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むかしは誰かが家に居て。

「おかえりなさい。」
「今日もよく頑張ったね。」
「お腹空いてない?」

って言ってくれる、自分を愛してくれている人がいるのが当たり前だった頃、家にはいつも「誰か」がいてくれた時代があった。

家は、人間の土台。

もちろん、今でも家を一番にした生活をしている人はいるだろうし、家族に恵まれた生活をおくっている人もたくさんいるだろう。

今日は、今それができている人ではなく、そういう生活を送れていない人(自分を含めて)に向けてお話しようと思う。

さて、先週のSHOGENさんの、ブンジュ村で聞いた「縄文時代の日本の人々の暮らしや教え」に共感し、心動かされた方が、今の日本にたくさんいらっしゃっることを知れたことは、本当に嬉しいことでした。


50代になってから、信仰の観点で神社やお寺巡りをさせていただきながら、

どれだけ長い間、
どれだけ多くの人々が、
日本の隅々まで、
何代にも何代にもわたって、

この国土やこの国に住む人々の暮らし、そして信仰を大事に守ってきてくれたのか、ということを思い知らされてきました。

私がいう「信仰」というのは、「自然崇拝」とか「神道」とか「仏教」とか「キリスト教」という宗教団体を存続させる組織としての意味ではなく、「何かを信じ仰ぎ見る心」のことです。
それは、祖先を大切にする心だったり、お天道様やお地蔵さんに手を合わす気持ちだったりします。

今という時代を生きている人々は、戦後しか知りません。
代々にわたり「家」というものの大切さを家庭内で語り継がれて、それが血肉となっている人以外、戦後、「メディア(新聞・テレビ・雑誌等)や教育によって植え付けられた価値観」という井戸の中で自分たちの価値観を形成してきました。

そのほとんどが、個人の自由意志を尊重し、家族の分断を煽るものであったことは、今の社会を見ればわかります。

私も例にもれず、上ばかり見て、自由ばっかり追い求めて、個人の魂の充足を「家ではない何か」に求めて生きてきました。
インターネットが普及してからは、ネットの情報や、YouTubeを含めたSNSを通して、個人が個々に仕入れてくる情報が更に細分化され、個々の分断がますます進み、深まった溝はますます深く広がっていきました。

新聞に書いてあることが一番賢く正しいと思い込んでいる世代、
テレビが言っていることを正しくみんなと同じで安心する世代、
SNSで書かれたことを鵜呑みにする世代、
アニメを見ていることが当然の世代、
ゲームの中で生きている世代…
そこに、学歴・格差社会までクロスしてるんだから、本当に皆の価値観はバラバラになって当然です。

書店やブログやYouTubeには、「成功哲学」や「引き寄せの法則」、「幸せになる方法」や「お金が入って来る方法」、「アセンション」とか「ワクワク」とか「トキメキ」とか「ワンネス」とかとかとか…。
現代人の心に引っかかるようなキーワードが次々と並び、多くの人々は小手先であたかも簡単に手に入りそうなメソッドを学ぶことで願望を満たし、瞑想やアファメーション等で心の平安や安定を求めるようになりました。
そして最近では、量子力学やゼロポイントフィールドといった、科学で宗教が証明されたとか言うものまで流行っています。

(幸い私には信仰心がありましたので、魂の救済のための「何か」にすがることはありませんでした。
スピリチュアルやメソッド(~する方法とか法則)的なものにドハマリすることはありませんでしたが、世界中で連綿と続いてきた神聖なる信仰的なものとの共通点を見出すために、ひととおりどんなものかという勉強はしました。)

以前から書いているように、私はキリスト教の聖書の解読がベースにありまして、他の宗教の教えや、上記に挙げたような様々なものを参照して、共通項を探ってきました。
そして、ぐるん!と回って、ベースにある自然界の法則(宇宙の法則)はたった一つしか存在していなくて、それは絶対に存在していて、揺るぎないものであること。
そして、全ては人間(じんかん→世の中、人の棲む世界)の「生活」の営みの中に答えは全部あって、目の前のことに感謝しつつ喜びながら「いま・ここ」を一瞬一瞬生きることが、魂の成長と幸せを持続する唯一つの自然界の法則なのだと思うようになりました。

SHOGENさんがYouTube動画でお話されているブンジュ村から伝わった、縄文時代の日本人の教えは、まさにそのことを伝えようとされていると思うのです。

電気もガスも水道も、もちろんインターネットもメディアというメディアがなかったころ、人々の明かりは昼間は太陽、夜は火と月明りと星々しかなく、物も少なかった頃には「シェアする」しかなかった。
食事は家族揃って食べるのが当たり前だったし、年老いた老人は子や孫、村人全体で看るのが当然だったし、みんなが助け合って生きていくことでしか、生きていく方法がなかった。
喧嘩をしたら、海に沈む太陽の「温かい境界線」を挟んでその日のうちに仲直りを「しなければなない」ルールがあった。

