【夏の甲子園】31年ぶりサヨナラ押し出し死球で決着
阪神甲子園球場では第104回全国高等学校野球野球選手権大会が8月6日から行われている。
大会3日目、1回戦の興南高校(沖縄)対市立船橋高校(千葉)は大逆転劇、そして、呆気ない幕切れとなった。
興南は3回表、市立船橋の先発・坂本崇斗を攻め、一挙5点を奪い、5-0とリード。
市立船橋は4回に2点、5回にも1点を返し、徐々に反撃。
そして、2点を追う8回に4番・片野優羽のレフトスタンドに叩き込むソロ本塁打で1点を返し、5-4と1点差に。
さらに2死一、二塁となったところで、三塁側アルプススタンドの市立船橋の応援団は「市船ソウル」を奏で始めた。
すると、それに呼応するように、8番・投手の森本哲星が三塁線を抜く当り。
タイムリー二塁打でついに5-5の同点に追いついた。
さらに9回裏、市立船橋は先頭の三浦元希がレフト線へはじき返し、レフトが打球の処理に手間取る間に二塁に達して、無死二塁。
そして、興南は先発の生盛亜勇太に代え、2番手として安座間竜玖がライトの守備位置からマウンドへ。
2番の石黒慎之助には敬遠気味の四球を与え、無死一、二塁。
3番・森本哲太が初球、バントを決めて1死二、三塁のチャンス。
ここで、興南・我喜屋優監督は、4番・片野優羽を申告敬遠で一死満塁とした。
右打者の黒川が代打で起用される。
安座間は2球続けて外角に変化球を投じると、黒川は全くタイミング合わずに空振りを二つ続け、2ストライクと追い込んだ。
捕手の盛島稜大は再び外角のコースにミットを構えて腰を浮かせた。
三塁側アルプススタンドからは再び、「市船ソウル」が響き渡る。
だが、「思い切って腕を振った」という安座間の右腕から放たれたボールは右打席の黒川に向かった。
顔を背けてよける黒川の背中に当たって跳ね返った。
その瞬間、安座間はピッチャーズマウンドから飛び降りて帽子を脱ぎ、地面に伏した。
両手で身体を支えるのが精一杯であった。
試合後の整列ではチームメートに肩を抱かれながら、こみ上げる涙をこらえることができなかった。
興南高校は沖縄県が本土復帰50周年を迎えた今年、初戦で姿を消した。
一方、市立船橋は25年ぶりとなる夏の大会での勝利を手にした。
夏の甲子園大会で「サヨナラ押し出し死球」は史上4度目
夏の甲子園大会で、サヨナラ押し出し死球で決着がついたのは、1991年の第73回大会、3回戦の松商学園(長野)対四日市工業(三重)戦、延長16回裏、松商学園の攻撃、1死満塁の場面で四日市工業のエース・井手元健一朗が、松商学園の上田佳範に死球を与えて以来、31年ぶり、史上4度目である。
センバツ大会を含めると昨年2021年の2回戦、金光大阪(大阪)対木更津総合(千葉)戦、延長13回裏、タイブレークの末、金光大阪が木更津総合の投手・金綱伸悟を攻め、二死満塁から福冨龍之介の押し出し死球でサヨナラ勝ちして以来となる。
1991年第73回大会 3回戦 松商学園 対 四日市工業戦
松商学園はこの年、1991年春のセンバツ大会に5年ぶりに出場を果たした。
エースで4番の上田佳範を擁し、1回戦で愛工大名電(愛知)と対戦、エースで3番を打つ鈴木一朗(のちのイチロー)を5打席を無安打に抑え、3-2と1点差で勝利。
2回戦では前年1990年夏の大会で優勝、夏春連覇に挑んだ天理(奈良)と対戦すると、大会ナンバーワンと謳われた好投手・谷口功一(のちの読売ジャイアンツ・ドラフト1位)から2点を奪い、エース上田は天理打線を2-0で完封。
準々決勝では、優勝候補の大阪桐蔭(大阪)と対戦、上田は大阪桐蔭4番の萩原誠(のちの阪神タイガース・ドラフト1位)を封じて3-0で完封。
さらに、準決勝、国士舘(東京)戦は0-0で迎えた5回、代打・中島尚彦のタイムリー安打で挙げた1点を、上田が守り切り、1-0で完封勝利。
