267.女衒と貧困

先日、友人が宮尾登美子の『序の舞』がおもしろかったと言っていたので、私のような日本画入門者には大家の話が参考になるとも思えないものの、それでもなんらかのご利益を願って近所の図書館へ行ったところ、『序の舞』は持ち運びに不便そうな単行本しかなかったので、たまたま目についた同じ作家の文庫本を借りてみました。タイトルは『生きてゆく力』というものでした。

帰宅して何気なく本を開いた途端に、私は一気に引き込まれました。

私は、生まれは大正十五年四月なので、たった七日しかなかった昭和元年からずっと昭和を生きて来た人間である。

新潮文庫 宮尾登美子著『生きてゆく力』

との書き出しで、本書は「赤貧の裏長屋」という一章から始まります。宮尾登美子の父親は「芸妓娼妓紹介業」、つまり女衒ぜげんでした。

(前略)長い昭和を振り返ってみれば、もろもろの見聞は胸のうちに積もり、これを後続の皆さまに話しておきたいとふと思うこともある。話は、勝手ながら思いつくままに進めさせて頂きたいが、まずは貧しさ。
 貧乏、という言葉は、いまでこそ口にすることが少なくなったが、昭和初年の経済恐慌のころは、命がけのひびきを持った言葉だったといえると思う。
 私がもの心ついたころ、父の職業は「芸妓娼妓紹介業」という、女子を妓楼にあっせんする仕事だった。
 家の職業のため、私がどれだけ苦しんだか、父への怨みと憤りのために作家を志したようなもので、げんに拙著『櫂』、『春燈』などにはその怒りをぶちまけてある。
 しかし、父逝いてすでに五十年余り、世も移り、価値観も変わってみれば、私自身のものの見かたも少しばかり冷静になって来たかという感はある。
 考えてみれば戦前、女が身売りをするのは決して伊達や酔興でなく。親兄弟一家眷族を救うための、ギリギリの選択手段だった。
 私の生まれた高知市緑町の裏側には、その日の米代にも困る人たちが住む棟割長屋が広がっており、その戸数、百軒はあっただろうか。
 いま、景気は低迷しているが、このころの不景気はこんなものではなく、働こうにも職はなく、飢えをしのぐには壁をこわし、その壁土の中に塗り込んである土だらけの藁の切れっぱしを食べた人もあるという。
 当然、疫病にもやられ、猛威を振ったかのスペイン風邪で、長屋からは毎日のように棺が連なって出たという話も聞いた。
 むろん自殺者も少なくなく、誰もやり手のないこの地区の町内会長を進んで引き受けた父におぶわれ、一日、縊死者の家の前まで行った私はそのとき六つ。固く目をつぶっていたはずなのに、何故か、ぶら下がっていた二本の足がいまも瞼に灼きつて離れない。
 こういう状況のなかでは、一家に女の子がいれば唯一の救いとなり、親子別れのつらさよりも一家全員、今日の命の保証があるほうを選択したことは容易に判る。無学な父が、この仕事を「親孝行の手助け」と信じ、となり町から裏長屋を抱えた緑町へと引っ越してきたことも、いまは理解できなくもない。
 当時の福祉行政はまだまだ貧しいものだったし、身を挺して一家を助ける女の子は町内のほめられ者となり、泣きながらも、
「私ひとり、これからは三度のおまんまが食べられることになって、みんなに申し訳ない」と、かえって残る家族を気づかったという、せつない話もある。
 赤貧洗うが如し、の言葉の意味は、何も彼も洗い流したように一物も無いこと、とあるが、たしかに裏長屋の人たちの暮らしは、一間きりの部屋のなかには何もありはしなかった。

