270.顧問の歌声

昭和57年(1982年)に大学を卒業して入った会社で、私は社長室秘書課に配属されました。その社長室フロアの一角に「顧問」のための空間がありました。大きな窓に面したそこは半透明の背の高いパーティッションで仕切られていて、マホガニーのどっしりとした机と、ゆったりとした肘掛け椅子が置いてありました。

毎週木曜日の10時頃に顧問は出社しました。すらりと背の高い白髪の紳士でした。いつもダブルの背広をおしゃれに着こなしていました。私たち秘書課員が、出社した顧問にお茶を出すと「ああ、ありがとう」と言って持参した新聞紙に目を落とすのでした。

お昼時になると「ちょっと出かけてきます」と言って顧問は出かけていきました。私たち秘書課員は、時々地下のレストラン街で課員全員分のお弁当を買ってくることがありましたが、そういう時に顧問に声をかけていいものか私はいつも迷いました。なぜなら、顧問の仕事内容というか、社内での立場がよくわからなかったからです。

社長や副社長のような役員は分刻みのスケジュールの中、顧客との会食や、お弁当付きの会議も多く、滅多に社内でひとり昼食を取るということはありませんでした。まれにお昼を社内でとなれば、それは大急ぎとなり当時虎ノ門にあったフランス料理店や日比谷の東京會舘までサンドイッチを買いに行き、資生堂の缶詰のスッポンのスープを温めて一緒にお出しするとか、お鮨屋さんに好みのネタで少しだけ握ってもらうとか色々と準備が必要でした。

けれども顧問は午前中に出社して夕方帰宅するまで、お昼時に出かけるだけで誰とも話すこともなく、ただただ新聞を読んでいるだけだったのです。分刻みのスケジュールということもないので、私たちが昼食の用意をする必要はないようですが、かといって声をかけないのもなんだか仲間外れにしているようで申し訳ない気持ちになりました。

もし社長や副社長のような立場の方だとすると、私たちが食べる親子丼とか焼きそばのような、そこら辺で売っているようなお弁当では失礼に当たるような気もするのでした。顧問は、私がお弁当のことで心を痛めていることなどもちろんご存じないので、お昼になると飄々と出かけていき、しばらくすると「ただいま」と戻ってきて、私たちが午後のお茶を持っていくとまた新聞に目を落としているのでした。

顧問の仕事というのは、新入社員の私にはまったく不明でした。日なが一日新聞を読んでいるだけなのです。新聞もよくもそんなに読むところがあるなぁと不思議に思うほどでした。

半年くらい経った時、初めて顧問のところへひとりの役員がやってきて、ふたりで空いている応接室に入っていきました。私はお茶を持っていったのですが、何やら仕事の話をしていて、なんだかとてもホッとしたことを覚えています。

◇ ◇ ◇

その頃、思い切って「大したものではありませんが、秘書課員と同じものでよければお弁当を買って参りますが、いかがなさいますか」と尋ねてみたことがありました。すると「いや結構です」とにべもなく断られてしまいました。そしてお昼時になると顧問はまたいつものように「ちょっと出かけてきます」とふらりと出かけていくのでした。

けれどもその一言がきっかけになったかのように、顧問との関係に少し変化が生まれました。お茶をお出しするとき「涼しくなってきましたね」とか「昨夜の雨はすごかったですね」などと天候の話などをするようになりました。

そんなある時、私ともうひとり一緒に秘書課に配属された新卒の女性社員にケーキを買ってきてくれました。昼食の帰りにいくつかケーキの入った箱をぶら下げて「はい、君たちにです」と手渡してくれたのでした。その時は、早速、紅茶をいれて顧問にもケーキをお出ししたのですが、「これは君たちのだよ」と困ったような表情をされました。

