今を、書いておく。朝児と大鶴は里内裏へ出仕した。里内裏で内裏同様の生活ができるよう、品々を運ぶ指図を与える声に覚えがある。朝児はわが目を疑ったその青年は頼賢であった。朝児は姸子に名指しで召し出された。皇后成子様の元に使いに行く、意外な下命に驚く、成子様のご長男の敦明親王様のお后が、ご懐妊あそばされた、先だって姸子様のご懐妊の折皇后様、敦明親王様から心尽くしのお品頂戴しました。此度はこちらからもお祝いの使者を送らねばなりません。朝児が使者に選ばれたのは、女房の中でもっとも年嵩で、複雑な後宮の情勢を飲み込んで使いを果たせると、皇后が寄居している邸で、住まう透殿へそこでは格子は上げられ、女房たちが笑いさざめきながら針仕事に勤しんでいた,朝児は中宮姸子さまにお仕えする赤染衛門と申します。皇后は色の白い満月を思わせる顔をうなずかせた。中宮様よりのお祝いをお届けに、姸子から託された唐衣と桂を衣箱に入れて奉ると、成子は中宮様はまだお若いのに、万事お気がつかれるお方ですこと、何卒よろしくお伝えくださいましね。その屈託のない態度のせいで知らなければ朝児と同じ中流貴族の北の方としか見えない。この方が頼賢が仇と信じ道長が白狐と侮る女か。その時母屋から乳母がやってきた、この女が原子殺しの直の犯人と囁かれる少納言の乳母か。成子様お使いの方をこんな散らかった所に、と積み上げられた衣をかたずけ始めた時、その中から古びた袖にかぎ裂きが生じた半尻(子供用の狩衣)を取り上げて捨てるように言うと、成子はそれを制した大切なお品なのですね。ええ、いずれ縫って差し上げると、ある方とお約束したのですが、もう十年余り前に、なかなか手に付かぬままそのままに、その方もとうに亡くなられ、着ていらしたお子もすでに大人になってしまわれました。乳母も知らない内々の約束と見える。そう思いいたった時朝児は震えが来た、成子が入内したのは二十年余り前、前の大納言の娘に過ぎず後ろ楯も乏しい成子と、縫い物の約束を交わす親しい人が、まして幼い男児を養っていた相手ともなれば。(もしや原子様では)帝の后は四人、頼賢の母綏子は早くも実家に、姸子は未だに男児を生さぬ、加えて原子と成子の住まいは渡殿一つ挟んだけだ。男児が成子の宣耀殿の庭に迷い込んできたのは、十数年以上前の寒い春、小柴垣をくぐり抜けてきたと見えて半尻は、袖は裂け頬や手足が傷だらけなのに、泣きもせずにこにこ笑っていた。泥まみれの半尻を脱がせ年頃の近い二ノ宮の衣を着せて帰らせた。数日後再び男児が文をむすんだ梅の小枝をもって現れた。かくして成子はこの日から男児を文使いに、見知らぬ相手と文の往還をするようになった。やり取りを重ね、相手は如何やら同じ東宮妃、藤原原子らしい同じ夫の寵愛を競う仇とは、考えられなくはなっていた。原子は叔母綏子の生み棄てた不義の子を引き取り、背の君の勘気覚悟で養っていると聞く。二年余りやり取りのうち、お互いに顔を合わせたのはたった一度少納言の乳母の宿下がりをした時。原子様がなくなる二日前です。淑景舎の女房に余計なことを漏らさぬよう、お子様が昼寝をしている隙に、いちどだけの対面の折、まだ半尻をお預けしたままでしたね。いただいて帰りましょう。あれは原子様とのご縁をつないでくれた衣ですもの破れたままではお戻しできません、きれいにつくろってお返しします。主を失った淑景舎は、無人となりあの童は叡山に入れられたと聞く。聞けばあの童はわたくしを仇と思い込み、遂には還俗して童殿上を遂げられたとか、帝の身辺を探りわたしの面の皮をはがそうと思ってでしょう。あれ程愛らしい笑顔を見せてくれたお子が、と思うと哀しくてなりません。お二人が合われたのを知る人はどなたもいらっしゃらないのですか。一人だけいました、まだ若い青女房が語らいの間見張りをしていた。大切な原子様との想い出、誰彼となく聞かせるものではありません。一刻も早くこの話を頼賢に伝えねばならない,原子様は本当に何故亡くならねばならなかったのでしょう。