新潮文庫 宮尾登美子著『生きてゆく力』「赤貧の裏長屋」

そして、これに続く一章では、「かりそめの家族」と題し、「ここでは戦前我が家で働いてくれていた女性たちについて聞いて頂く」と書き出します。

 (前略)大正も末年のころ、(引用者註:宮尾登美子の)父が取引先の新地遊廓からの帰りみち、桟橋に近い道を通りかかると、ただごとではないと思われるほどの大声で泣く子供の声が聞こえてくる。
 近寄ると、十二、三くらいに見える女の子を、男たちが押さえつけ、無理矢理、船に乗せようとするところでした。そのうちの一人にわけを聞くと、この子の生肝いきぎもを取って六神丸という薬屋に売りつけるのだという。
 父の懐には取引のあとの円札があり、十円という大枚を出してその子をもらい受け、うちに連れ帰って来たのが、はじまりだったとか。
 苦労したのは母で、髪の毛は鳥の巣、衣服はボロ切れ、目鼻も判らぬほど真っ黒に汚れた子を、風呂に入らせ、蒲団に寝かせ、茶碗に飯をよそって食事をさせる習慣をつけるだけで、あたしはげっそりと痩せたよ、とのちに母がいうのを聞いた。
 何しろ両親の名はむろん、自分の名も知らなければ戸籍などありようがなく、とするとこの子がいったい何歳なのか、うち中、困り果てたという。
 しかし、大正末の地方都市では、何とか都合がついたのか、私の家の戸籍には、養女としてちゃんと入籍しており、名前は秋の季節だったから菊、と父がつけ、そして年は、となるとその時十六歳だった私の兄、健太郎よりは二つ下にしよう、と皆で決めたのだった。
 菊は、そのうち私の家の暮らしにも徐々に馴れ、のちに語る絹とともに、私の子守から家事万端、よくやってくれたと思う。
 いってみれば浮浪者だった菊や絹が、私の家の一員となったことについて、町内大きな話題となったかと言えばさにあらず、二人ともまことにすんなりと家の雰囲気にとけこんでいったらしい。
 これは当時の世相では、乞食や行き倒れ、もの乞いの遍路などはべつに珍しくはなく、篤志家の家ではそういう人たちを気楽に拾いあげていたし、私の家の男衆おとこつさんのなかにも、こんな経緯を辿って居ついてしまった人も他にあった。

新潮文庫 宮尾登美子著『生きてゆく力』

吸い込まれるように本の世界に没頭していきましたが、ふと、なぜ本の虫だった私が、これまで一度も宮尾登美子を読んでこなかったのだろうかと思いました。

改めて考えてみると、おそらくそれは「なめたらいかんぜよ」というあの一世風靡した夏目雅子のセリフのせいだったのではないかと思い至りました。映画「鬼龍院花子の生涯」が公開されたのは1982年6月、私が大学を卒業し、新卒で就職した年でした。

連日テレビのスイッチを入れれば、あの美しい夏目雅子が、凄みのきいた声で「なめたらいかんぜよ」という映画の宣伝が繰り返し流れていました。ヌードになったというのも大きな話題でした。映画は大ヒットし、同年の興行ベスト7位となり、夏目雅子はブルーリボン主演女優賞も受賞し、この映画をきっかけに原作者の宮尾登美子は人気女流作家として地位を確立していきました。

私は天邪鬼だったので、いかにも大ヒットという映画には見向きもせず「やっぱり映画は単館上映のフランス映画に限るわ」とうそぶいていたように思います。

続く1983年には、同じ五社英雄監督作品の「陽暉楼」が上映されました。こちらは土佐の花柳界を舞台に、女衒役の緒形拳、芸妓役の池上季実子、娼妓役の浅野温子らが熱演し、第7回アカデミー賞の多くの部門にノミネートされ、最優秀監督賞を始め多くの賞を受賞しています。

宣伝文句には、たしか「女の闘い」というようなフレーズが使われており、私自身年頃だったこともあり、芸妓娼妓などの男性の欲望が溢れかえっているような世界に嫌悪感を覚え、再び女優のヌードが大評判になった映画には、大ヒットすればするほど背を向けていったように思います。

さらに、1985年1月には三度五社監督のメガホンで、宮尾登美子原作の「櫂」が上映されました。女衒役に緒形拳、その妻役に十朱幸代、女義太夫役に真行寺君枝、芸妓役に名取裕子などが出演しました。この映画も女優のヌードは大いに話題になっていました。