◇ ◇ ◇

それからまた半年か一年ほど、毎週木曜日、顧問は出社し、新聞を読み、昼食に出かけ、午後も新聞を読んで、夕方帰宅する、という単調な日々が続いていました。もう役員が訪ねてくることもなく、ますます顧問は一体何のために出社しているのだろうという謎は深まるばかりでした。

ある朝お茶を出しに行った時、顧問が「たまには食事にいきましょうか」と私に声をかけてくれたことがありました。お誘いは、同僚の女子社員と私のふたりにでした。このようなお誘いは、是非もなくお受けするものだと思い、ある晩銀座だったか日比谷だったかで夕食をご馳走していただきました。実はどんなところで何をご馳走になったのかさっぱり覚えていません。

印象に残っているのは、食事の時に「顧問はどういうお仕事をなさっているのですか」と常日頃の疑問をぶつけてみたら、「私は役人だったんですよ」という答えが返ってきたことです。私も同僚も世間知らずの上に勘が鈍く、それが何を意味しているのかさっぱりわかりませんでした。質問と答えが噛み合っていないと思ったことをよく覚えています。

しかたがないので「なぜ役人になろうとお思いになったのですか」と更に尋ねると、「蛙の子は蛙だからね」と顧問は答えました。私がますますキョトンとしていると「なに、私の父親も役人で、代々役人なわけですよ」と仰ったのでした。

役人とは公務員なのに、なぜそれが世襲が当然のように仰るのだろうととても不思議に思い、その疑問はずっと私の中に残り続けました。

◇ ◇ ◇

顧問は天下りしてきた元お役人でした。インターネット時代になって、覚えていた顧問の名前を検索してみたら、本を何冊も出している官僚だったことがわかりました。それも相当の地位についていたいわゆる高級官僚でした。

新入社員には、天下りの意味も役割も少しもわかっていませんでした。顧問といえば新聞とお弁当、それにケーキという連想しかありませんでした。

昭和49年(1974年)6月から12月まで「週刊朝日」に連載されていた城山三郎の「通産官僚たちの夏」が、『官僚たちの夏』と改題され単行本として出版されたのは昭和50年(1975年)のことです。通産官僚とは、通商産業省、つまり今日の経済産業省、経産官僚のことです。この本は1996年と2009年に二度テレビドラマ化がなされています。

顧問が元役人だと聞いた時には、この本のことを連想しなかったので、おそらく私が読んだのは1984年か1985年のことだったと思います。連載・出版がなされてから約十年後のことでした。敗戦後の日本を立て直し、官民一体となって高度成長を成し遂げようとする気骨ある官僚たちの活躍の姿を知りました。

顧問は通産省の出身ではありませんでしたが、食事をした時の会話の断片を接ぎ合わせると、一高、帝大、高文試験(現在の国家公務員試験総合職試験に継承されているかつての高級官僚の採用試験)に合格した人物だと思われました。

そういえば大学生の時に、大教室で当時は国家公務員上級試験と呼ばれていたこの試験の説明会があって、何を間違ったか私も紛れて聞いていたのですが、あまりに私の人生とは無関係に思えて、途中でこっそり抜け出した記憶があります。そもそも私大の学生にはあまり縁のない試験でした。

ずっとのちにインターネット書店で顧問のお書きになった本を取り寄せてみたら簡単な経歴が載っていて、私の想像はほぼその通りだったことがわかりました。知らなかったのは帝大法学部を卒業したあと役人になり、それから志願して海軍士官として外国で終戦を迎え、復員後に官僚に復帰し、その後役人としては最高位といっていい出世を遂げていたことでした。

◇ ◇ ◇

一度食事に連れて行っていただいてからは、顧問と私たちの距離はぐっと縮まりました。お昼ご飯は、近所の会社に天下っている元の同僚や部下と約束していることもわかり、顧問のお弁当のことで毎週心密かに思い悩んでいた私の胸のつかえも取れました。お土産のケーキやクッキーもよく買ってきてくださいました。

