先日、友人が宮尾登美子の『序の舞』がおもしろかったと言っていたので、私のような日本画入門者には大家の話が参考になるとも思えないものの、それでもなんらかのご利益を願って近所の図書館へ行ったところ、『序の舞』は持ち運びに不便そうな単行本しかなかったので、たまたま目についた同じ作家の文庫本を借りてみました。タイトルは『生きてゆく力』というものでした。
帰宅して何気なく本を開いた途端に、私は一気に引き込まれました。
との書き出しで、本書は「赤貧の裏長屋」という一章から始まります。宮尾登美子の父親は「芸妓娼妓紹介業」、つまり女衒でした。
そして、これに続く一章では、「かりそめの家族」と題し、「ここでは戦前我が家で働いてくれていた女性たちについて聞いて頂く」と書き出します。
吸い込まれるように本の世界に没頭していきましたが、ふと、なぜ本の虫だった私が、これまで一度も宮尾登美子を読んでこなかったのだろうかと思いました。
改めて考えてみると、おそらくそれは「なめたらいかんぜよ」というあの一世風靡した夏目雅子のセリフのせいだったのではないかと思い至りました。映画「鬼龍院花子の生涯」が公開されたのは1982年6月、私が大学を卒業し、新卒で就職した年でした。
連日テレビのスイッチを入れれば、あの美しい夏目雅子が、凄みのきいた声で「なめたらいかんぜよ」という映画の宣伝が繰り返し流れていました。ヌードになったというのも大きな話題でした。映画は大ヒットし、同年の興行ベスト7位となり、夏目雅子はブルーリボン主演女優賞も受賞し、この映画をきっかけに原作者の宮尾登美子は人気女流作家として地位を確立していきました。
私は天邪鬼だったので、いかにも大ヒットという映画には見向きもせず「やっぱり映画は単館上映のフランス映画に限るわ」とうそぶいていたように思います。
続く1983年には、同じ五社英雄監督作品の「陽暉楼」が上映されました。こちらは土佐の花柳界を舞台に、女衒役の緒形拳、芸妓役の池上季実子、娼妓役の浅野温子らが熱演し、第7回アカデミー賞の多くの部門にノミネートされ、最優秀監督賞を始め多くの賞を受賞しています。
宣伝文句には、たしか「女の闘い」というようなフレーズが使われており、私自身年頃だったこともあり、芸妓娼妓などの男性の欲望が溢れかえっているような世界に嫌悪感を覚え、再び女優のヌードが大評判になった映画には、大ヒットすればするほど背を向けていったように思います。
さらに、1985年1月には三度五社監督のメガホンで、宮尾登美子原作の「櫂」が上映されました。女衒役に緒形拳、その妻役に十朱幸代、女義太夫役に真行寺君枝、芸妓役に名取裕子などが出演しました。この映画も女優のヌードは大いに話題になっていました。
「そうか、私は、宮尾映画にことごとく背を向けてきたのか」と今さらながらに思い、早速、ネット配信で宮尾登美子原作・五社英雄監督のコンビ作品「高知三部作」つまり「鬼龍院花子の生涯」「陽暉楼」「櫂」を続けて観てみました。若かった頃には抵抗があった、このような映画もこの歳になれば堪能できました。
というより、宮尾登美子の自伝小説『櫂』『春燈』『朱夏』『仁淀川』と『岩伍覚え書』を一刻も早く読みたいという思いが身体の底から突き上げてくるようでした。書店へ行くのももどかしく、すぐに電子書籍で読み始めました。
私が知りたかったのは、宮尾登美子の父親、女衒が活躍していた当時の社会でした。「苦界」とも呼ばれる芸妓娼妓に大切な娘を売らずにはいられないという貧困は、決して遠い昔の話ではありません。私が生まれた1959年の前年に売春防止法によって「赤線」が廃止されるまでは、売春は合法でした。
宮尾登美子の文章を読んでいると、時々「身代金」という言葉が出てきますが、それは誘拐事件に出てくる人質の身代金ではなく、親が娘を売る時に合法的に使われる言葉としての「身代金」なのでした。
宮尾登美子が「赤貧洗うが如し」と表現した裏長屋の人たちの壮絶な暮らしぶりについて、彼女は「父への怨みと憤りのために」書いたという自伝小説『櫂』で、次のように描写しています。