上田は3試合連続完封、初戦の2回から35イニング連続無失点という快投を演じた。
上田の大車輪の活躍で松商学園は65年ぶりにセンバツ大会決勝進出を果たした。
しかも、決勝戦の相手は、65年前の第3回大会(1926年)の決勝戦と同じ広陵(広島)。
前回は広陵が7-0で松商学園の前身である松本商業を下し、センバツ初優勝を果たしていた。
上田は初回、36イニングぶりに失点する苦しい立ち上がりとなった。
それでも松商学園の打線は1-2で迎えた5回表、2点を奪って3-2と逆転、さらに7回にも荒井敏幸の2ランホームランで2点を追加し、5-2と引き離す。
だが、7回裏、広陵はついに上田を攻略、5-5の同点に追いつき、上田をマウンドから引きずり下ろした。
そして、5-5で迎えた9回裏、広陵は2死ながら一、二塁のチャンスの場面で下松孝史がライトに大飛球。
この試合、降板してからライトの守備に廻っていた上田が後ろ向きで懸命に背走する。
だが、打球はグラブを差し出した上田の頭上をすり抜けて落ちた。
広陵の二塁走者の二岡聡が小躍りしながらホームイン。
この瞬間、広陵はサヨナラ勝ちで65年ぶり2度目のセンバツ大会優勝、一方の松商学園は悲願のセンバツ初優勝を逃した。
それでも、エース上田はセンバツの快進撃で、甲子園のアイドル的な存在となっていた。
そして、松商ナインは春の悔しさを胸に秘めて、夏の甲子園大会に舞い戻ってきた。
松商学園は1回戦、岡山東商業戦では二村武の2本のホームランなどで15安打を放ち6-2、2回戦は八幡商業と対戦、13安打で8-3で破り、順調にコマを進めていた。
一方、四日市工業高校は青年監督・尾崎英也が春夏初めての甲子園へと導いた。
初戦となった2回戦、エースの黒木知宏(のちの千葉ロッテマリーンズ)を擁する延岡学園高と対戦、8-4で打ち勝って甲子園初勝利を挙げた。
そして、3回戦で、松商学園高と四日市工業が対戦する。
松商学園は右腕の上田佳範、四日市工業は左腕・井手元健一朗、互いに大会屈指と呼び声の高い両エースが先発する投げ合いとなった。
8月18日、この日はお盆休み最後の日曜日であり、両エースの投げ合いを見たさに、甲子園には5万5000人の観衆が詰めかけた。
四日市工業は4回まで上田の前に1安打に封じられた。
だが、四日市工業は5回表、ついに上田を捉えた。
2死3塁から、1番・河本成司の2ランホームランと3番に入っている投手・井手元のタイムリーで一挙、3点を挙げた。
ところが、7回裏、今度は松商学園が反撃ののろしを上げる。
井手元が突如、制球を乱したのである。3連続四球で無死満塁のピンチ。
そして、1番・二村武、2番・清沢悦郎の連続タイムリーで3点を挙げ、3-3の同点に追いついた。
そこからはエースの意地のぶつかり合いであった。
8回、9回と両チーム無得点に終わり、試合は延長へ。
だが、10回、11回、12回、・・・両チームとも得点圏に走者は出すものの、両エースが粘りを見せ、得点を許さない。
13回、14回、15回、と膠着状態が続く。
この日、関西地方の気温は35度に達しつつあった。
甲子園の気温と共に、投手戦もヒートアップしていった。
上田207球、井手元238球・・・勝負の行方は
そして迎えた延長16回裏、松商学園の攻撃。
井手元は先頭の9番・高橋巧に死球を与えてしまう。
松商学園は1番の二村武がヒットでつなぎ、2番・中島尚彦の送りバントで1死二、三塁のチャンスをつくる。
ここで四日市工業の監督・尾崎英也は3番・辻利行の敬遠を指示して満塁策を採った。
続く打者は4番・エースの上田である。
この日、8打席目となった上田は「インコースが来たら思いっきり引っ張る」と心に決めて左打席に入った。
だが、井手元が投じたボールは左打者のインコースよりもさらに内側へと吸い込まれるように放たれていった。
