156.着せ替え人形の夏休み
本稿は、2019年11月30日に掲載した記事の再録です
1968年(昭和43年)小学校3年生の夏休み、初めて父方の祖母が住んでいる九州に、家族で旅行にいくことになりました。九州も初めてなら飛行機に乗るのも初めてで、我が家にとっては一大イベントでした。私も夏休みになる前から何を持って行こうかと旅行のことばかり考えていました。
中でも一番気がかりなのは、着せ替え人形のスカーレットちゃんでした。スカーレットちゃんは、小学校に上がってすぐに買ってもらったお人形で、当時の私にはとても大切なお人形でした。大好きなスカーレットちゃんと何日も離れてはいられないと思いました。
あの頃、私たちの周りでは、スカーレットちゃんは、タミーちゃんと並んで着せ替え人形の二大勢力で、たいていの女の子がどちらかのお人形を持っていました。放課後それぞれのお人形を持ってお友だちの家へ行き、レゴブロックで家の間取りをかたち取って、おままごとをして遊んでいたものでした。バービー人形もありましたが、ちょっと大人っぽくていかにも外国人風のお人形で、私の周りでは少し年上のお姉さんたちが持っているお人形さんでした。
それまで着せ替え人形といえば、紙でできた「きいちのきせかえ人形」くらいしかありませんでした。肩のところにある「のりしろ」のような白い部分を折り曲げて紙のお人形にかぶせるのでした。三次元の着せ替え人形の登場は、それまでの紙でできた二次元のお人形遊びしか知らなかった私たちにとって革命的な出来事でした。
スカーレットちゃんには、ソノシートというペラペラなレコード盤がついていて、スカーレットちゃんの歌もありました。
スカーレット、スカーレット、私の可愛いお人形
スカーレット、スカーレット、夢見るファッション人形
おしゃれが好き、好き、好き
今日のドレスはどれにしましょ?
スカーレット、スカーレット、私のスカーレットちゃん
スカーレット、スカーレット、私の素敵なお人形
スカーレット、スカーレット、私のファッション人形
楽しい夢、夢、夢
どんなドレスに着替えましょう?
スカーレット、スカーレット、私のスカーレットちゃん
私は、毎日この歌を口ずさみながら、スカーレットちゃんのお洋服をあれこれと取り替え、髪を梳かし、話しかけ、一緒にお布団で寝ていました。ですから九州旅行に行くことが決まってすぐに、
「ねぇ、スカーレットちゃんも九州に連れてっていい?」
と母に聞きました。母はその時お台所で炊事をしながら振り向きもせずに
「はいはい、いいわよ」
と答えました。私は嬉しくってすぐにスカーレットちゃんに報告に行き、
「一緒に行ってもいいって。よかったね」
と喜び合いました。あの日の天気もよく覚えています。
夏休みに入り、もうすぐ九州旅行という日に、母から
「九州に行くんだから、床屋さんに行って髪を切っていらっしゃい」
と言われました。床屋さんには大きなカミソリがあって、ちょっと苦手なところでしたが、九州に行くのだからと仕方なく行ってきました。当時私はサザエさんに出てくるワカメちゃんのようなおかっぱ頭でした。
そして近くの床屋さんから帰ってくると、スカーレットちゃんを手に取り、
「スカーレットちゃんも一緒に九州に行くから髪を切らないとね」
と言って、ハサミでスカーレットちゃんの長い金髪の髪を少しだけ切りました。
ところが、右側が少しばかり短くなりすぎてしまったので、左側をさらに少し切ってみました。すると今度は左の方が少し短くなってしまうのです。そんなことを交互に繰り返していたら、スカーレットちゃんのふさふさの金髪がどんどん短くなっていってしまいました。
気がついてみると、私の可愛いスカーレットちゃんもおかっぱ頭の一歩手前という状態です。私はスカーレットちゃんの髪を何度も引っ張ってみましたが、もちろん伸びることはありませんでした。スカーレットちゃんの髪型はお世辞にも可愛らしいとは言えませんでしたが、それでもちゃんと髪も切ったことなので、あとは九州旅行を待つだけということになりました。
