178.クリスマスツリー

本稿は、2020年12月19日に掲載した記事の再録です。

昭和38年(1963年)のクリスマスの前に、私の家にクリスマスツリーがやってきました。それは父が買ってきてくれた本物のもみの木で、当時4歳だった私とちょうど同じ背丈の可愛らしいもみの木でした。

クリスマスツリーを飾りつけするのは心楽しいひとときでした。まずは赤や金色の丸い玉を吊るしたり、サンタクロースやトナカイの橇や赤と白の縞々のステッキや贈り物のオブジェを吊るします。それから、大きな綿をまるで雪が積もっているようにツリーに飾ったり、ピカピカ光る黄色い豆電球をふんわりともみの木に巻き付けます。最後にもみの木のてっぺんに銀色の大きなお星さまをつけると完成で、豆電球のスイッチを入れると命が吹き込まれたようにツリーは輝き出しました。

クリスマスの数日前には、近所の仲良しのお宅へ行ったり、我が家へ来てもらったり、近所の子どもたちがみんなで金色や銀色のモールでできたレイを首に掛けて、銀色の三角帽子をかぶって、仲良く写っている写真が今も残っています。あちこちの家での写真がありますから、きっと子どもたちは連日のように近所のお宅にお呼ばれしていたのでしょう。

私の家でのクリスマス会の思い出といえば、それはなぜかフルーツパンチなのでした。カットガラスの大ぶりな器に一口大に切った何種類もの果物がサイダーの中に浮かんでいるのでした。チェリーやパイナップルやみかんにりんご、バナナやゼリーも入っていました。ガラスとサイダーの泡にクリスマスツリーの豆電球がキラキラと輝き、なんともいえず魅力的でした。

私は目の前のご馳走よりも、一刻も早くフルーツパンチの時間にならないかとそればかり考えていて、他にどんなお料理やお菓子が出たのかはよく覚えていません。母はこの日のために腕によりをかけてご馳走を準備してくれていたに違いありませんが、私はフルーツパンチの金色の泡ばかり眺めていました。

待ちに待ったフルーツパンチの時間になると、フルーツパンチの入ったカットガラスとお揃いの、そちらにもカットがほどこされた綺麗なガラス器に銀色の四角いお玉のようなもので、ひとりひとりよそってもらえるのでした。チェリーがふたつ入らないかな、などと母の手元をじっと見つめていました。

フルーツパンチは、甘くて、サイダーが口の中でぱちぱちと弾け、まるで夢の国からきたデザートのようでした。楽しみにしていたフルーツパンチはあっという間にみんなに配られてしまって、さあまた来年となるのが残念で仕方ありませんでした。

クリスマスの当日にはプレゼントももらったはずですが、私の記憶にあるプレゼントは中にお菓子が入った赤いブーツくらいです。私のクリスマスの思い出は何といってもクリスマスツリーの光を浴びたフルーツパンチに頂点を極めます。

あの頃はクリスマスが終わるとただちにお正月の準備にかかり、大掃除やら買い出しやらで、クリスマスは子ども向け、大人にとっての本番はお正月という感じでした。クリスマスツリーは、すべての装飾品を外して箱にしまうと、父がシャベルで庭に小さな穴を掘り、そこに植えられました。

◇ ◇ ◇

翌年のクリスマスシーズンになると、父は庭の小さなもみの木の根を掘り返して植木鉢に入れると居間に持ってきてくれました。母と弟と、また可愛らしい飾りや綿の雪をつけて、黄色い豆電球をツリーに巻きつけ、最後に銀色の大きなお星さまをつけて電気のスイッチを入れると再びクリスマスツリーは息を吹き返しました。

しかし、私が5歳のクリスマスの数日前に弟が消化不良をおこしてしまって、母は血相を変えて弟を抱きかかえて大きな病院へ駆け込みました。その晩は一晩の入院で済み翌日退院してきましたが、まだ目が離せないという状態でした。幸い大事には至りませんでしたが、私は小さな弟が心配でたまりませんでした。

母がクリスマス会を楽しみにしていた私のことを可哀想に思ってくれていることも伝わってきて、私はそんな母が気の毒に思えてなりませんでした。弟がこんな状態なのでクリスマス会どころではないのは当然のことで、私のことよりも弟のことに集中してあげて欲しいと幼心に思いました。

近所の仲良しのゆかちゃんのママがこの状況を知って、それでは今年のクリスマスイブはゆかちゃんの家で、ゆかちゃん一家と一緒に過ごしましょうと言ってくださいました。そうすればひとりっ子のゆかちゃんもずっと楽しくなるからと言ってくれたのです。ゆかちゃんのママの優しさが身に染みました。今思うと5歳の子どもというのはなんでもわかっていることに気づかされます。

