玉置神社(1)〜猫には何かが見えていた〜
一昨日の夜、私たち世代の有名なアーティスト、もんたよしのりさんの訃報を知った。
そのすぐ前には、谷村新司さん。
もちろん有名な方ばかりではない。私くらいの年齢になると、知り合いやお世話になった人、同世代の訃報の知らせも多くなってくる。
本当に、人生なんて、明日何が起こるかわからない。
一日一日を悔いのないよう生きていきたいな、あらためてと思っていたら、寝る前に、ずーっと前から行きたい行きたいと思っていて行けずにいた、奈良県十津川村の熊野三山奥の院「玉置神社」に急に行きたくなった。
「明日死んでもいいように生きる」と決めてから、やりたいことを先延ばしにしなくなったし、迷いはなかった。
玉置神社は神社好きな方やスピリチュアル界隈ではご存知の方も多いと思いますが、
呼ばれた人しか辿り着けない神社
とか、超パワースポットとして有名な神社。
私はスピリチュアルは聞きかじった程度なので、本当に辿り着かせていただくことが難しいのかどうかはわかりませんが、どこに行くにも「かみさまのいうとおり」と思いながら、無計画だけど、これまで閃き(ひらめき)に従って行動してハズれたことはなかったので、それを信じて車を走らせはじめた。
ネットで調べたら3時間半くらいで到着予定だったのに、いざ出発するとナビの到着時間が5時間もかかるっていってる😳😱
くねくねと細っそい山道を登って、登って、登って、ようやく辿り着くことができました。
しかし、遠かった!!!!
世界遺産、聖地・熊野三山の奥の院、というだけあって、紀元前から信仰が受け継がれていることに、震えた。
ホント、ここまで来ると、もう「辿り着かせていただきありがとうございます」という気持ちしか湧いて来ないほど、遠い道のりに感じた。
こちらの神社のことは、私が説明するより玉置神社のPR動画を見ていただく方が、その凄さと深みを感じていただけると思うので、紹介はこちらで。
ここでは個人的に感じたことを書きたいと思います。
本殿の裏手にあった悠久の時を感じさせる樹齢3,000年のご神木には魂が震えました。
SHOGENさんの動画の内容の中で、「縄文時代の日本人は、朝起きて初めに土を踏んだ時の喜びをかんじていたんだよ」というメッセージを思い出して、何千年もの命を育んできた大地のエネルギーを素足で感じたくて、人目を気にしながら、裸足になって、土の上に立ってみました。
冷たい…
ああ、冷たいんだ。って思いました。
っていうか、そんなことも気づかなかったなぁ…長い間。
と思いました。
裸足になるなんて、家の中(のバスルーム)か、温泉かしかなかった。大地に裸足で立って、土を感じることなんて、ホント、いつぶりだろう…
いろんなことを感じた。いろんなことを考えた。
エネルギーをいただいたのか、この遠い旅路がそう思わせたのかはわからないけど、帰りの車の中で、小さな小さな全てのことに感謝の念が湧いてきて、涙が溢れだした。
来る途中、何度も工事や点検のために足止めされたけれど、この道を作るために関わってきた人々、安全のためにトンネルにヒビがないかを点検してくれている人たちの姿、この場所に辿り着かせてもらえるために、どれだけの人たちのご苦労があったかと思うと、全部、本当に小さなこと全部に感謝することができて、胸が熱くなった。
嵐や豪雨があって、何度も何度も崩れては、何度も何度も修繕・修復されてきた山や川や橋やトンネルやお宮や歩道は、工事や修繕を生活の糧にしてきた人たちの人生を支えてきたんだなぁ…とか、こんな山奥の僻地まで電気や電波が届くように電線を張ってくれた人々やそれを指示したり関わったりした人たちの努力とかとかとか…
そして、鞍馬山の時も思ったけれど、こんな山の上にこんな場所を作った人々、そこを修験所にしてきた人々…どれだけ多くの命が関わり、どれだけ多くの犠牲があり、どれだけ多くの祈りがあり、どれだけ多くの人たちの魂を癒し救ってきたか…
そういうことを感じさせてくれる場所でした。
家に着くころには、玉置山のパワーか、玉置神社のエネルギーか、感謝に満ち溢れたことで起こった変化なのかよくわからなかったけど、自分の身体から何かが出ているのを感じた。