ところが、いよいよ出発という時、母は私が手に持っているスカーレットちゃんを見ると、お人形なんて持っていってはダメだと言い出しました。私はこの前お台所でちゃんと許可をもらったこと、スカーレットちゃんも九州旅行に備えてちゃんと髪も切ったということなどを懸命に説明しましたが、「とにかくダメなものはダメ。それになくしたらもうおうちには戻ってこられないのよ。九州は遠いんだから」と言われ、涙ながらにスカーレットちゃんは家に置いていくことになりました。
そして出かけた九州旅行は、今でも全行程を思い出せるほど子ども心に刺激的なものでした。まず羽田空港から全日空の飛行機に乗ったのは大興奮しました。タラップを上がる時に思ったのは、当時毎週日曜日に放送されていたアップダウンクイズのことでした。このクイズ番組は問題に正解するごとに自分が乗っているゴンドラが徐々に上がっていき、十問正解するとくす玉が割れて飛行機のタラップが近づいてきて夢のハワイ旅行がプレゼントされるというものでした。ハワイではないけれど、本物の飛行機のタラップを上るなんて夢心地でした。
そして、窓の外から見た雲海はおそらく生涯忘れることのできない光景でしょう。飛行機の下には一面、真っ白の綿菓子のようなものが敷き詰められていました。何かと問うと、それは「雲」だというのです。雲が足元にあるなんてにわかには信じられません。うっとり見とれていると、紺色の制服を着たスチュワーデスのお姉さんがやってきて「こちらの窓の方がよく見える」と反対側の座席まで案内してくれました。
反対側の窓から見ると、雲海は太陽の光を受けてキラキラと輝いていました。自分が雲の上にいるなんて、文字通り「雲の上にいる気分」でした。帰りに手のひらからこぼれるほど飴をもらったことも覚えています。将来はバレリーナかピアニストになる予定でしたが、スチュワーデスも選択肢に入れなくてはと思いました。
九州についてから泊まったホテルで初めて見たシャワーに大はしゃぎして、当時大ヒットしていたグループサウンズ・タイガースの「君だけに愛を」や「花の首飾り」をシャワーをマイク代わりにして弟とふたりで熱唱したりもしました。
後年母が言うには、ホテルのロビーのソファに座っていたら、エレベーターに娘の私がひとりで乗り込み、そのままエレベーターの扉が閉まってしまい、母が内心うろたえていたら、しばらくしてまた扉が開いて私が出てきて安堵したということがあったそうです。母にとっては、その時まで、エレベーターというのはデパートのエレベーターガールなど専門家が操作するものであって、自分で行き先ボタンを押すなどとは思いもよらなかったそうです。ましてまだ小学生の私が一人でボタン操作できるのには驚いたと話していました。
九州旅行といえば、ほろ苦い思い出があります。当時観光地では、地名の入ったメダルの自動販売機がありました。追加料金を払えばメダルに自分の名前を刻むことができました。父が記念だから名前も入れるようにと言ってくれたのに、私はかたくなに名前はいらないと言い張って地名だけのメダルを買って貰いました。なぜなら無駄遣いをすると貧乏になるから決して無駄遣いはしてはならないと教えられていたからでした。
弟は素直に名前を入れてもらいました。父は弟の名前の入ったメダルを満足そうに眺めていました。私は早速後悔しました。せっかく父は自分の故郷を子どもたちに見せたかったのに、きっとこの旅行は誰よりも父が一番楽しみにしていたのに、私はわずかなお金を節約して、そもそもそのお金だって出すのは父だというのに、父の楽しみを奪ってしまいとても申し訳なく思いました。でもだからと言って、もうひとつメダルをねだるわけにもいきません。その後、この二つのメダルは、ずっと大人になるまで、小物入れの中に入っていました。弟の名前の入ったメダルと、ただ地名だけのメダルを見るたびに心が痛んだものでした。