その頃の顧問は、おそらく60代半ばの丁度今の私くらいの年齢だったろうと思います。けれども、22、3歳だった当時の私から見ると、自分の父親よりも、また勤務先の社長や副社長や常務などの役員よりもずっと年上の、白髪のおじいさんに見えました。

しばらくして、また食事に誘ってくださいました。令和の時代と違って、当時、職場の目上の方に食事に誘っていただいたら、それは絶対に行くものであって、断るという選択肢はありませんでした。こう書くと嫌々言ったように思われてしまいそうですが、決してそんなことはなく、またいろんなお話を聞かせてくださるのだと、楽しみでした。今度は銀座で食事をご馳走になりました。

その時「顧問のご趣味はなんですか」と伺ったら、庭の薔薇の手入れだとおっしゃったのが忘れられません。庭の入り口に薔薇のアーチを作って季節ごとに色々な色の薔薇が咲くように工夫しているということでした。国電の或る駅名をあげて、この駅から我が家は近いんですよと、机の上に指で駅から家までの道順を描いてくれました。一度いらっしゃいと言われているようでした。

そして二次会で「歌声喫茶のようなビアホール」に連れて行ってもらいました。

お店の従業員が全員、アルプスの民族衣装のようなエプロン姿でした。テーブルは昔の修道院にあったような長い板でできていて、見知らぬ人同士がひとつの長いテーブルに並んで腰掛けていました。

そこは、ビアホールで、皆んな大きなジョッキでビールを飲んでいました。そして舞台上にはアコーディオンを弾く楽団員がいて、時間が来ると、皆んなが一斉に大声で唄い始めました。

顧問も、大きな声で唄い出しました。朗々とした美しいバリトンでした。ほとんどの唄は私も同僚も知っていました。歌詞がうろ覚えの曲もありましたが、歌詞カードか何かが準備されていて誰もが大きな声で唄っていました。私は驚きました。歌声喫茶が1950年代、60年代に流行っていたことは知っていましたが、1980年代半ばにも残っていたとは知りませんでした。

私にとって顧問は、この日まで日長一日新聞を読むだけの一老人に過ぎませんでしたが、顧問の青春時代が突然目の前に現れたように感じられました。その当時は若き日の顧問が戦争に行っていたことは知りませんでしたが、戦後、明日をも知れぬ日々から解放されて仲間たちとこのようなところで飲んで唄って自由な空気を謳歌していたのかとなんだか胸が熱くなりました。

◇ ◇ ◇

二度目に食事に連れて行っていただいてしばらくした頃、また役員の一人が顧問を訪ねてきて、あれこれ仕事の相談を始めました。私には詳しいことはよくわかりませんが、話の内容は、どうやら中央官庁とのやり取りに顧問の力が必要なので相談にのって欲しいというようなことでした。なるほど、顧問の真価はこういう時に発揮されるのかと私は嬉しくなりました。

それまで新聞を読むしかやることのなかった顧問が、にわかに活気づいたように私には見えました。木曜日だけでなく他の日にもやってきて、役員やその部下たちと何度もミーティングを持ちました。何かトラブルが起きて、大至急処理しなくてはならないのかななどと私は想像を膨らませていました。会議室にお茶を運んで行くと顧問は前屈みになって書類に目を通しながら説明を受けていました。

なんとなく私はウキウキした気分になりました。顧問が誰かに頼られているというには私にとっても嬉しいことでした。こんなことなら、ちょくちょくトラブルが起きるのも悪くないなどと密かに思っていました。

この問題はほどなく解決したようでした。顧問の力がどれほど助けになったのか私にはわかりませんでしたが、例の担当役員が「いやぁ、本当に助かったよ」と言いながら私たちの前を通って、社長室に報告に行きました。私は早速お茶を持って社長室へ入りました。