ゆかちゃんの家で、たくさんご馳走をいただきました。もう56年も前のクリスマスの日の思い出です。クリスマスシーズンになるときまってゆかちゃんのママのことを思い出します。本当にありがたいことでした。

◇ ◇ ◇

毎年クリスマスの前になると、父は庭のクリスマスツリーの根を掘り起こしてくれましたが、小学校に入ってからはクリスマスツリーはどんどん大きくなって、父と母のふたりでは、植木鉢に入れるのは難しいほどになってきました。なんとか私も手伝って鉢植えに移し替えました。最後の銀色の星をつけるのは、椅子にのぼらないといけないようになってきました。

私たちが学校から帰ってくるとランドセルを家に放り投げるようにして遊びに行っていた近所の公園に、毎週土曜日になると3人の女性がやってきました。私たちが鉄棒にカーディガンを巻きつけ、その上にうまく片方の膝裏が当たるように鉄棒に足をかけて、ヨーイドンで前まわりをグルグルして遊んでいると(035. カーディガンの使い道)、アコーディオンの音色が聴こえてくるのでした。彼女らは、隣町の教会から来た人たちでした。

3人は「あなたがたはクリスマスが何の日か知っていますか? クリスマスとはケーキを食べたりプレゼントをもらう日ではありません。この世の救い主イエス・キリストがお生まれになった日なのです」といい、馬小屋で生まれたキリストの誕生を祝って3人の東方の博士がやってきたという紙芝居を見せてくれたり、アコーディオンに合わせて賛美歌を歌ったりくれたりました。私たちも声を合わせて合唱しました。最後までその場にいた子どもたちには、小さいきれいなカードが配られました。

3人の女性の内の1人は外国人で、銀色の髪をした少し年配の女性でした。スエーデン人だということでした。そのため賛美歌は日本語、英語、スエーデン語の3カ国語で歌われました。私は今も幾つかのフレーズをスエーデン語でも歌えますが、それは音だけを覚えているのであって、なんという賛美歌かも、歌詞の意味もわかりません。3人の女性は公園での紙芝居を「土曜学校」と呼んでいました。土曜学校の先生は3人とも親切で優しくて、お化粧っ気がなく姿勢の良い方たちでした。

クリスマスの当日に教会へ来れば、もっと大きくてきれいなカードがもらえますと言われて、みんなで行きたいねと話し合い、それぞれが親に話し、子ども片道10円の電車賃の往復代金と、献金の10円の合わせて30円を貰って、みんなで教会のクリスマス会へ行きました。子どもたちは15人近くいたと思います。3人の女性の内、一番若い女性が公園から引率してくれました。献金は手品師が使うような黒いビロードの袋が回ってきて、その中に音を立てないように入れました。

今思えばその教会はプロテスタントの教会で、おそらく米国人が中心に運営している教会だと思われました。大人になってフランスでよく見かけた重厚なカトリックの教会とはまったく趣きの違う、たくさんの太陽の光がそそぎ込む明るくてさっぱりとした教会でした。

何回かは楽しくて教会へも行きましたが、毎回30円が必要なことと、せっかくの日曜日がつぶれてしまうという理由から、そのうちになんとなく仲間内で土曜学校だけでいいということになり教会通いはやめになってしまいました。それでも外国語で賛美歌を唄ったり、欧州や中東の風景を紙芝居でみているうちに、なんとなく世界が広がった感じがしました。

◇ ◇ ◇

父と母はもみの木について考えをめぐらし、日当たりの良い庭ではなく、北側の玄関脇に植え替えれば、もうこれ以上は大きくならないのではないかと思ったようで、小学校に入ってからはもみの木は玄関脇に植えられました。それでも3年生のクリスマスには、玄関から家の中に運びこめたとしても、真っ直ぐ立たせられるかどうかというほど大きくなりました。

ツリーはなんとか立ちましたが、もう来年は家に入らないかもしれないねといいながらいつものように飾りつけをしました。しかし、てっぺんに銀色の星をつける余裕はありませんでした。本当にもみの木は大きくなりました。

あの頃はデコレーションケーキといえばバタークリームのケーキでしたが、父はクリスマスイブにはその年初めて登場したアイスクリームデコレーションケーキを買ってきてくれました。まだ生クリームのケーキが登場する前の時代です(018. 郷愁のクリスマスケーキ)。

3年生の時、駅前のお店のクリスマスツリーに赤や青や黄色や緑の何色ものイルミネーションがついたのには驚きました。それまでクリスマスツリーのイルミネーションは黄色い豆電球一色だと思っていたからです。けれども、色とりどりのイルミネーションよりも、家に帰って見た黄色一色のイルミネーションの方がなんだか美しく感じられました。

その頃の私は、近所にある絵本や子ども向けの本ばかり貸し出してくれる子ども用の図書館(024. うさぎ文庫)でよく本を借りて読んでいたので、クリスマスになると様々なお話を思い出すようになりました。

