221.ボヘミアンラプソディ
先日、2021年6月10日(木)22:00からNHK Eテレで放送された「CLASSIC TV」という番組は副題は「QUEEN x Classic」でした。
ゲストの一人としてオペラ歌手の錦織健が登場しました。そこで彼は「私、発表したい意見があります」と言って、ボヘミアンラプソディにおける彼の持論を展開したのです。それは「実は、中間部のオペラ・パートはあるオペラの場面を参考にした、あるいはパロディにしたのではないか」という見解でした。
そのオペラというのは、歌劇「ナクソク島のアリアドネ」(Ariadne auf Naxos)1916年 リヒャルト・シュトラウス作曲という作品です。
彼の説によれば、冒頭に掲げた歌詞に入る前から、つまり歌手が浪々と歌っているところとフレディが浪々と歌っているところ、それに続くオーボエのソロとブライアンのギターソロ、そしてそのソロが終わったところで、チャンチャンチャンチャン…と冒頭の部分が始まるところなどがオペラとの対比を想起させるものだというのです。
さらに、オペラのこの場面で出てくる男の人たちの中のひとりは、イタリア語でスカラムーチョという人物なのだと紹介されます。
「きっとフレディが『ナクソス島のアリアドネ』を見て、悩んでいるところに色々現実からトリップして、なぜか人が現れ「楽しくやろう」という場面で、その印象が強くて参考にしたかパロディにしたのではないか」というものでした。
番組の進行役の清塚信也は「ラプソディ(狂詩曲)とは自由奔放な形式で、きままに叙事的な内容が描かれるもので、ボヘミアンラプソディはクラシックよりもむしろちゃんとラプソディ感を出している曲なのではないか」と言い、「まず形式にとらわれない、本当に物語性というかオペラを観たインスピレーションから湧いてきたアイデアなのかもしれない」と述べました。
番組では実際にメトロポリタンオペラによる上演の一場面が放送され、その類似性を確認することができました。錦織健が最後に「私は今日この説を発表しに伺いました」と述べた時、私は思わず画面に向かって拍手していました。私は長年の疑問というか謎が一気に解けたようで、心底感銘を受けました。心の奥底でこの種明かしをフレディが亡くなって三十年ずっと待っていたように思いました。
本番組は、6月17日(木)午前10:25にも再放送が予定されています。
1976年3月31日@武道館
私が初めてQUEENを知ったのは1975年、高校生のときでした。1975年4月17日に初来日したクイーンは、日本中に旋風を巻き起こしました。私は当時大ヒットした「キラー・クイーン」に心を奪われ、ミュージック・ライフ誌を片手にクイーンの大ファンになりました。このことは以前にも書いたことがあります(051.軍歌とユーミン)。
私にとって忘れられないアルバムは「オペラ座の夜」で、何度も何度も、もう擦り切れてしまうのではないかと思うほど、繰り返しレコードを聴きました。中でもボヘミアンラプソディは、その部分だけレコードが凹んでしまうのではないかと真面目に心配するほどでした。
そして、新聞の社会面の一番下にあった広告を見て、二度目の来日のチケットを手に入れた時の喜びは今尚忘れることができません。1976年3月31日の武道館のチケットでした。
当時、高校のクラスの仲間たちは、男子も女子もレッドツェッペリンやディープパープルなどのハードロックで盛り上がっていましたが、クイーンを初めて耳にして以来、私の胸はフレディの歌声と音楽性に鷲掴みにされたのでした。
しかし、クラスの男子たちは「なんだあんな女みたいなヘナチョコバンド」とか「ベイシティ・ローラーズと同じで音楽性も何もないよ」などと散々な貶(けな)しようで、それまでみんなで仲良くハードロックについて語り合っていた仲間に見えない亀裂が入りました。
私はクイーンが初来日した時には全然知らなくて、日本の女性ファンによってクイーン人気に火がついたと知って、その最初のファンになれなかったことを残念に思っていました。それでも男子の中傷を無視して、クイーンファンに突き進むことを決意したのでした。時代を超えるバンドになるに違いないという予感がありました。
ところが肝心の武道館ですが、チケットを手に入れた時の高揚感、武道館に行くまでの道のり、初めて見る江戸城の橋を渡る時のドキドキ感、なぜ武道館はコンサート会場なのに武道館と呼ぶのだろうかという疑問など、まるで昨日のことのようによく覚えています。しかし、コンサート自体の記憶となると霧がかかったようによく思い出すことができません。
私の席は、ステージに向かって右側のほぼステージ横でした。二階席だったのでフレディやブライアンを斜め上から見下ろすような席でした。もう少し手を伸ばせば、フレディに触れられそうな席でした。
コンサートは確かボヘミアンラプソディから始まったように思いますが、よく思い出せません。ぼんやりした記憶の底を探ると、ボヘミアンラプソディは実際にコンサートホールで聴くよりもレコードの方が良かったと感じたことを思い出します。
どうしてよく思い出せないかというと、興奮のあまり舞い上がってしまい、一緒に行った友人たちと声を限りに叫び続けていたからではないかと思います。高校一年生が終わる日でした。
1991年11月24日フレディ死去
武道館で叫び声を上げてから15年後、私もすっかり大人になり、もはやロックもクイーンも聴くことはなくなり、仕事に精を出す日々を送っていたある日のことでした。私は三十代になっていました。
仕事が終わって、先輩と同僚と会社の近くの喫茶店で話をしていた時のことです。その喫茶店ではFM放送がBGM代わりに流れていました。私たちは聞くともなしにFMを耳にしながら話をしていました。