「そうか、私は、宮尾映画にことごとく背を向けてきたのか」と今さらながらに思い、早速、ネット配信で宮尾登美子原作・五社英雄監督のコンビ作品「高知三部作」つまり「鬼龍院花子の生涯」「陽暉楼」「櫂」を続けて観てみました。若かった頃には抵抗があった、このような映画もこの歳になれば堪能できました。

というより、宮尾登美子の自伝小説『櫂』『春燈』『朱夏』『仁淀川』と『岩伍覚え書』を一刻も早く読みたいという思いが身体の底から突き上げてくるようでした。書店へ行くのももどかしく、すぐに電子書籍で読み始めました。

私が知りたかったのは、宮尾登美子の父親、女衒が活躍していた当時の社会でした。「苦界」とも呼ばれる芸妓娼妓に大切な娘を売らずにはいられないという貧困は、決して遠い昔の話ではありません。私が生まれた1959年の前年に売春防止法によって「赤線」が廃止されるまでは、売春は合法でした。

宮尾登美子の文章を読んでいると、時々「身代金」という言葉が出てきますが、それは誘拐事件に出てくる人質の身代金ではなく、親が娘を売る時に合法的に使われる言葉としての「身代金」なのでした。

宮尾登美子が「赤貧洗うが如し」と表現した裏長屋の人たちの壮絶な暮らしぶりについて、彼女は「父への怨みと憤りのために」書いたという自伝小説『櫂』で、次のように描写しています。

 ある日、宮尾登美子がモデルの少女「綾子」の育ての母「貴和きわ」は外から戻って来た夫、つまり綾子の父「岩伍」から裏長屋へすぐ使いに行けと言われます。流行性感冒で親子共寝付いているお巻さんの家へ、家中のありったけの米をすぐさま届けてやれ、というのでした。お巻さんは娘を売ったばかりで貴和は心のどこかにわだかまりを感じていましたが、夫の言いつけに従います。