まず最初に思い浮かべるのはアンデルセンの「マッチ売りの少女」でした。大晦日の晩、誰にもマッチを買ってもらえないマッチ売りの少女は、寒さしのぎに一本ずつマッチをすり、一本するごとにその炎の中に、暖炉や七面鳥、そしてクリスマスツリーの幻影を見るのでした。最後におばあさんの幻影を見た時、おばあさんにいつまでも消えないでもらいたいと持っていたマッチのすべてに火をつけ、そのままおばあさんに抱きかかえられるように天に召されたというお話です。

次は「フランダースの犬」でした。貧しくも優しいおじいさんと愛犬パトラッシュと共に、画家になる夢を抱きながら暮らしていたネロは、クリスマスを目前に放火の濡衣を着せられ、糊口をしのいでいたミルク運搬の仕事も失い、その上おじいさんまで亡くして家まで追われ、挙句に絵画コンクールにも落選してしまうのでした。周りの人々がネロの本来の正直者の姿に気づいた時には既に時遅く、クリスマスの翌朝、大聖堂の憧れのルーベンスの絵画の前でネロとパトラッシュは冷たくなっているのが発見されるのでした。

もうひとつは、オスカー・ワイルドの「幸福の王子」でした。これは直接クリスマスと関係しているわけではありませんが、冬を南の国で過ごそうとしていたツバメが、魂をもった幸福の王子の像の願いをかなえるために、王子の像を覆っていた金箔や剣先のルビーや王子の瞳のサファイアを貧しい人々のもとへ届けているうちに、ついにツバメは越冬出来ずに王子の足元で死んでしまい、みすぼらしくなった王子の像も撤去されてしまいます。しかし、王子の心臓とツバメの亡骸は「町の中でもっとも尊いもの」として神様のもとへ届けられるのでした。

私は繰り返し繰り返しこれらの物語を読んでは泣き濡れました。世間の冷たさを悲しみ、神様の非情さに腹をたてました。クリスマスがこの世の救い主のお誕生日なら、なぜ善良な彼らをこんな目にあわせるのでしょうか。ゆかちゃんのママの思いやりを神様に分けてあげたいと思いました。

その上天地創造やアダムとイブの話はわかったけれど、ビッグバンや恐竜や進化論はどう説明するのだろうと考えるようになりました。土曜学校の先生方に聞いては、心優しい先生方を傷つけてしまうような気がして質問できませんでした。

4年生のクリスマスは、もう玄関脇のもみの木はとても素人が動かせるようなものではなくなっていました。大地にしっかりと根をおろし、豊かな枝を美しく広げていました。屋外のクリスマスツリーに飾りつけをするという発想はその頃なかったので、その年は我が家のクリスマスツリーの飾りつけはありませんでした。

5年生になって引越ししました。引越しの朝、私は玄関脇のもみの木を見上げました。初めて私の家に来た時には私と同じ背丈だったのに、すっかり大きくなって2メートルくらいになっていました。

◇ ◇ ◇

大学生の時、昔住んでいた家に行ってみようと思い、ひとりで行ったことがありました。駅から家に向かうと、遠くからもみの木が目に飛び込んできました。屋根から遥かに高いところにそびえていました。私と同じ背丈だったもみの木は3メートルどころか4メートル近い高さになっていました。

若かった父も母も、まさかもみの木がこんなに成長するとは夢にも思わずに、4歳の私に可愛らしいクリスマスツリーをプレゼントしてくれたのでしょう。このままずっとここに残っていくのかしらと私は少し嬉しいような、ご近所に申し訳ないような気持ちになりました。

このもみの木と一緒に子ども時代の幸せなクリスマスを何度も過ごしたと思いました。フルーツパンチしか目に入らなかった小さな子どもの頃から、弟の病気、クリスマスの哀しい物語、土曜学校、色んなことをこのツリーの下で考えたり学んだりしたと思いました。

そしてそれから更に時が経ち、三十年ほど前、私が子どもの頃住んでいた地区は大規模な地区開発が行われ、家も庭ももみの木も、ゆかちゃんの家も土曜学校の公園も、一切合切がすべて取り壊されて、道筋までもが原形を留めないほどの大工事が行われました。その後、まるで最初からここはこのような街でしたというように新しいマンション群が立ち並びました。

もう心の中にしか残っていないクリスマスツリーですが、今も黄色い豆電球がまたたく様子が目に浮かんできます。


<再録にあたって>
子どもの頃は、なんであんなにクリスマスが楽しみだったのだろうと思うほど、12月も半ばを過ぎると毎日わくわくしていました。季節感も薄れ、街並みもすっかり変わりましたが、心の中のクリスマスの思い出は不思議といつまでも色褪せることはありません。


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