するとFMラジオのアナウンサーが「昨日、英国のロックバンドクイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーが死去しました。死因はエイズと伝えられています」とニュースを読み上げたのです。思わず耳をそばだててそのニュースを聞いていると、「それでは追悼曲としてボヘミアンラプソディをお届けします」と言って曲が始まりました。
曲が流れ始めた途端、私の両目から涙が噴き出しました。自分でもびっくりするくらい止めどなく涙が溢れ、嗚咽を漏らすほどでした。先輩も同僚も呆気にとられていました。涙に霞む目の前には、武道館での袖に白いヒラヒラを付けたフレディの姿が浮かび、当時はしゃいでいた私たちの姿が浮かんでいました。
1998年6月27日@神奈川県民会館
私は子どもの頃からバレエが好きで、たくさんのバレエを観てきました(067.白鳥の湖)。数多く見てきたバレエの中でも私の心を掴んで離さなかったバレエに、振付家モーリス・ベジャールよる一連のバレエがありました。
1982年10月14日に、当時「ベルギー国立20世紀バレエ団」として来日し、 「ベジャールのすべて」を観た時、私は人生でも数えるほどの衝撃を受け、以来、ベジャールのバレエ団が来日する時には欠かさず劇場に足を運んできました。できるだけ初日のチケットを取り、感動したら、その後の公演すべてになけなしのお金をはたいて通ったものでした。
そのベジャールが、フレディ・マーキュリーと、ベジャール作品でカリスマ的な存在感を放ったダンサーのジョルジュ・ドンの、同時期にともに45歳で亡くなったふたりのアーティストへのオマージュとして作った作品が「バレエ・フォー・ライフ」でした。
この作品は、数々のクイーンの曲とモーツァルトの曲に振付をし、衣装はベルサーチが担当しました。初演は1997年で、パリのシャイヨー劇場だったそうです。日本では翌年1998年に横浜と東京で初演され、2002年、2006年、2008年と、これまで4度に渡って上演されてきました。
もちろん毎回私は劇場へ赴き、その度ごとに二度三度繰り返し観に行きました。劇場の前の方で、ダンサーのほとばしる汗を浴びる間近な席でも観たかったし、後ろの方から全体像も見たかったし、二階席から鳥瞰するようにも観たいとも思いました。
このとろけるようなバレエを観るたびに、私は「永遠」を感じます。そこにあるのはただ「美そのもの」という不思議な感覚にとらわれます。すべての時間が止まり、美の時空に浮かんでいるような気持ちになるのです。
VHSが発売されてからは、家でも繰り返し観ました。フレディの声とクイーンサウンドに合わせて、ベジャールバレエ団のダンサーが踊るバレエとは、私にとって宝物以外の何物でもありませんでした。DVDも購入しました。
2020年、昨年の来日公演もとても楽しみにしていましたが、昨今の社会事情で公演中止になってしまったのは残念でなりませんでした。
2000年の誕生日プレゼント
結婚して数年が経ち、夫に「お誕生日のプレゼントに何が欲しい?」と聞かれた時、「クイーンのビデオが欲しい」と言って、神保町で、その頃販売されていたクイーンのVHSをすべて買ってもらったことがありました。
夫は、「え? クイーン? あのベーシティ・ローラーズみたいな?」という、かつての高校の同級生のような反応をしましたが、実際にビデオを見始めたら、誰へのプレゼントかわからないほど、毎晩夜遅くまで夢中になって観るようになりました。
ひとり密かに宝物にしていた「バレエ・フォー・ライフ」のビデオも見せたら、私よりも夢中になって画面に食い入るように見つめていました。
2005年10月26日@さいたまアリーナ
2005年になってポール・ロジャースがクイーンのボーカルとして来日するというので、さいたまスーパーアリーナに出かけました。フレディ亡き後ジョンも引退し、ブライアンとロジャーとポールの三人での公演でしたが、懐かしく一緒に声を張り上げて歌いました。
それでも、フレディの声でないとクイーンだとは思えないのだと再認識して帰途につきました。時の流れは残酷でした。
2018年11月9日@六本木
映画「ボヘミアン・ラプソディー」が公開されました。普段は公開初日に映画に行くことなどない私ですが、今回ばかりは初日でないとという意気込みがありました。
日本のファンとしては、なぜ日本語の歌詞のある Teo torriatte が入っていないのかしら? という思いは隠せなかったものの、映画は、俳優も、脚本もとても素晴らしかったと思いました。特に若い世代の人々にクイーンを知ってもらえることが何よりも嬉しく感じました。ライブエイドのシーンもよくここまで再現できたと感心しました。
それでも映画の最終盤で本物のフレディたちの映像が出た瞬間、突然血が騒ぐのがわかりました。あぁ、やっぱり本物でないとダメなんだと感じました。
15歳の時から、私の半生はクイーンと共にあったと言っていいほど、多大な影響を受けてきました。けれども白状すれば、大人になって英語を理解するようになるまで、ボヘミアン・ラプソディーの歌詞の意味を私はまったく理解していませんでした。
ボヘミアン・ラプソディの歌詞の意味を知ったのは、実はフレディが亡くなった後のことでした。1991年に喫茶店で嗚咽を漏らした後、改めて聴いてみたら物凄い内容だったことを知って、「今までの自分は何だったのだろう」と愕然としたことをよく覚えています。
それ以来30年、スカラムーシュとは誰なんだろう、なぜこのような展開になるのだろうかと不思議に想い続けてきましたが、今回の番組で錦織健の「意見」を聞いて、長年に渡る疑問がようやく解けたような気がしました。さすがに本職のオペラ歌手は違う!と感激しました。
人生において忘れられない一曲がもしあるとすれば、私にとっては、ボヘミアンラプソディではないかと思います。