 溝を跨ぐと、そこからもう長屋は始まっている。除けて通ったつもりでも汚水の溜りは至る所にあって、喜和きわの別珍の色足袋の裏も日和下駄の鼻緒ももうじっとりと湿っていた。
 長屋の真中と見える小広い場所に掩いのない低い井戸があり、その廻りでものを洗っていた女がふうっとこちら向いたのを見て、喜和は思わず持っていた味噌漉しを取落しそうになった。顔がずるりと真白ののっぺらぼう……と見たのはいちめん腫物が吹いているせいらしく、額に掛かっている髪も枯草のように薄く宙になびいている。いつか安岡の姐さんがいっていた、「裏の女子」とはこの人の事だったのか、と喜和はこちらから目を伏せた。
 長い棟割長屋は、この野天井戸を中心にして拡がっているらしく、低い軒が乱杭歯のように黒く不揃いに奥の方へ重なり合っている。この長屋には、いったい人が居るのか居らんのか、と喜和は思った。葬式のときのように、沈んだうちにもざわざわした気配が感じられるとも思うし、大風の後のようながらんどうの空ろさも感じられる。
 見廻すと、野天井戸の脇の雨曝しになっている壊れた車力の蔭には、綿が簾のようにはみ出しているそうたを着た年寄りが風を除けて蹲っているし、破れた家の雨戸に背中をくっつけたままずり落ちた、という恰好で、じゅくじゅくに草履を濡らした子供達がいる。子供達は男も女も下に猿股も腰巻も着けておらず、拡げた前を露わに見せて何の恥らいも感じないらしい。人が通っても目も動かさない子供達を薄気味悪いと思いながらも、一方では、米を提げた喜和が通ってゆくのを、低い軒の重なり合った暗い奥から、数え切れないほど沢山の光った目がじいっと窺っているようにも思える。
 喜和は思わず襟元を搔き合わせた。
 自分でも知らないうちに前掛の端で鼻と口を掩っている。この狭い家々に溢れるほど人が居ると思えるのに、それがちっとも賑やかでないというのはどういう事だろうか。流行性感冒のせいなのだろうか。そういえば空の竹筒を吹くような咳があちこちから聞えて来る。その声が地の底に浸み透っていくようにも、また広い野原を吹き過ぎてゆく風のようにも、寂しく不気味に聞かれるのであった。  お巻さん家は、一番奥の棟のその一番奥の端じゃと岩伍に聞いていた通り、喜和は暗い路地を搔い潜るようにしてその棟に取付き、足を踏入れてみて、 「これが、まあ」と、思った。
 野天井戸から此処まで、通りすがりに目を止めた家はどれもさんざんに破れてはいるけれど雨戸や障子を閉めていたのに、この棟の家は皆、入口を掩う戸も障子も無いのである。破れ果てた夏の簾を吊下げてあるのはいい方で、多くは通路から一間限りの家の隅々まで見え渡り、その一間には大抵落ちた壁に身を寄せて、こんもりと襤褸を盛り上げたように人間が一人二人臥っている。通路の片側の、前の棟の裏に当る場所には、各家毎に荒土で築いた竈と便壺とが一尺と離れず並んでおり、その便壺にも竈にも蓋も掩いもないのであった。
「此処の人らはまあ、雨でも降ったらどうするつもりやろう?」
 と喜和は思ったが、雨が降らなくても、ずらりと奥まで並んでいる便壺はどれももういっぱいになっているのであった。
 喜和が息を詰めている目の前で、そのとき、一軒の門口から病み呆けているらしい老婆がよろよろしながら出て来たが、そこに立っている喜和に目をくれる気力もないのか、真直ぐ便壺の前に進んで行って、足を踏んばり用便の構えになった。便壺の傍の竈には真黒な鋳物鍋が掛かっており、その下には枯れた小枝が白く枝なりに灰を残して通路にまで燃え退っている。
 老婆は、年寄りらしい力ない小水の音をたてると、大儀そうに竈の下の火を繕ってからまた家の中へ蹌踉けながら入って行った。
 喜和は、裏の姐さんには思わず目を伏せたけれど、今度はその場に釘付けになったまま、きっかり目を瞠いていた。
 蟇痣のいっぱい浮いた、痩せた老婆の足のあいだから滴のように断続して落ちる小水、滴はその下の溢れた便壺から四方へ飛び散り、煮物の鍋にも細かいしぶきになって降りかかった。用の終り、たらたらと老婆の腿から脛を伝わった小水は、便壺から溢れ出た溜りの汚水に流れ込み、狭い通路を大雨の後のように濡らしている。老婆が紙の代りに尻を振って着物を下ろしたとき、垂れた股の肉が縮緬の袖を振るように小刻みに震えたことや、老婆がそのままの手で小枝を竈の奥へ突っ込み、さらには小水の散りかかった鍋の木蓋を摘んで、その丸い縁で鍋の中の煮物を均らしたことや、通路を引摺って入る老婆の、べっとり濡れた着物の裾が若布のように裂け千切れていたことなど、それらのひとつひとつが退引ならぬしたたかさでもって、喜和は自分の目の中に打込まれる思いがした。