これを、オーラっていうんだろうなって思った。
見えないけど、明らかに存在する。
手がじんじんして、身体が熱くなるのを感じた。
(実は私、以前にも感謝の念で完全に満たされた時に同じ感覚を持ったことがある)
なんか、出てるなぁ…と思って、
「ただいま!」とドアを開けると、いつものように二匹の猫が走り寄ってきた。と、私が両手を広げた瞬間、2メートルくらいのところで、ギャっ!っていう表情をして、逃げていったのです。二匹とも。
猫には見えてたんだよね、きっと。
人間には見えないものが、言葉を持たない生き物には見える(感じる)んだよね。
だから、嘘はつけないし、逆のネガティブな周波数もしっかり感じてたんだね、きっと。
陽の氣が満ち溢れすぎてることが、自分でもわかったから、陰の氣を浴びるためにベランダに出て、しばらく深呼吸を繰り返してから、また猫たちの元に戻ると、ものすごく甘えてきた。
周波数って、振動だから。
決してハイテンションではないのだけれど、波動がものすごく高くなっている状態って、こういう感覚なんだなぁ…と再確認しました。
そして、いつでもこの状態になれるよう、心を清浄に保っておきたいと思った。
「ありがとう」と口で言えても、心から感謝できない時もある。
でも、大自然には、常に感謝できる自分に戻してくれるだけのパワーがあるのだということも、再認識した。
生かされているということを魂が感じ取れば、感謝の気持ちは持たないでおこうと思っても持たされてしまうということがプログラムされているんだね、きっと。
古代の日本人が、いや、世界中の文明に支配される前の古代民族は皆、そういう世界感の中で生きていたんだろうな。
ハワイアンもそう、ネイティブアメリカンも、ネイティブアフリカンも、自然と共に目には見えないものへの畏敬の念や信仰心を持っていたから、科学や技術が進歩した現代の人間たちよりも、ずっとずっと幸せだったし、ずっとずっと身体全体の機能も発達していて、今よりももっと自然の驚異を肌で感じていたからこそ、感謝の気持ちを捧げる気持ちも大きかったんだろうなぁ…って思いました。
日本にも世界にも、そんな神聖なる場所が残っている。観光地化され過ぎていない、古代のままの姿で残っている場所が、まだまだたくさん残っている。
もう人生半分以上生きてきてしまったから、これからの人生は、そういう目に見えない何かを求めて生きていきたいなぁと思いました。
ヨガとかフラとか瞑想とか、何かに傾倒するのではなく、生活の中で、ただ、感じる。
目の前の空や雲や山々の美しさや、虫の音や、澄んだ水のせせらぎや海や朝陽や夕焼け、太陽や月や星や…キリがないけれど、キリがないほど、そこに自分の周波数を合わせた時に感じ取れる「感謝の念」を受け取りながら、生きていきたいなぁ…
と、思う。
世の後世に残るようなクリエイティブな作品(書籍、詞、歌、音楽、絵画、彫刻、アニメ等々)を遺している(きた)人々はきっと、その周波数帯にいて、ゼロポイントフィールド(超意識・アカシックレコード)と繋がっていたんだろうなぁ…
と、思う。
私は、何を、遺せるだろう。
子孫を残すことはできなかった。
ならば、何を遺して往くか。
超哲学的になっちゃった、ごめん。
でも、これくらいの歳になると、いろいろ考えるんよー。
今日この記事を見てくださった方の中で、玉置神社を知らない人が知ってくださっただけでも、また知ってはいたけど、まだ行けてない人が行こうと思ってくださっただけでも、そして古代のから受け継がれた自然や信仰に触れ、それがまた世の中のために循環してくれたら、それだけで苦労してきたかいがあったってものです(笑)
今日も長い記事を最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
明日の玉置神社の第二弾は、いろんな神社に訪れたからこそ気付いた、オリジナルの歴史考察をしてみようと思います。
明日も悔いのないように生きようね。
ほな、また明日ね!
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