社長はこれまで顧問の存在自体をすっかり忘れていたようでしたが、今回のことで、突然、顧問の存在に意識が向いたようでした。私にはどのような説明がなされたのか、どのような判断が下されたのかわかりませんでした。けれども、その後、顧問が出社することはありませんでした。最後のお別れのご挨拶をする機会もありませんでした。「人間万事塞翁が馬」という言葉が脳裏をよぎりました。

顧問とは年賀状だけのおつきあいとなり、やがて、その年賀状も途切れました。

◇ ◇ ◇

その後、官僚の天下りは大きな社会問題となりました。

「天下りの元高級官僚」といえば、2019年に池袋で、車の暴走により死者2名を含む10人の死傷事故を起こした元高級官僚に対し、警察やマスメディアが特別扱いをしているとの批判が巻き起こり、厳罰を求める署名が39万筆以上も東京地検に提出されたという事件が記憶に新しいところですが、天下りに対する批判は、何も今に始まったことではありません。

天下りの定義に始まり、天下りが始まった歴史的背景、出版された時代の天下りの実態を詳細に調べあげて批判した書籍はあまたあります。

2007年6月23日号の週刊ダイヤモンドは「天下り全データ」と銘打って、衆議院が全中央省庁に調査命令を出して作成した2万7882人のデータを入手・分析し、天下り問題の本質を浮き彫りにするという特集を掲載しました。

天下り、とりわけ中央省庁のいわゆる高級官僚と呼ばれる局長以上の幹部の天下りに対する批判は強く、今から15年前に発行された東京大学出版会発行の著書『官僚』(2010)の「序章 官僚批判のなかで」において、京都大学の真渕勝氏は次のように記しています。

バブル経済が崩壊して以降,様々な問題が噴出して,霞ヶ関エリート官僚たちは四方八方から批判されてきた.金融機関が不良債権を迅速に処理できないのは,官僚が不良債権がどれくらいあるのか正確に把握していなかった,あるいは把握していたがどれくらいあるのか正確に把握していなかった,あるいは把握していたが責任を追及されるのを恐れて隠していたからなのではないか.公共事業を無駄と知りつつも,いつまでも続けているのは,官僚たちが産業界に天下りするためではないか.

真渕勝著『官僚』(2010)東京大学出版会 p.2より抜粋

このような批判を受けて公務員制度改革が叫ばれ、2008年には国家公務員制度改革基本法を元にこれまでの官僚主導型が見直され、2014年には内閣人事局が設置されると、一気に政治主導・官邸主導が強化されるようになりました。

大昔の『官僚たちの夏』を引き合いに出すまでもなく、いかに官僚たちが激務につぐ激務をこなしているのかは、虎ノ門辺りでの会合のあとなどどんなに夜遅くになろうとも、霞ヶ関の官庁街を通りかかれば、いつだって昼間と同じように窓から煌々と灯りがもれていてることからもわかりました。

しかしながら、官邸主導が始まってみると、明治以来優秀な官僚を輩出し続けてきた東京大学の学生たちは加速度をつけたように官僚よりも起業、あるいはコンサルへの就職を選ぶようになりました。自由な采配がふるえないようでは、官僚になってこの国を動かしていこうという魅力がなくなり、さらに天下りもなくなってしまえば経済的メリットすらなくなるからでしょう。

AERA2024年10月15日発売号(10月21日号)は、「人事院によると、2014年度春の試験に合格した東大出身者438人は、10年後の2024年で半分以下の189人まで落ち込んでいる」と報じています。

公務員制度という枠組みの中で、たいして高い給与も支払えない中で、いかに優秀な人材を集めるという意味において「天下り制度」というのはあったのかも知れないと思いつつも、もはや制度疲労なのか、この制度は機能しなくなってしまいました。

◇ ◇ ◇

近頃では「国電」と言っても若い人には通じなくなりました。私は普段あまり中央線を使うことはないのですが、たまに中央線に乗っていて顧問が住んでいたという駅に停まると、今も、薔薇のアーチの向こうで花鋏を手にした白髪の顧問の姿を思い浮かべてしまいます。


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