 こういう場所で、一升の米を抱えている事の重大さに喜和は強い眩暈を覚えた。頭の中がひどく乱れていて、いま自分がどうして此処に立っているかという理由でさえ判らなくなってしまいそうであった。判っているのは、この病み窶れた老婆を見た以上、ここを素通りにして奥へ通ることは出来ぬという自分自身の切羽詰った思いであり、手の中の米はそっくり、先ずこの老婆に恵んでやるべきだという声が、何処からか確かに喜和の耳に聞えて来る。
 それはしかし、喜和にとっては恐しく勇気の要る所業であった。老婆の家はこの棟のほんの取付きであり、土の竈と便壺は交互に並んで遥か奥までずっと続いている。この老婆のような死の近い病人はまだまだいるに違いないし、病人でなくとも飢えの為に起き上れない人たちでさえ、数えれば仰山な数になることであろう。喜和が米の味噌漉しを老婆の枕許に置いたが最後、この棟とはいわず、長屋中の病み飢えている人間たちがどっと押寄せ、喜和はその争奪の元を作った張本人として皆に打ち殺されてしまうかも知れぬ。そう思うと、喜和の頭の中を不意に、炎に巻かれた餓鬼道地獄の赤い絵が恐怖を誘いながらちらちらと通り過ぎていった。
 大勢の怒声はいま喜和の廻りを身動きならず取巻いていた。
 病人は今、一握りの米があれば粥に炊いて生き上る事が出来る、それじゃのに、此処へ一升もの米を提げて何故見せびらかしに来た、と据えられているその片方の耳では、長屋四十軒、口は百六、七十人、それにたった一升の米を惜しそうに持って、ようも手柄顔に来たものよ、と高く嘲っている喚き声もおんおんと聞えて来る。
 米を今、欲しがっている人は此処ではあんまり多過ぎる、と喜和は思った。それに較べ、小さな味噌漉しの中の米はどうしようもなく余りに少な過ぎるのであった。
 喜和は見えないものに向って宥め賺すように片手を上げながら、「遁げるがじゃない、遁げるがじゃない」と胸で繰返し、少しずつ後退りしていた。
 ここで退くのは後めたく思えたが、前へ進むのは堪らなく恐かった。身一つならともかく、僅かでも米を持っている体でこれ以上踏出せば、きっと何かが起るに違いないと思われた。味噌漉しは前掛の下に隠してはいても、長屋中の米を見透す目の鋭さはそんな事で誤魔化し切れるものではない。
 喜和はとうとう、「遁げてはいかん」という制止の声を振り切って、次には小走りに走り出していた。この場所に居れば居るだけ恐さが増して来るようで、汚水の溜りを避ける余裕もないほどにせき急ぎ、躓きながらやっと家へ戻り着いてみると着物の裾からは雫が垂れているのであった。
 喜和は上り端に浅く腰を下ろし、続けざまに幾度も大きい呼吸をした。
 ああいう光景を見たのは生れて初めてであった。考えなければならない事がいっぱいあり、頭も胸も詰まって膨れ上っているのに、考えるよりも先に、あの小水の散り掛かった鍋の中の煮物の汁を老婆が啜っているさまや、腐れ魚のような目をして車力の蔭に蹲っていた年寄りや、屋根の杉皮が朽ちて黒い蔓草のように軒に垂れている長屋の様子が思いに迫って来る。
 裏長屋のあの貧乏は、スペイン感冒が流行る前からの定めし念の入ったものじゃに違いない、と喜和は思った。感冒で寝込んでしまって仕事に出られず、その為に忽ち食うに困るのは判るけれど、裏長屋の貧乏のさまは今日や昨日の底の浅いものではないように見える。乞食や遍路の貧乏は流れ者の気楽さがあるが、あの長屋には、野天の竈とそれに並んだ小便桶が執拗く何処までも付いて廻る、暮しという重石を背負っている。背負ったまま逃げもならず、食うや食わずで過している所へ、今度のような獰猛な流行性感冒に狙い打ちされては、長屋全体、一たまりもなかった事であろう。長屋を包んでいる葬式の通夜のようなあの暗い静まりも、手段の尽きた挙句の諦めかも知れず、そう思えば喜和にも頷けるのであった。
 それにしても喜和は、あの場所で何故、息も詰まるほどの恐怖に襲われたかをつくづくと思い返してみるのであった。あのとき喜和は餓鬼道の幻に怯えたけれど、考えてみれば喜和に向って誰一人、味噌漉しの米を迫って来たわけではない。米どころか老婆は喜和など見向きもしなかったし、野天井戸の廻りの人も子供達でさえも、表通りから入って来た喜和に目を動かしもしなかった。
「それじゃ。恐いのはあの、しぶといほどの落着きざまじゃ」
 と喜和は思った。
 それは、長い貧乏を引摺り、積み上げて来たどん底の人間たちだけが持っている、ぎりぎりの地力とでもいうものでもあろうか。
 破れ天井から青天が覗けようと、小水の掛かった煮物を食おうと、雨の日は煮炊きが出来なかろうと、明日の米が無かろうと、死ぬまでは生きている式の図太い性根をあの連中は持っている。焦ってもどうしようもならぬ諦めともいえるかも知れないけれど、あの静まり返った不気味な落着き様は、これまで喜和の経て来た上っ面の貧乏感に威しをかけるに充分なものであった。