それでも旅先では、海やプールや山や谷などいろんなところに連れて行ってもらいました。見たこともない大きな岩や、椰子の木の並木道や、初めての露天風呂や、神社の大鳥居や、大自然の雄大さに心を奪われました。そしていよいよ父方の祖母の住む家へ到着しました。
祖母の家の近くには、父の弟妹やいとこが何人も住んでいました。父は大阪の大学に進学し、卒業後母と知り合い結婚し、その後就職した会社の転勤で東京近郊に転居していました。父にとっても親戚に会うのは十何年ぶりという状態でしたから、私も祖母を始め、叔父叔母いとこに会うのは初めてのことでした。
祖母も叔父叔母いとこも全員が大歓迎してくれました。「さあさあ、遠慮しないで」と言われて上がったのは古くて広い家でした。しかし祖母が話しかけてくれる言葉がさっぱりわかりません。祖母の言葉を叔母やいとこたちが「通訳」してくれました。大人同士の言葉もまったく聞き取ることができませんでした。私に向かって話しかけてくれる言葉はわかるけれど、叔母がいとこに向かって語りかける方言のやりとりもほとんど聞き取ることができず、もちろん意味もわかりませんでした。
夜になってお風呂へ案内されると、そこには見たこともない五右衛門風呂がありました。大きな風呂釜の底に木の板が敷いてあって、そこに足をついてしゃがんで入るものでした。叔母が丁寧に入り方を教えてくれました。もしも木の板がずれたりしたらどうなるのだろうという不安と、とにかくおもしろいという気持ちが入り混じった入浴でした。
お風呂から出て寝間へ行くと、そこには大きな蚊帳(かや)が吊られていて、先にお風呂に入ったいとこはもう蚊帳の中にいました。蚊帳というものを見たことがなかったので、最初はいとこが檻の中に入れられているのかと驚いたものでした。
翌朝は、途方もないセミの大合唱の中で目が覚めました。お互いの話し声が聞こえないほどの大合唱でした。九州の輝く太陽の下、朝食を食べお墓参りに行き、海へも行きました。浜辺で竹でできた流しそうめんをしたことや、祖母の家の裏に青大将が出て大騒ぎになったことなどは鮮明に覚えています。
次第にいとことも仲良くなってきました。いとこにここまでどうやってきたのと聞かれたので、「電車に乗ってきた」と答えると、いとこは「ああ汽車ね」と言いました。「汽車じゃなくて電車だよ」というと、「この辺を走っているのは電車じゃなくて汽車なんだよ」といわれました。今もってこの時の会話の正解はよくわかりません。
そして月曜日の夜、テレビでコメットさんを見ようとチャンネルをガチャガチャしてみましたが、コメットさんはやっていませんでした。いとこによれば、コメットさんはそもそもやっていない上に、テレビのチャンネルはNHK総合とNHK教育以外、民放はたった1社しかないというのです。それには驚きました。1968年当時、東京では日本テレビ(4)、TBS(6)、フジテレビ(8)、NET((10)1977年にテレビ朝日と名称変更)、そして東京12チャンネル((12)1981年にテレビ東京と名称変更、当時は朝夕のみの変則的な放送でした)と、今の地上波と同じように既に5つのチャンネルがありました。民放がひとつしかないというのは子ども心に大きなカルチャーショックでした。
そんなある日、叔父がおもちゃ屋さんに連れて行ってくれて、リカちゃん人形を買ってくれました。当時は、スカーレットちゃん、タミーちゃんを持っている子は大勢いましたが、前年に発売されたばかりのリカちゃん人形を持っている子はほとんどいませんでした。これまでのお人形の身長が30センチくらいだったのに対し、リカちゃんは身長21センチとふた回りほど小さなお人形でした。手足も自由に曲げることができて、ポーズも簡単に取れます。髪の毛は栗毛色で、これまでの金髪のお人形よりも、私たち日本人により親しみのある風貌をしていました。