ある日、宮尾登美子がモデルの少女「綾子」の育ての母「貴和」は外から戻って来た夫、つまり綾子の父「岩伍」から裏長屋へすぐ使いに行けと言われます。流行性感冒で親子共寝付いているお巻さんの家へ、家中のありったけの米をすぐさま届けてやれ、というのでした。お巻さんは娘を売ったばかりで貴和は心のどこかにわだかまりを感じていましたが、夫の言いつけに従います。
そして、次のように続きます。
そういえば、私の亡くなった父は大正十三年生まれで、宮尾登美子の二つ上でしたが、父もよく「近頃はもう本当の貧乏人はいなくなった」と言っていたことを思い出しました。私たち子どもに「おまえたちは『貧民窟』というのは知らないだろう。『貧民街』ではない『貧民窟』だ」と言ったこともありました。
2023年7月に公開されたスタジオ・ジブリの映画「君たちはどう生きるか」の原作となった吉野源三郎の同名の書には「貧しき友」という章があり、そこで、主人公のコペル君は、大好きな叔父さんから、次のような言葉が贈られます。
この本の初版は、1937年、つまり昭和12年8月に発表されました。本書の主人公コペル君は中学二年生の(数えの)15歳です。宮尾登美子や私の父とほぼ同世代なのでした。
私は樋口一葉が好きで、40代の頃、一葉の研究者に解説をしていただきながら、一葉のすべての小説を精読したことがありました。一葉の小説の舞台は、昭和初期よりもさらに半世紀ほど前の明治中期ですが、貧しい人々が数多く登場します。代表作『たけくらべ』『にごりえ』を始め、一葉の小説には、苦界に生きる女たちの姿が描き込まれています。
当時のことをもっと知りたいと松原岩五郎著『最暗黒の東京』を手に取って繰り返し読んだのもその頃でした。この本は明治中期の東京下層民の生活実態を克明に記録した歴史的名著です。著者自身が貧民街に潜入し、職業を転々としながら書いたルポルタージュです。本書には「貧民と食物」という章があります。
士官学校の厨房から多くの残飯を貰える時を「豊年」と呼び、ほとんど残飯のない時を「飢饉」と呼び、三日も「飢饉」が続く時には、なんとか嘆願し、ようやく腐敗した残飯や饐えた味噌汁など、豚の餌や畠の肥やしにしかならないような残飯を売るという犯罪もどき行為が書かれています。
最後の「もしも汝らが世界に向かッて大なる眼を開くならば」以降こそが、作者の叫びなのでしょう。「道徳を語り慈善をなすことは、必ずしも道徳・慈善ではない」。ここに女衒をなりわいとした宮尾登美子の父親が重なります。
◇ ◇ ◇
映画を観ながら、自伝四部作を読みながら、私は二十代の頃に宮尾登美子に触れていたら、私自身もう少し違った視点を持って人生を歩んできたかもしれないと感じました。
映画「高知三部作」に出演していた夏目雅子、池上季実子、浅野温子、真行寺君枝、名取裕子らは、ほぼ私と同世代の女優であり、もしあの頃、あの映画を観ていたならば、あの時代、身売りされねば生きていくことさえ叶わなかった芸妓、娼妓に、私ももう少し思いを馳せることができたかもしれないと思いました。
それでも宮尾登美子が父親の残した克明な日記をもとに書き起こした『岩伍覚え書』を読むと、生きるということの壮絶さに言葉を失いました。次の文章は『岩伍覚え書』の第三章「満州往来について」からの抜粋です。
そうかと思えば、同じ「満州往来について」の中に、高村五郎と云う一時期高知法曹界に名を成した弁護士の話が出てきます。その弁舌は豪爽且つ理論に優れ、相手を無理矢理じ伏せる実力を持ち、金も糸目をつけずに使っていましたが、病に倒れ、明日の薬代にも事欠くようになり、遂に、三人の娘の身売り話を岩伍に持ちかけるのでした。
読み進めていくのがここまで息苦しいと感じる文章を、私はこれまで読んだことがあったかと思いました。
◇ ◇ ◇
貧困が圧倒的な暴力のように猛威をふるった時代は終わり、私は今、思い立ったらすぐにネット配信で映画も観られるし、小説も電子書籍をダウンロードして読むことのできる時代に暮らしています。
しかし、おおよそ百年前の日本には、筆舌に尽くしがたい貧困があったのだということを、次の世代にも伝えていきたいと思いました。日々の生活がいかに貴重なものなのか、そして平和がどれほど大切なことなのかを再認識したいと感じました。
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