宮尾登美子 電子全集1『櫂/岩伍覚え書』「櫂」

そして、次のように続きます。

 灯点し前、やっと風の凪いだ外から岩伍が帰ると 「長屋のお巻さん親子は、とうとう、よう助からざったよ」 と沈んだ声音で喜和に告げた。(中略)
「男の子が先に死に、それを抱いてお巻さんは半日くらいは生きておったらしい。 ふたありとも、骨と皮ばっかりに痩せさらばえてのう」(中略)
 今日昼間、あの米を真直ぐに届けていたら、そのときお巻さんはまだ生きていたのではあるまいか、と思う。喜和に死を止どめる力はないにしても、最後のいい置きくらいは聞いてやれたのではないかという気もする。(中略)
 あれほどに底を突いた貧乏を自分が知らなかった迂闊さを心のうちでお巻さんに詫びた。

宮尾登美子 電子全集1『櫂/岩伍覚え書』「櫂」

そういえば、私の亡くなった父は大正十三年生まれで、宮尾登美子の二つ上でしたが、父もよく「近頃はもう本当の貧乏人はいなくなった」と言っていたことを思い出しました。私たち子どもに「おまえたちは『貧民窟』というのは知らないだろう。『貧民街』ではない『貧民窟』だ」と言ったこともありました。

2023年7月に公開されたスタジオ・ジブリの映画「君たちはどう生きるか」の原作となった吉野源三郎の同名の書には「貧しき友」という章があり、そこで、主人公のコペル君は、大好きな叔父さんから、次のような言葉が贈られます。

「貧しい人々をさげすむ心持なんか、今の君にさらさらないということは、僕も知っている。しかし、その心持を、大人になっても変わらずに持ちつづけることが、どんなに大切なことであるか、それはまだ君には分っていない。だが、僕はこの機会に、その大切さを君に知ってもらいたいと思う。(中略)—— いいか、よく覚えておきたまえ、—— 今の世の中で、大多数を占めている人々は貧乏な人々だからだ。そして、大多数の人々が人間らしい暮らしが出来ないでいるということが、僕たちの時代で、何よりも大きな問題となっているからだ」

岩波文庫 吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』

この本の初版は、1937年、つまり昭和12年8月に発表されました。本書の主人公コペル君は中学二年生の(数えの)15歳です。宮尾登美子や私の父とほぼ同世代なのでした。

私は樋口一葉が好きで、40代の頃、一葉の研究者に解説をしていただきながら、一葉のすべての小説を精読したことがありました。一葉の小説の舞台は、昭和初期よりもさらに半世紀ほど前の明治中期ですが、貧しい人々が数多く登場します。代表作『たけくらべ』『にごりえ』を始め、一葉の小説には、苦界に生きる女たちの姿が描き込まれています。

当時のことをもっと知りたいと松原岩五郎著『最暗黒の東京』を手に取って繰り返し読んだのもその頃でした。この本は明治中期の東京下層民の生活実態を克明に記録した歴史的名著です。著者自身が貧民街に潜入し、職業を転々としながら書いたルポルタージュです。本書には「貧民と食物」という章があります。

