望みしは何ぞ 藤原能信の野望と葛藤 永井路子著 その三
間違っていたかなやはり。今にして思う。敦朗の東宮辞退について、話は向こうから転がり込んできた。能信に心を許しかけていた敦朗が辞意を漏らし、それを父道長に取り次いだにすぎないのだが。一躍宮廷人たちに名を印象づけた、二十二、三の若さで大業をやってのけた。今では能信が敦朗をそそのかして東宮を断念させたかのような噂が広がっている。道長の息子達のうち明子を母とする高松系がとかく霞みがちなのに、能信一人が切れ者倫子所生の息子達、頼通は二十六歳で父の譲りを受けて摂政の地位にあるが、勿論父の指示を受けて動いているに過ぎず。権中納言教通にしても凡庸第一修羅場を踏んでいない。噂されるほどのことはやっていない。噂はそのまま利用してやれという肝だ。敦朗が心を開いてくれていたことは確かだし、邪魔も入らず一番いい形で道長との橋渡しをしたわけで。おかげで東宮交替は波風もなし、代わって立ったのは現帝後一条の弟敦良父の思惑通りにことは運んだ。その後能信は権中納言に昇進した。しかし今になって悔いが能信の心の隅に翳を落す、あの時敦朗さまにいま一度お考え直しを、と申し上げる手もあったわけだなと思ったりする。そのことであれの一生をへし折ってしまったと。あれとは妹の寛子、東宮辞退以前敦朗と寛子の間には、縁談が起こりかけていて能信自身もそれに関わっていた。これは能信にとっても悪い話ではない、今迄天皇の后に立ったのは二人共倫子所生、故一条帝の中宮彰子、故三条帝の中宮姸子、現後一条は十歳の少年だから九つも年上の寛子とはつりあわない。敦朗の后になっていれば即位の折には寛子が中宮になるのは間違いない。我が高松系にも春が来る。今状況は大きく変化し寛子との婚儀は立消えとなった。寛子は后になり損ねた。もう一度お考え直しをというべきではなかったか。俺は東宮に執着しない親王の潔さに感嘆し、一方父君にばかり心を添わせ敦良親王の東宮への道が開かれたことで、どんなに喜ばれるかそのことばかりで寛子ことを思ってもいなかった。かわいそうなことをした妹とは顔を合わせにくいので、ちょうど中納言実成の娘といい仲になったので、高松邸にほとんど帰らなかった。それでいて能信の眼裏には東宮妃となりやがて中宮に立つ寛子の姿がちらつく、そうなってもよかったのになんで。そんな折今高松に来ておる戻ってこいと言う父の言伝てがあり戻ると、母と並んだ父は能信も身を固める年頃だ実成の娘ならいいんじゃないか、からかうような口ぶりで言った。実成の父は右大臣公季、道長とは別系だが藤氏の名門能信が実成の家と結ばれることも悪くないという父の本音。それだけのことでお呼びになった、姫のことだが寛子のことだ[院と御婚儀を進めるのでな、そなた準備をよろしく頼む]瞬間、能信はぽかんとした。院とは東宮を辞退した敦朗のことだ上皇の待遇を与えられ小一条院と呼ばれている。帝位を諦めたその時寛子との話は解消されたのでは、それは父君。口許から出かかった言葉を抑えるかのように、[院も望んでおられることだしいい御縁だと思う。院は立派なお人柄姫も幸せになれるぞ]后になれなくても[まあ后も同然だ。院は歴代の上皇方と同じお扱いをお受けになるのだからな]能信は口を閉じた言いかけようとすると、まるでそれを封じるかのように父は先回りして喋っている。父の前では二十三歳の自分が全く歯が立たないことを感じた。すまなかったな妹よ。やはりあの時敦朗親王にお考え直しをと言うべきだった、思いながらはじめて父の心の底に気がづく。父は東宮の座と引き換えに寛子を差し出したのだ。礼物か取引の具じゃないか。敵と見なされる人を排除せずつねに囲い込んでしまう父を、度量が広いと人々が言うでも、その蔭にいる人がどんな思いを懐かねばならないか、かんがえたことがあるだろうか。[じゃあ姫に他にどんな婿がねがいるというのか]父に言われたら返す言葉もないたしかにいい縁だ。彰子達の妹威子のことを思い浮かべた、寛子と多分同い年だが姉の彰子が敦成(後一条)を産んだ時その傍らにいて抱いたりあやしたりしてやったので、十四歳の時から尚侍の地位を与えていた。幼帝で后がいないとき即位の儀式の為に。敦朗と威子の組合せを考えていたら東宮を辞退しなかったかもしれない。[とにかく万事急いでくれ]道長は上機嫌である。東宮辞退からたった三か月東宮と引き換えに寛子を得たのだ。婚儀にあたって異母姉の皇太后彰子や、その母てある倫子からも大層な贈物が届き。道長はもちろん寛子の為に豪奢な織物をはこび込んでいる。婚礼のその夜高松邸は異母兄の教通、実兄の頼宗能信がこれに続いて敦朗を迎えてこの婚儀を祝うかたちになった。その日は宮中で豊明の節会が行われていたのに道長の顔色を窺う貴族たちは節会の中途で席を外し、我勝ちに高松邸に駆けつけた。東宮の御婚儀でもこれほど豪奢ではあるまい。この噂に父は満足したようだ。道長の気の遣い方は大変なもの、三日めの三日夜餅の折には自ら席に出て敦朗に酒をついだ。その後も道長の敦朗に対する下にも置かないもてなしが続く。寛子はやがて女児を、続いて男児を産む色白の可愛い男児を見た道長は、おお立派な王子だ帝がねだなあと喜んで見せた。帝がねつまり帝にふさわしい人間ということだ。大げさにはしゃいでみせる父の言葉、能信はもう驚きもしなくなってしまった。寛子の結婚の直後の急展開を見てしまったから。婚儀の直後道長は太政大臣になった。寛元元年[千十七年]のこと、翌年に予定されている後一条の元服の折加冠の役を務めるためである。以前から天皇元服の折の役は外祖父である太政大臣がつとめるしきたりなので。十一歳になった後一条は元服した。能信を驚かす事態はなんと威子が後一条の元に入内する、寛子と同い年二十歳の姫君が十一歳の子供に嫁ぐというのか。しかも威子は後一条にとっては血のつながる叔母、叔母甥の結婚はめずらしいことでなかったとはいえ。後一条が誕生した時から威子は彼を抱き上げたりあやしたりしていたはずだ、その威子を少年後一条に押し付けようというのか。やりすぎだぜ父君。それから間もなく能信は高松邸に来た道長に呼ばれた。威子は当然中宮になるそれについて、新しい中宮権大夫にはそなたがなってくれ。そうだ先の姸子中宮の時も中宮権亮としてよくつとめてくれた。心きいたる者の助けが必要だ。囲い込まれたなこの幸運から締め出しはしないという父の一流の配慮である。父は辞を低くし協力を求めているのだが頼みは命令に等しい。私でよろしければ。引き受けてくれるか、機嫌よく父が言ったとき頭にかすめたことは。姸子どのには姫君しか生まれなかったが。そのことを父君に思い出させるのはよそう。 その四へ