戻って頼賢を探し今成子から聞いた一部始終を包み隠さず語った。じゃあ誰が原子様を殺めたって言うんだ。分かりませんもう一度、思い込みを解いて調べ直す必要がありそうです。一方で帝の病篤く両目の光を失い転倒することもある、内裏の再建がなされることになった、成子を仇と思い込んでいた頃、頼賢は成子を寵愛する帝に対しても冷ややかでもあったが、疑いが晴れた今となっては帝に同情すら示すように、道長の帝への背反は露骨になり、独断で小除目し官人たちの儀式への参加者妨害することも、流石に異論が出たが道長は冷然と無視、両者の溝は深まるばかり。帝が自身の病平癒を祈願して左京四坊の花山院で、慶円に百日御修法を行わせると布告しても道長は知らぬ顔をすらした。この対立のさなかに、修法が行われるはずの花山院が、突如火災に見舞われたのだ。朝児は姸子の朝の支度の介添も忘れて呆然とした。対立のさなか百日御修法を防げるように、火事が起きるなんてあまりにも出来過ぎ、火事師。幸い御修法の行はれる壇所の舎の屋根が少々焦げただけで無事。火事は風向きにより被害の大きさが変化する。道長はそれを承知の上で火事師を使ったのに違いない。最早四面楚歌に近い現状の帝は帝位にいるのは、道長に対する怒りと意地故か、だと言って道長の専横が許されるわけがない。朝児様朝児様と頼賢が呼びかけて来た、帝は先だってより慶円様を天台座主に補したいと諮っていらっしゃる。でも道長様は以前から慶円様を毛嫌いしているので話が進まない、それにこの度の火事。でも壇所の舎が焼け残ったことだけは、帝もお慶びで慶円様の験力に違いないと仰って、帝のご様子を話している時、渡殿の方角で足音がして、赤染どのいずこにおられますか、女の呼び声が響いた、勤めを怠けていたのは露見しても構わないが、明らかに帝の近侍と分かる頼賢を見咎められては厄介だ。だが頼賢が走り去ろうとするよりも、呼び声が近づいてくる頼賢は周囲を見回すと青々とした椿の藪陰に身を隠した。こんな所におられましたか、と息を切らしながら女房の右近が簀子に姿を見せた。何をしていらしたのですか。ええその椿がもうすぐ咲くなと眺めていました、椿、右近は呟いて点々と花をつけた椿の茂みに目を、頼賢を見つけてと言わんばかりの失言に朝児は歯がみする。だが右近はすぐに庭から目を逸らし、赤染殿は椿がお好きですか。私は好きませんまるで、ぼたぼたと血が滴っているようで気持ち悪うございます。なるほど椿の紅は鮮やかだそこまで嫌わずとも、朝児の不番を撥ね退けるように、右近はぷいと顔を背け早くお戻りなされませと、棘を僅かににじませて言い放ち去った。頼賢が藪陰から這い出して来てあれは右近だよな。ええ頼賢どのご存知なので、ご存知も何も昔原子様にお仕えしていた。そういえば今は姸子様にかしずいているとか、宣義殿が話してた。原子様が亡くなられた後、右近だけが宮中に残って女官なったと聞いた。妙だな、原子様は椿の花がお好きで、淑景舎の庭に唐渡りの名木を沢山植えさせていらした。右近も確か原子様に負けない程の椿好きだったはず、椿が嫌いで淑景舎で働けるものか。原子様が亡くなられる前年の冬には、椿を題にした歌合が淑景舎で行われた。その時にも右近はどちらかの陣に加わって歌を詠んだじゃなかったっけ。それなのに、あのように椿を嫌う右近がいた事実に朝児は引っかかりを覚えた。当時の淑景舎には、右近殿と同じ年頃の青女房はおいででした。居なかった右近が一番年若だった気がする。おかげで俺もよく右近に遊んでもらったものさ。歌合いの記録があれば、頼賢は思い出した列席した判者、宣義殿のところにある。右近の歌は花咲く玉椿の色が千年経っても変わりませんように、椿を愛する女主の今後の幸せを願って詠まれた歌だ。その四へ続く

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