 貧民の群れが、いかに残飯を喜びしよ、しかして、これを運搬する予がいかに彼らに歓迎されしよ。夜は常にこの歓迎にむくゆべく、あらゆる手段をめぐらして、庖厨を捜し、なるべく多くの残物を運びて彼らに分配せん事を務めたりき。しかれどもまた哀しかりき、或る朝、そこに(士官学校の庖厨)運搬すべき残物の何にもあらざりし時に。しかれどもまた嬉しかりき、或夕そこに飯および菜を以て剰されたる新しき残物が、三輌の荷車に余るべく積れし時に。しかして予は常もこれらの潤沢を表する時にこれを「豊年」呼び、常もこれらの払底を表する時に、予が「饑饉」と呼びて、食物について渇望したる彼らに向ッて前触をするにありき。
 或る朝、——それは三日間一ポンドの飯をも運ぶ事能わざりし事程左様に哀れなる飢饉の打続き或る朝——庖厨を捜して運ぶべく何物があらざりし時に予が大なる失望を以て立ちし、いかに貧民の嘆きを見せしむるよ。しかれども予は空しく帰らざりし、予は些かの食物を争うべく、賄方に向かって歎願を始めし。「今日に限ッて、貧民を飢えしめざる部屋頭閣下、ねがわくば彼の麵包パンの屑にても」。しかる時に彼が言いし、「もしも汝がさほどに乞うならば、そこに豚の食うべき餡殻と畠を肥すべく適当なる馬鈴薯の屑が後刻に来るべく塵芥屋を待ちつつある」と。予がそれを見し時に、それは薯類を以て製せられたる餡のやや腐敗して酸味を帯びたるものと、洗いたる釜底の飯とおよび搾りたる味噌汁の滓にてありき。たとえこれが人に向ッて食すべき物にあらぬとはいえ、数日間の飢に向かッては、これが多少の饗応となるべく注意を以てそこにありし総てを運び去りし。
 かくして、予が帰りし時に飢えたる人々は、非常なる歓娯を以て迎えし。(中略)
 ああ、いかにこれが話説すべく奇態の事実でありしよ。予は予が心において残飯を売る事のそれが慥かに人命救助の一つであるべく、予をして小さき慈善家と思わせし。しかるに、これが時としては腐れたる飯、あざれたる味噌、すなわち豚の食物および畠の食物を以て銭を取るべく不応為を犯すのを余儀なき場合に陥入らしめたり。もしも汝らが世界に向かッて大なる眼を開くならば、彼の貧民救済を唱えて音楽を鳴らす処の人、または慈恵を名目として幟を樹つる所の尊き人々らの、常に道徳を語りまた慈善をなす事のそれが必らずしも道徳、慈善であらぬかを見るであろう。

岩波文庫 松原岩五郎著『最暗黒の東京』

士官学校の厨房から多くの残飯を貰える時を「豊年」と呼び、ほとんど残飯のない時を「飢饉」と呼び、三日も「飢饉」が続く時には、なんとか嘆願し、ようやく腐敗した残飯やえた味噌汁など、豚の餌や畠の肥やしにしかならないような残飯を売るという犯罪もどき行為が書かれています。

最後の「もしも汝らが世界に向かッて大なる眼を開くならば」以降こそが、作者の叫びなのでしょう。「道徳を語り慈善をなすことは、必ずしも道徳・慈善ではない」。ここに女衒をなりわいとした宮尾登美子の父親が重なります。

◇ ◇ ◇

映画を観ながら、自伝四部作を読みながら、私は二十代の頃に宮尾登美子に触れていたら、私自身もう少し違った視点を持って人生を歩んできたかもしれないと感じました。

映画「高知三部作」に出演していた夏目雅子、池上季実子、浅野温子、真行寺君枝、名取裕子らは、ほぼ私と同世代の女優であり、もしあの頃、あの映画を観ていたならば、あの時代、身売りされねば生きていくことさえ叶わなかった芸妓、娼妓に、私ももう少し思いを馳せることができたかもしれないと思いました。

それでも宮尾登美子が父親の残した克明な日記をもとに書き起こした『岩伍覚え書』を読むと、生きるということの壮絶さに言葉を失いました。次の文章は『岩伍覚え書』の第三章「満州往来について」からの抜粋です。

 こう云う話は固く伏せられておりますものの、先日も紹介人組合の寄り合いの席上、最近除隊となった一人の口から、聞くも無慙なその実態が伝えられ、この道四十年の私でさえ今更のように怖気を振ったもので御座いました。戦地では勇猛果敢な兵ほどまた欲望も強いと云われますが、これを放置しておけば現地住民の女たちに暴行を働くと云う状況となる故に、軍も目を瞑ってもぐり業者の暗躍を許しているとか、ま、ここまでは男の正気で聞くことが出来ても問題はその数と花柳病の処置なので御座います。この慰安婦を買うについては兵隊は朝から蜿々長蛇の列、一人三分から五分の所要時間で交替だと申しますがそれもその筈、おおよそ一個大隊に慰安婦は十人前後しか居りません故に、一人の女が取る客数は一日百人近いものと云う、常識を遥かに超えた過酷な労働なのであります。こうなると女は一日中仰臥したまま起上る暇とてなく、小水は垂れ流し、飯は飯どきになればここを取仕切る業者が握り飯を作って女の口に放り込んでゆくと云う有様でも勿論病気に対しても予防措置を講ずる余裕さえないのであります。第一病気よりも女の躰がぶっ毀れるのが先かも知れず、日本の女でこういう荒い勤めに応じられるのは酌婦としての経験者か、飛び切り頑健な躰の仕組みを持っているものでなければ死を早めるのは必定であり、且つまた、部屋仕切りは粗いアンペラ一枚と云う、畜生の交尾にも似た有様では神経からしてずい分まいるのではありますまいか。この男が接した女と云うのは、どうやら故郷の母親を思わすほどの年齢で、その上鼠蹊部に大きな性病の切開痕があったと云いますから、この女たちが慰安婦となるまでにはどんな生き方をしてきたか、自ら知れようと云うもので御座います。