叔父がリカちゃん人形を買ってくれると、叔母がリカちゃんの着せ替えのお洋服を何着か買ってくれました。私は嬉しくて嬉しくて、最後の日、家の前で全員で写真撮影をしたのですが、その時、私の腕にはリカちゃん人形がしっかり抱かれています。
帰りは、夜行寝台列車に乗って、今度は大阪にある母方の祖父母の家へ行きました。寝台車は座席が夜になるとベッドになりました。夕方車掌さんが来て、あれこれ操作したら、あっという間に二段ベッドに早変わりしました。行きの飛行機に負けず劣らずすごい乗り物でした。昼夜走り続けた寝台車の中から眺めた瀬戸内海は、太陽の光を受けて静かに凪いでいました。
大阪の祖父母の家には、子どもの頃から何度も遊びに行っていたので、祖父母とも十分コミュニケーションが取れました。九州の祖母とは言葉がわからなくてふたりっきりで話をすることができなかったのが今も心残りです。祖父母に買ってもらったばかりのリカちゃん人形を見せると、今度は祖父がおもちゃ屋さんでリカちゃんハウスを買ってくれました。
一方、和裁の得意な祖母は、リカちゃんに着物を仕立ててくれました。祖母は赤い針山のついたくけ台のそばに座って、綺麗な端切れをリカちゃんにまとわせると、型紙をとるわけでもなくササっと端切れを裁断し、みるみるうちにお振袖を縫い上げてくれました。帯も錦織のような端切れでスナップでとめるだけのふくら雀の帯までも作ってくれました。
新大阪駅の新幹線のホームで、リカちゃんハウスを手にしている私の写真が今も残っています。中には、何着も着替えのドレスとお振袖まで持っているリカちゃんが入っていました。
夢のような九州旅行が終わって、東京の郊外の家へ帰ってくると、そこにはザンギリ頭のスカーレットちゃんがひとり寂しくお留守番していました。すっかり浮かれて帰ってきた私は、頭から冷水をぶっかけられたような気分で、両手でスカーレットちゃんを抱きしめました。そして心から悪かったと詫びました。
二学期になると、多くのお友だちもリカちゃんを買ってもらっていました。遊びの主人公は、スカーレットちゃんやタミーちゃんからリカちゃんに完全にシフトしました。そして世の中はあっという間にリカちゃん一色に染まっていったのです。みるみるうちにリカちゃんの付属品は増えていきました。新作のお洋服だけでなく、新しいリカちゃんハウス、いづみちゃんやわたるくんのようなお友だちも続々と増えていきました。
でも私はリカちゃん遊びの時、必ずリカちゃんのお母さん役としてスカーレットちゃんを連れて行きました。それがザンギリカットにしてしまったスカーレットちゃんへのせめてもの罪滅ぼしだったのです。
あれほど毎日のように遊んだスカーレットちゃんもリカちゃんも、中学生になると、リカちゃんハウスに入れられたまま出番がなくなり、そのうちに、押入れの天袋にしまわれてしまいました。そしてさらに長い年月が過ぎ去り、あの九州旅行はもはや半世紀以上も前のこととなりました。それでも、何かの拍子にリカちゃんの話題に触れたり、あの年の夏休みのことを思い出すたびに、今もなお胸の奥がぎゅっと痛くなってしまいます。
<再録にあたって>
1970年代、東京郊外のよみうりランドには、等身大のリカちゃんハウスがありました。私たち女子の憧れのハウスでした。中には入れなかったのですが、外から眺めながら、みんなでこんなお家に住みたいねぇと言い合ったことをまるで昨日のことのように思い出します。女の子にとって何もかも憧れのリカちゃん人形でした。
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