今は、食べるものがいつでもどこでも手に入って、個々に「光を発する小窓」に目をやりながら、お腹を満たすために食事をするスタイルが圧倒的に増えてしまった。

自由と物質的豊かさ、人からの賞賛・評価を追い求めるあまり、「それがないと不幸せ」みたいな価値観が植え付けられてしまった。

今日のタイトル、「むかしは誰かが家に居て。」というフレーズがフッと降りてきたのは、「」というものの重要性をないがしろにしてきた私が、ようやく地に足がついてきたから、お話させていただけているメッセージなのかな、と思います。

お母さんがいない時には、おばあちゃん、おじいちゃん、ひいおばあちゃん、ひいおじいちゃん、お父さん、兄弟姉妹、誰かが自分の帰る居場所にいてくれて、鍵が開いていて、扉を開けて「ただいま」っていうと「おかえり」という言葉をかけてくれる人がいた「当たり前」が、今、ない人がこの日本になんと多いことか、と思ったのです。

毎日、家をキレイにみんなが生活がしやすいように整えてくれて、お腹が空いたときに何か食べ物を用意してくれている人がいて、お茶を入れてくれる人がいて...。
自分に微笑みかけてくれ、自分を心配してくれ、愛情を注いでくれる人がいる生活。
失ってから気付く。「おかえり」と微笑みかけてくれる人がこの世にいなくなることの寂しさ。

でも、思ったの。

「それをするのは、あんたやで。」

いつまで待ってんねん。
いつまで誰かにやってもらうことばっかり求めてんねん。って。

頭でわかっていても、辛い時、寄りかかりたい時、慰めて欲しい時、わかってもらいたい時、泣きたい時があるんです。大人だって。

日本には、鍵もかかっていない心の拠り所とする場所が、コンビニの数よりたくさん存在します。
(本当は魂の数だけ無限∞に存在するんだけどね。)
そんな国って他にあるのかな。
そんな場所なのに、お願いごとばっかりしに来やがって。
パワーくれくれくれくれ言いやがって。
誰が、その場所を守ってきてくれたと思う?

私は、今、ようやく神社やお寺(神や仏の棲む社)やお墓(先祖が居る場所)と、家と、自分自身の心身は、同じ法則の上に成り立っていると思うようになりました。

自分が住まわせてもらっている「家」での心地良い生活をキープしてくれているのは誰ですか?
私の場合は、私だけです。

私の心身をキープしてくれるのは誰ですか?
私の場合は、己だけです。

「おかえり」と気持ちのいい空間に、出迎えてくれるのは誰ですか?
私の場合は、残念ながら、今は私だけです。

昔は、家の中に時間と心にゆとりのある家族の誰かがいてくれた。
仲裁をしてくれたり、生きる智慧を躾の中で教えてくれたり、慰めてくれたり、励ましてくれたり、手作りの愛情のこもったご飯を作ってくれる人がいた。
それを、自分で自分にしようと思ったら、時間が必要です。
掃除、洗濯、料理、お皿洗い、片付け等々、家を大切に保つためには、本当にキリがないくらい、時間がいくらあっても足りないくらいの仕事があります。
それを、一つ一つ丁寧にすること。
それは、お坊さんの修行にも似ているかもしれない。
その一つ一つの動作に、体力づくりも、心の浄化も、心の安寧も、生きるヒントも、感謝の気持ちも、成功への道も、願望を叶える法則も、全てが盛り込まれている、ということを最近になって気付きました。

こんなことは、様々な教えの中で遥か昔から説かれていたことかもしれない。
でも、自分で気付いて実践することの中でだけしか、本当の意味で身につかないのかもしれないんじゃないかとも思う。
ルートは違っても辿り着きたい場所は、皆、同じ。
どの時代も、どの場所でも。

むかしは誰かが家に居て。

というのは、自分を大切にしてくれる人がいた、ってことです。

今は、それが自分しかいないならば、それを自分でやることでしか、その穴は埋められないという、シンプルな気付きでした。
私にいちいち嫌な思いをさせる、目の前のパートナーにとっての「誰か」は、残念ながら、私です。
自分が選んだ道だから、仕方ない。
毎日魂磨きをさせていただけてると思って、自分の魂に磨きをかけていくしかないなぁと思います。
それが、回りまわって、誰かの励ましや慰めとなるのなら、喜んでやりたい。


辿り着いてくれた希少な皆さま、今週も一週間、本当にお疲れ様でした。
みんな、よくがんばりました。
それほどがんばれてないって思ってても、皆全員もれなく、魂レベルでは精一杯生きたのです。
そして、10月も終わろうとしています。(早いね~)
そして、後2か月で2023年も終わってしまいます。(早過ぎるね~)

あっ、また、めっちゃ長くなってしまった(汗)
伝えたいことが、伝わるべき方に伝わりますように。
「家」、大事にしようね。
「生活」、大事にしようね。
「自分」、大事にしようね。

それが、他でもない、私たちが望む未来への一番の近道だから。

今日も最後まで読んでくださって、ありがとうございました!
おやすみなさい。
また、明日ね。












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