宮尾登美子 電子全集1『櫂/岩伍覚え書』「満州往来について」

そうかと思えば、同じ「満州往来について」の中に、高村五郎と云う一時期高知法曹界に名を成した弁護士の話が出てきます。その弁舌は豪爽且つ理論に優れ、相手を無理矢理じ伏せる実力を持ち、金も糸目をつけずに使っていましたが、病に倒れ、明日の薬代にも事欠くようになり、遂に、三人の娘の身売り話を岩伍に持ちかけるのでした。

 一家の大黒柱が倒れれば家族がたちまち困り娘を身売りさせる話は格段驚いたものでもありませんが、この家は使いに寄越した先夜の書生まで使っているような上流家庭であることを思えば、私ごときのものになぜ相談を掛けてきたか、これはちょっと首をかしげたくなるような話なのであります。(中略)
 私、こんなふうに云えば、僻みと受け取られましょうが、そもそもこの仕事に足を踏み入れたのは文無しの貧乏人に肩を貸してやりたさ一心で、他に別心とて無い男であります。それ故にこそ、この世の地獄とも思える場所に已むなく妓供を送り込みはしても、一日も早く引上げてやるために微力を尽くしております故に、云うなれば、裏長屋の娘たちの専売特許のようなところへ、書生まで使っている上流階級の令嬢が割り込んでくるのは少々理不尽のような感じがしたもので御座います。
 で、私、苦界の辛さを諄々と説き、他に水商売以外の心当たりがあればそちらを頼った方が得策である事を申しますと夫人はいっそう頭を垂れ、顔も上げぬままに打ち明けますには、家はすぐに二重抵当に入っており、相談相手とて皆目なく、行き詰まった挙句娘たちを手離すの思いついたのは、病人の主であったと云うのでした(中略)
 私、この夜は取りあえず三人(引用者注:の娘)に向かい、親を助けるための身売りは何ら恥ずるところない事と、苦界と云えども心掛け次第で出世も叶う事とを繰返し云い渡し、万事引受けたからには何分の連絡を待つようにと安心させて帰したので御座います。(中略)
 顔見世が終わるなり、粂原君は、金歯を光らせっぱなしの日本晴れで、
「富田君、これこそ儂が欲しかった第一玉乃尾打ってつけの看板芸妓よ。高級将校向けにはああ云う女学校出でなけりゃたんきにのう。才色兼備の美人姉妹と云う事で、鉦太鼓で宣伝して大いに稼いでもらおうじゃないか」
 と早くも三人を玉に見立てて胸算用し、それを聞く私の耳には、さきほど高村家で聞いた、
「お母様、文鳥にお水をやってもよろしいでしょうか」と云う、いとも優美な末さんの声がまだ哀れにこだまを引いていたので御座いました。

宮尾登美子 電子全集1『櫂/岩伍覚え書』「満州往来について」

読み進めていくのがここまで息苦しいと感じる文章を、私はこれまで読んだことがあったかと思いました。

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貧困が圧倒的な暴力のように猛威をふるった時代は終わり、私は今、思い立ったらすぐにネット配信で映画も観られるし、小説も電子書籍をダウンロードして読むことのできる時代に暮らしています。

しかし、おおよそ百年前の日本には、筆舌に尽くしがたい貧困があったのだということを、次の世代にも伝えていきたいと思いました。日々の生活がいかに貴重なものなのか、そして平和がどれほど大切なことなのかを再認識したいと感じました。


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