墓じまい完了
弟から墓じまい完了したよというラインが入った。
父が亡くなって1年余り。その間遺骨をずっと家で守ってくれて時折その遺影と季節のお花の写真も義妹が送ってくれていた。
私と弟の間では、いずれは墓じまいをしなくてはいけないという合意があった。
弟とも話すんだけど、私たちが子供の頃は「お墓参り」が年間のイベントにしっかり組み込まれてた。お花とキリコを持って親戚のお墓を回り(キリコを見て「誰それは今年早いね」「あそこのおばちゃんたち今年はまだやね」なんて言いながら)、その後家族揃って美味しい食事に出かけるのが子供ながら楽しかった。
母が亡くなってからは、お墓が私たちの心の拠り所になっていたと言っても過言じゃない。帰省する時にはどこよりもお墓参りを優先した。雪が降り積もってお墓にたどり着けないとしても近くまで必ず行っていた。
このお墓を処分する「墓じまい」について、悲しくないか・喪失感がないかと言われれば否定はできない。帰省しても、私たちがずっと「当たり前にある」と思ってたものがないわけだから、すごく悲しくなると思う。実際、ウチのお墓があった場所が空っぽになってたらそれを見るのは忍びないくらい、寂しい。
でも実際問題、今後これを維持するのは、私たちの世代ではなく、弟の息子たち(私の甥っ子)の責任になっていく。
甥っ子たちはずっと関東で生まれ育っているわけで、私たちのような思い出や感情移入がお墓にはない。弟としては、こういう「過去の遺産」を息子たちに背負わせるのはいけない、自分の代で新しい形に移行しなくちゃ、と思ったらしい。これには全く同意する。
こういう「しきたり」というか「伝統」というか「慣習」を変えていく時に、それが特に感情を伴う場合は、守っていくことがよしとされ、そういう人は「温かい」「人の気持ちがわかる」「ご先祖様を大切に敬う」と見られがち。
反対に、そうでないと「冷たい」「先祖を敬っていない」「合理的だ」と思われがちな風潮がある。ちょっと乱暴な区別だけど。
そんな中で「先祖を敬わないと祟りがある」っていうけど、ちゃんと客観的に考えてみたら、私たちの先祖にそんな卑屈な人がいると思えないよね!と弟に言ったら、「そうだ、確かにその通り。変な宗教の言い草を信じなくてもいいよね」。
私たちの代で、一番いいと思われること・できることをすればいいよね、とそこでも合意できた。
私は弟が責任感から、自分ができることをちゃんとやりたいという「温かい」気持ちで色々手続きを進めてくれていると理解してたから、本当に感謝しかないし、否定的な思いも一切ない。却って本当に「いいやつだ」という気持ちが強まった。
私が彼の立場にいたら、怯んでたかもしれないし、私にはできなかったかもしれない。特に上記のように「合理的すぎる・人の気持ちを汲み取ってない」みたいな見方をされることを避けたかも。
「墓じまい完了したよ」というお知らせとともに、今までの慣習や習慣がどんどん変化している時代だと痛感すると書いてきた。本当にそうだよね。
私は、たまたまその時に「武士の家計簿」という加賀藩を舞台にした本を読んでたところなので、私たちが「ずっと存在する・継続してきた」と思う慣習や風習も案外そんなに「永遠に」続いてないんだってこと実感したよ、と返信した。
その中にあったのは、武士の身分は自分たちの実力とか功績で与えられるものではなく、「由緒」すなわちその人の祖先のおかげであるものだから、先祖を敬うことに(お寺への寄進や仏事など)お金がたくさん使われてたとあった。なるほど。
うちは武士出身じゃないけど、でもそういう「慣習」が庶民にも伝わり定着したのかも、と納得した。
弟も「そっか、じゃ、僕も読んでみよう」との返信。
次回からお墓参りは、千葉になる。弟夫婦がいっぱい探してくれて、気に入ったところを見つけてくれた。私も下見に連れてってもらったけど、綺麗で静かで温かい雰囲気のあるところだった。
一人でいるのが苦手だった父だから、みんな一緒を喜んでくれてると思う。
「ありがとう」