渋谷駅で泣いてた女の子とメリッサ。なぜnoteを書くのか。
何度目かの転職をして、1年間渋谷に通っていたことがある。朝は保育園に娘を送り、夕方は最寄り駅からお迎えに向かう、そんな慌ただしい日々だった。
朝日の眩しさの中、10代の後半か20代の前半くらいの女の子が電車の隅の席で泣いているのに気がついた。気にしてる人も連れの人もいない。ホームに降り立った後も、大半の乗客が足早に改札に向かう中、一人ゆっくりと歩いていた。
一瞬、声をかけようかと思った。でもなんて言えばいい?泣いている時に、知らない人に声をかけられたいだろうか?家族を亡くしたり、ペットを亡くしたり、もしかしたら恋愛絡みかも知れないし、わたしのうかがい知れない、別の理由かも知れない。拒否されたり無視されたらどうすればいい?何より当時、朝は始業時間に遅れないよう毎日必死だった。
結局、後ろ髪を引かれるような思いのまま彼女を追い越し、そのまま職場へ向かったきり、再びその子の姿を目にすることはなかったけれど、東横線のホームを思うと彼女の白い横顔が脳裏をよぎる。
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メリッサ・アレクサンドレア。カナダ生まれの女性で、現在はアリゾナに住んでいるYouTuber だ。ミニマリストの彼女が作るシンプルで美しい動画が好きで、もう何年もの間リスニングの勉強も兼ねて聞き続けている。彼女は今月、朝5時起きにチャレンジしているそうで、話の流れで完璧主義はもうやめると言ってわたしをはっとさせた。(4分前後から)
メリッサはわたしの存在を知らないし、リスニング力アップの目的で彼女の動画を見ている人がいるとも思ってないだろう。自分が何気なく言った、「完璧主義を止める」発言を誰かが気に留めるとも思っていないかも知れない。
でもこの時わたしは、そうか、完璧を求めてないで、やっぱりもう少し気軽にnoteを更新しようと背中を押された。
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しばらく前から、ある翻訳家の方をフォローさせてもらっている。日曜日に更新された、なぜnoteを書くかについて彼女が考察した記事を読んで、わたしがなぜnoteを書きたいと思うのか、その理由の一つが分かった気がした。
渋谷で、気がかりながら見て見ぬ振りをしてしまった女の子に声をかける代わりに。本人の意図とは全く違ったところで励ましてくれたメリッサにありがとうを届ける代わりに。時も場所も超えて、かつての自分と似た誰かのために。ほんのわずかでも光が届けられたら。多分いつか、そんなことができるかも知れないと祈りを込めて書いているのだ。そして書くことで、自分の傷や痛みを乗り越えるために。