上田が首をすくめて避けようとしたが、右肩に直撃。
上田はその場に砂煙と共に倒れ込んだが、かすかに左手を挙げてガッツポーズ。
捕手の中村寛はマスクをはねのけて天を仰いだ。
投手の井手元もマウンドで膝を折りながら、両手で頭を抱えて天を仰いだ。
試合開始から3時間46分。
夏の甲子園大会史上に残る投手戦は酷暑の中、突然、終わりを告げた。
井手元を擁する四日市工業ナインは「甲子園初勝利」を手土産に甲子園を後にした。
上田、サヨナラ押し出し死球の代償、超高校級スラッガー松井秀喜と対戦
一方、サヨナラ押し出し死球で勝利し、51年ぶりにベスト8に進出した松商学園にとって、その代償は大きかった。
早速、翌日には準々決勝・星稜(石川)戦が控えていたが、右投げ左打ちで、投手として利き腕の右腕に死球を受けたエース・上田は病院で診察を受けるほどの重症だったのだ。
松商学園・中原英孝監督は宿舎に戻るとすぐに関西在住の松商学園OBたちに連絡を取った。地元・松本の名物でもある馬肉を探し求めたのである。
馬肉は熱を取るのに一番いいとされていた。
手に入れた馬肉を2ミリほどにスライスして、マネジャーや部長らが交代で、上田の腫れた右肩の患部へ押し当て、そして不眠不休で翌朝まで貼り替え続けた。
しかしながら、試合当日、起床後も、上田が死球を受けた右肩の患部はそのボールの縫い目がはっきりとわかるほどであったという。
それでも上田は中原監督に「投げさせてください」と直訴した。
当時、夏の甲子園は準々決勝を1日4試合、行っていた。
ベスト8進出を決める松商学園対星稜戦は第2試合、試合開始予定は10時半であった。
上田は前日、16イニング、207球を一人で投げ抜いていた。
そこから24時間もたたないうちに、上田はこれまでの登板の疲労と死球禍で痛む右肩を抱え、再び甲子園のマウンドに上がった。
星稜の4番は、「超高校級スラッガー」と騒がれた2年生・松井秀喜。
試合は星稜が序盤、上田から2点を奪った。
松商学園は7回に3-2まで追い上げたが、反撃もここまで。
上田はこの試合も一人で投げ抜いた。
松商学園は2-3と1点差の惜敗でベスト4進出を逃し、甲子園を去った。
2日で328球を投げ抜いた上田は試合後、
「右肩は痛くないと言えばウソになるが、それを負けた理由にはしたくない」
と、一言も言い訳は口にしなかった。
松井秀喜との対戦は、4打席で2三振・2四球と痛み分けに終わった。
試合後、松井は「やっぱり上田さんは本調子の投球ではなかった」と語っていた。
それでも、松井は「(上田との対戦は)野球人生で初めて壁を感じた」と振り返っている。
甲子園では力尽きたが、松商学園は秋の国体で優勝を飾り、春、夏の雪辱を果たした。
上田と井手元、両エースのその後の野球人生は・・・
炎天下で死闘を演じた二人の投手はその後、どうなったのか。
井手元はその年のドラフト会議で中日ドラゴンズから5位指名を受けて入団。
一方、上田は同じドラフト会議で日本ハムファイターズから1位指名を受けて入団した。
井手元はプロ入り後、故障がちとなり、実働4年で通算53試合に登板、4勝3敗で2000年オフに西武ライオンズを退団した。その後、JR東海でアマチュアとしてプレーを続けて、選手を引退した。
一方、上田はプロ2年目に右肩を痛め、一軍での登板がないまま、外野手に転向した。
1997年には初の規定打席到達で打率.300をマ―クするなど、強肩好守のユーティリティプレイヤーとして実働14年で1027試合に出場し、486安打、37本塁打で2008年に中日ドラゴンズを最後に現役を引退。
中日、横浜DeNAベイスターズでのコーチを経て、一度もユニフォームを脱ぐことなく、現在は古巣・北海道日本ハムファイターズの二軍外野守備走塁コーチを務めている。